第2話 アーシュク

歌が聞こえる。遠く、果てのない森の彼方から。私はみんなの元からそっと離れて、木の枝に引っかからないように飛び立った。あのひとが来ている! 一年に一度だけの、あのひとの歌が聞こえる! 滝のような、情熱的な音。私たちの歌とは全然違う。もっと声は耳をとどろかせ、はっとさせる不思議な低い音を鳴らす。


初めて会った時、とても偶然だった。グヴィノの祭りのために、供物を探しに、友達と東の森へ入った。いつしか、その友達とはぐれ、私は独り、迷ってしまった。そして聞いたことのない音を聞いた。それが音楽だと分かるまで、しばらく時間がかかった。音をたよりに闇をさまよい出ると、昇ったばかりの朝日を受けて異邦人が眠っていた。知らない衣服、知らない質感を持っていそうな……さらさらとした……。それに丸い銀製の飾りがそこかしこに。袖も前掛けも、意味ありげで複雑な模様が刺しこまれている。縦長の帽子、白いベール。その中に隠れた真っ黒な髪。浅黒い肌。

何よりも、手元へ目が釘付けになった。木を削って磨いて作ったのだろう、ハチが踊る形をした何か。とてもこの世のものとは思えなかった。

そのひとが目を開けた。私は飛び退き、茂みに隠れた。大丈夫、この木はエラアーだから、気配を消してくれる。不穏なものを近づけたりしない。

「やあ、お嬢さん。何をしているんだい」

ばれていた。少なくとも、危害はないってこと? エラアーの選んだひとだもの。きっと大丈夫。何より、もう一度そのひとの音楽が聞きたかった。はっきりとした大きな声。きっとあの歌の主だ。

そっと顔を覗かせると、そのひとはゆったりと、エラアーの大木のうろに腰掛けて、手元の工芸品を爪弾いていた。やっぱり、楽器だったんだ。

「ねえ、それなに? あなた何? どうしてここにいるの? アルフヘイムは閉ざされているのに」

私はさらに木々の間に隠れつつ、質問した。もしものために教わった、ニンゲンの言葉で。なるべくお腹から、大きな声を出すのがコツだ。羽根を震わせて話すのでは、いけないんだって。

「おや、アラム語かな? ずいぶん古い……。私の言葉が分かるかい? ええと、歌でしか使わないから、自信がないな」

そのひとはアーシュクと名乗った。

「自己紹介代わりに、ひとつ物語を聞かせよう。出会えたことへ、あなたの神に感謝しながら」

アーシュクは、爪弾いていた旋律とは、また異なる音を奏で始めた。時々揺らして、哀しげに色彩を変化させる。まわりの空気全体が、色を持ったようだった。

物語はアーシュクの民の起源についてだった。


ある時、神が怒って洪水を起こした。

ノアという正しき行いのニンゲンと、その方舟に乗っていた動物だけが生き残った。

そして現在の全ての祖先となった。

ノアの子孫は、ここの近くに住んでいた。

しかし、バベルの塔を作ったことで、

神の怒りを買い、言葉も住む場所も、ばらばらにされてしまった。

(ここをアーシュクは掛詞で、バラルバラルと歌った。面白くて私は笑った)

さて、ハイクはノアの玄孫であった。

彼は巻き毛で、光り輝く大男だった。

ハイクの一族はバビロニアという国に暮らしていた。

バビロニアの王ベルは恐ろしくて、人々を苦しめた。

ハイクと一族は国を出ることにした。

目的地は祖先の土地、アララト山だった。

ベルは強大な軍隊を率いて、ハイクを追い詰めた。

最後に一騎打ちをして、激戦の末、ついにハイクの弓が相手の心臓を貫いた。

鎧ごと、一瞬にして勝負は決まった。

そして故郷の霊山へ帰ってきて、ハイカシューンという町を作った。


「私はハイクの土地から来たので、母語はアラム語じゃないんだよ。フルリとウラルトゥの、さらに後。君たちの西側と北方に住み始めた、新しい民族だよ」

「そんなお話、初めて聴いた。音も全部初めて。私好き。ハイカシューン、フルリ、ウラルトゥ、知らない。この森の外、だめだから。あなたはニンゲン?」

私は好奇心で一杯だった。アルフヘイムの神話と全然違うんだもの。クラが出てこないんだもの。

「私は人間だよ。あなたは違うのかい?」

息が詰まった。ニンゲンに名乗ることはもちろん、会話することも禁忌だったのを思い出した。エラアーよ、どうか私を隠して。

「私もニンゲン。だけど、森で育ったニンゲン……」

ふふふと笑う気配がした。

「名前を聞いても大丈夫かな」

名前? ニンゲンらしい名前って何だろう?

「ポルピュラー、私ポルピュラー」

本当の名前は、菫という意味のイーオンだった。同じ「紫色」をあらわした言葉を、とっさに名乗ってみた。

「ギリシアの子だったんだね。ポルピュラー。あいにくギリシアの言葉は話せないんだ。祖先の一つなのに、申し訳ない」

ギリシアってどこだろう? 興味は尽きないけれど、そういうことにしておこう。

「そうだ、もう一つ歌を聞かせよう。この楽器はタール。叙情の音色。桑の木でできている。今度は英雄ではなく、悲しい恋の話」


かつてアッシリアという強大な国があった。

そこの女王シャミラムは、ウラルトゥの王アラに恋をした。

しかし報われず、結果愛した男を殺すことになってしまう。


私は涙を堪えられなかった。ニンゲンの間に起こる争い事は、私たちとニンゲンとの溝によく似てる。木の陰で、私は膝を抱えて泣いた。ニンゲンは寿命が短いのに、殺し合うのね。本人たちの気持ちに反してまで。

「かわいそう。死ぬと塵になるだけなのに」

「そう、主は仰せられた」

またアーシュクが歌った。


男は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。

塵に過ぎないお前は塵に返る。


アーシュクが歌う様子は、私たちの祭祀様と似ていた。

「あなたの国も、歌って神様をたたえるのね。祭祀様なの?」

ふふふ、とまたアーシュクが笑う気配がした。

「私はただの流れ者だよ。道化師に過ぎない。

色んな場所を見てきた。人の浮く塩の湖、延々と終わらない砂漠。ラクダという生き物を使った隊商に従い、東方の異教にも触れた。世界は昔話以上に広かった。新たな騎馬民族が台頭する場所だった。かれらの珍しい物語を取り入れて、歌うことでしか生活をたてられなかった。

今は先祖の土地へ墓参りをしようと、旅の途中立ち寄っただけ」

私は少し寂しくなった。

「ハイカシューンは思ってた通りだった?」

アーシュクはかぶりを振った。そして悲しいアラの音楽を奏で始めた。

「もうすぐ行ってしまうの?」

アーシュクは空を見上げて、しばらく手を止め、黙った。さらさらと風に吹かれて、たわわに実をつけたエラアーが陽気に揺れた。

「もっと話して。塩の湖や、砂漠のことを知りたい。東には何があるの? どんなひとがいるの?」

「君は元気な子だね。良いなぁ。そんなふうに夢見た日が、私にもあった」

「お願い、もっと歌を聞かせて」

「いいとも。日焼けしたこの手で良ければ。純粋な君に歌ってあげよう。楽しいお話を。むかしむかし、チルビクという三男坊がいた……」

あっという間に太陽が天高く昇り、私はアーシュクの物語にすっかり惹き込まれていた。魔神デフをからかうチルビク。「りんごのうす切り」という名前をつけられた子と、へんてこな三人の仲間たちの話。地下世界から英雄を救い出す不死鳥。魔法の笛で、動物や自然を蘇らせる話。雷の神様から炎を盗む話。続きが気になるお話ばかり。エラアーの根本にうずくまっていても、胸はドキドキワクワクした。

両目を失った少年が強い戦士になって、国に戻ろうとするお話を聞いてる最中だった。アーシュクは、また今度と言って演奏をやめてしまった。

「どうしたの?」

「のどがカラカラだよ。君は元気だね」

「お水をとってきてあげる!」

「ありがとう、優しい妖精の子」

どきりとした。おずおずと私は彼の前に出た。アーシュクがどんな顔をしているのか、見るのが怖かった。

「知ってたの……? いつ気付いたの?」

「君がアルフヘイムと言った時から」

「えっ……」

気付かないうちに、口にしてしまったらしい。

「私、本当はポルピュラーじゃないの。イーオンっていうの」

「菫という意味だね」

また私は驚いた。私たちの言葉が分かるの? 

そう問いかけると、アーシュクは不思議そうに首を傾げた。

「ギリシア語とよく似ているだけだよ」

「私たちはギリシアなんて場所を知らないのに、どうしてニンゲンは知っているの?」

アーシュクは彼独特の仕草で、タールをポロンと鳴らして、木にしなだれた。精悍な横顔と、黒い瞳に胸が高鳴った。なぜ、私たちとあなたとはこんなにも違うのだろう。それなのに、似ている部分があるなんて。

「色んな場所を、行ったり来たりしていると、耳に入るんだよ」

またアーシュクは歌い始めてくれた。ゆったりと、弾き語る。古い古い伝説を。


かつて私たちの源は風であった。

風は鳥の姿をしていた。

そして、死者は鳥になって世界を飛び回る。

冬になると鳥は南へ渡る。

海の遥か向こうまで、そこをイーリイという。

カッコウは天国と地上を繋ぎ、人の寿命を教えてくれる。

人々は尋ねた。灰色のカッコウよ、どうかきっぱりと教えておくれ。

あと何年生きられるのか、死ぬのはいつか。

イワン王子は、死がどこにあるのかつきとめた。

遠い大海原のなかに、一本の樫のそびえる島がある。

ブヤーンという島だ。その木の下には箱がある。

箱の中にはウサギがいて、ウサギの中には鳩がいる。

鳩の中には卵があって、卵の中には針がある。

その針の中に死がある。

死とイーリイは同じ場所なのかもしれない。


「今のお話は、あなたが最初に話してくれた死の話とも、私たちの死の話とも違うのね。塵にならないのね」

「場所の数だけ、その土地の物語がある。今の歌は、私の祖先と近い人々の、大昔の信仰だよ。失われて久しい、口伝えの物語。君たちとは、ずいぶん違うだろうね」

「ねえ、私の村へ来ない? あなたをみんなに紹介したい。もっと歌を聞きたい」

むかし……とまたアーシュクはタールを揺らした。


アルフヘイムを見た若者がいた。

彼は嘘つきと嘲笑われ、仕事を失った。

養わなければならない家族がいたにもかかわらず。

かれは母国を滅ぼす兵へと志願した。

そして死ぬまぎわに、夢の土地と出会った妖精たちを懐かしんだ……。

ある者は森へ行った翌日、八十年ぶんも老いて帰ってきた。

ある若者は、死なない友人を探しに旅立った。

鹿や、ナイチンゲールや、虎と出会ったが、みな死は避けられないと言った。

やがて塔の上で美しい妖精と恋に落ちた。

数日後、母親が懐かしくなり、若者は戻ることにした。

そのとき、四つのリンゴを渡された。

決して落としてはならないと言われた。

だが、若者は旅の途中出会った動物たちの死体を見つけ、そのたびにリンゴを落とした。

一つ落とすごとに歳をとり、最後に様変わりした故郷を目にした。

そして老人となった若者はおのれで地面を掘り、最後のリンゴを落として死んだ。

アルフヘイムは人ならざるものの土地。

我々には暮らし難い、危険な場所。


「なぜそんなことを言うの? アルフヘイムはとても良い場所。みんな優しい。食べ物おいしいよ。私が頼んであげる。仲間になって」

アーシュクはずっと、会話や歌の間、私の方を一度たりとも見なかった。俯き、または空を仰ぎ、眠るように言葉を紡いだ。なぜ?

「また、来年。君が同じ気持ちであれば」

「本当? 来年なんてすぐ。ぜったいだよ! そのとき私たちの話、沢山教えてあげる」

アーシュクは目を閉じた。眠ってしまったようだった。私はそっと離れて、夢でも見ていたような心地で飛んだ。帰り道は、あのエウレシウスの星が教えてくれた。行く時には東の空から昇ろうとしていた。今と同じ日没だった。私はエウレシウスの星を目指して迷ってしまったから……反対の方向へ行けば、村へ帰ることができるはず。

アーシュクとの出会いは、神様が与えてくださったんだ。


次の年、またあの音楽が聞こえた。忘れるはずがない、アーシュクのタールだ。秋の訪れとともに、まるで渡り鳥のように、同じ場所に腰掛けていた。

「アーシュク! また来てくれたの!?」

「やあ、イーオン。久しぶりだね」

「ねえ、村へ来てくれないの? みんなには内緒にしてる。驚かせたいから。あなたと私、会ってないことにしてる」

「賢明な判断だ。無邪気な妖精さん。今日は何の話をしよう」

私はころりと、気持ちを物語へ持ってゆかれた。

「魔神デフとチルビクのお話がいい! でも、新しい場所へ行ったんでしょう? その話も聞きたい」

私は夕暮れまでアーシュクと一緒に過ごした。アーシュクはこちらを決して見ようとしない。けれど、私はじっと歌う横顔を見つめていた。なんて夢のような、素敵な時間だろう。きっとニンゲンは、私たちのように村全体で囲んで聴くんだ。ぜいたくに、独り占めするのも良いなと思えた。ニンゲンとの関わりは禁忌なのを、すっかり忘れていた。今二度目なのと、彼が私をクラと知っても、態度を変えなかったので安心していた。私は昨年より緊張していなかった。いつの間にか、木の根本でウトウトしてしまった。

目を覚ますと、夜中だった。誰もいない……。寂しくなって、ぽっと指先に光を灯した。お願い、森の精霊たち、私を家へ帰らせて。とん、と大きな柔らかいものにつまづいた。光を向けるとニンゲンの足。アーシュクが寝入っていた。良かった……。一人じゃなかった。今は、エウレシウスの星が西へ傾き始めたころだ。そんな時間まで一緒にいてくれたことが嬉しかった。光を近づけると、アーシュクは眩しそうに身じろぎした。私は彼を家族のように感じていた。だけど、アーシュクは距離を保とうとしている。その気持ちを尊重したかった。エラアーの上へ飛んで、葉を枕に、私も横になった。だけど、アーシュクとの時間が惜しくて、眠りたくなかった。

そうだ、今度は私が歌おう。アルフヘイムの歌。月が囁く時の歌。



アーシュクが身を起こすと、かさかさという音が頭上でした。昨晩は、安らかに眠った妖精のために、このオリーブの大木の下で一夜を明かした。心地のいい音楽を夢で聞いた気がする。こんな不思議な体験は、なんと歌にして伝えようか。誰も信じないのではないだろうか。妖精が故国の森に住まうなど。

この森へ足を踏み入れたのは、墓石(ハチュカル)を詣でに来たためだった。しかし初めから人づてに聞いた道。迷ってしまったのが始まりだった。食事はふところのパンだけ。腹をすかせながら、腰を下ろして、タールを弾いた。荷馬車か隊商が拾ってくれないかと。そうやって旅を続けてきた。そこへあの子はやって来た。飛んで火にいるように。

アーシュクとは職業の名前で、本来の名前ではない。ずっと、あの子に嘘をついている気分でいた。妖精の存在など、信じたくなかった。確かに、故郷にはアプリコットに妖精が宿るという逸話がある。それでも、各地の多様な、一貫性のない神話を聞いてきた者にとっては、信じがたいことだった。どこか近くの村の子だと思うことにしていた。空腹の末に頭がおかしくなった吟遊詩人と、世間に思われたくなかった。最初に出会って別れたあと、一年間、政治批判や英雄叙事詩を主に歌っていた。以前のように、神話を語ることができなくなった。

しかし、スバルが東の空に見える季節となって、不意に昨年の約束を思い出した。スバルを目指し、またこの森へ入った。そして、変わらないあの子に会った。夜の帳が降り始めたころ、眠ったその子を初めてよく見てみた。ブロンドの髪、白い肌、ギリシアの神話から抜け出たような衣服。そして昆虫のような大きな蒼い羽根が、呼吸とともに鱗粉を落とし、オリーブの根を光らせていた。

私には歌しかない。歌うことでしか、ものを考えることができない。愚かなアーシュク。日頃、作り話を本当らしく語っていた罰だ。現実と架空のものを隔てる境は、どこにあるのだろうか。ますます分からなくなってゆく。そうか、だからアルフヘイムは人を迷わせるのか。

翌朝、イーオンへ「また来年、君が同じ気持ちであれば来よう」と告げた。

イーオンは、少し寂しそうな表情をしたように見えた。というのも、妖精の特徴なのか、感情を読みとりづらい。ただ声の調子が元気ではなかった。

「本当に? アーシュクの歌、また聴ける?」

「楽しみにしてくれる客人がいる限り、また……来よう」


そのひとは季節の変わり目、夏の終わりになると来てくれる。秋から初夏までアルフヘイムは雪に閉ざされてしまうので、そのほんの少し前の時期に。私はいつも、楽しい昔話をねだった。村のみんなには秘密の一日。一日ぐらい、いいよねきっと。「何をしてきたの?」と聞かれるけれど、あっちの森の精霊さんと仲良くなったと言えば納得してもらえた。ここはアルフヘイム、美しい土地。アーシュクと一緒に歌うこともあった。ニンゲンの歌も覚えてしまったくらいだった。私たちの歌も教えてあげた。言葉に難儀したようだけど、旋律をタールで再現してくれた時の感激……。

だけど、十年経つと、アーシュクは咳ごむようになった。どうしてなのか、私には分からない。薬湯を煎じてみたけれど、効果がなかった。アーシュクは私をまっすぐ見て、ありがとうと言ってくれた。そして外の話を聞かせてくれた。私の歌を、チャイハネという場所で歌ってくれているのだと。

二十年経ち、きみたちの村を見たいな、と初めて言ってくれた。私は嬉しくて、飛び上がって、すぐに祭祀様へ知らせに行った。ニンゲンを招くことへ、渋る祭祀様を説得するには時間がかかってしまった。ようやく、そのニンゲンが死ぬまで村から出ないことを誓約するのならばと、許してもらえた。

私はすぐにとってかえした。美しい私の村へ招待して、それからみんなへ、アーシュクのとびきり素敵な異国の歌を聞かせてあげるんだ!

大木へ辿り着いた時、寒気がした。塵は塵に、灰は灰に、土は土に。アーシュクの身体は冷たくなってしまっていた。これは死だということは、小さな頃にウサギと暮らしていたので知っている。そしてそれは、あっけないものだということも。

アーシュクは、初めて会った時よりも何回りも萎んでしまった。手もゴツゴツになっていたけれど、タールを爪弾く仕草や、音楽や、優しい歌声はずっと変わらなかった。キスゲの花が一夜にして萎れて落ちるように、アーシュクとの日々はあっという間に終わった。

ニンゲンの葬儀は、そのひとの元々の習慣に沿うのだという。だけど、あんなに話を聞いていながら、私はアーシュクが何を信仰していたのか分からなかった。

ひとりよがりに話をせがむだけで、アーシュクの身の上も何を考えていたのかも、二十年間知ろうとしなかった。私はずっと、幼い子供だったのだ。一緒に歳をとれないことが、こんなに口惜しいものだなんて……。

墓参りに訪れたのだと、最初に言っていたっけ。それから、故国が近いのだとも。祭祀様に言われて、聖なる湖のふもと、ニンゲンの世界へ通じる川の源へ、アーシュクを埋葬することにした。

私はタールを持って、毎年秋になると、旅鳥のようにそこを訪れる。そして、死んだひとの、もし生きていれば、という歳月を数える。無駄なことを。

アーシュクは、彼の一生で、精一杯生きたのだ。私はただ、歌うことしかできない。


羽根の光が消えかけて、私は自分も"死ぬ"ということに気が付いた。タールを手放したくなかった。だから、アーシュクと一緒にイーリイへ行けるように、祭祀様へアララト山の裾野の湖に、私を葬ってほしいと頼んだ……。





集った皆様へお聞かせしよう、誠に不思議な体験を。

あなたがたが好むのは、サズで弾き語る恋の歌。しかし私はタールで弾く。

この歌は「Սարի աղջիկ(サリ・アグチク)」。皆の言葉で「ساری گلین‎; (サリ・ゲリン)」。"黄金の髪の乙女よ、おいで"という。山の中で、そのような乙女が私に教えてくれた旋律だ。

なぜ私が女の格好をしているのかと、あなた方は問いたいだろう。男しか入ることのできない茶屋になぜ女が入れようか。これは母の形見。そう、私はアルメニアからやってきた。サズ奏者よりも身分の低い、皆様の酌人(キョチェク)ですよ。

さあ、歌いましょう。妖艶に踊ってみせましょう。宿を用意してくれるのは誰かな? 私の値は高いとも。隣の国では歌の王者(サヤト・ノヴァ)として寵愛されたのだからね。


おいで、黄金の髪の乙女よ

あなたはミルクのように白い、天の雲のよう

私は菫を愛している

しかし何もかもが

こたえてくれないので

胸が張り裂けそうだ

決して地上へ降りてこない

私がそうさせない


Դլե յաման(デーリ・ヤーマーン) ※悲しみの叫びという意味

Դլե յաման(デーリ・ヤーマーン)

Դլե յաման(デーリ・ヤーマーン)


この愛はなんという愛だ

私に何ができる?

あなたは長く生き、いずれ離れて行ってしまうだろう

手の届かないところに暮らす

黄金の髪の乙女よ

清らかな天使


Դլե յաման(デーリ・ヤーマーン)

Դլե յաման(デーリ・ヤーマーン)

Դլե յաման(デーリ・ヤーマーン)


菫は棘となって私をさいなめる

悪魔なのか、喜びの乙女よ

永遠に美しく

山の上に暮らし

共に地上で過ごすことはかなわない

私がそうさせない


Սարի աղջիկ, օ՜յ, օ՜յ,(サーリ・アグチーク オイオイ)   

※山からやって来た乙女

Քարի աղջիկ, օյ, օյ,(カーリ・アグチーク オイオイ)    

※かたくなな心の乙女 

Քար սիրտ աղջիկ, օյ, օյ,(チャーシ・アグチーク オイオイ) 

※変わらない心を持つ乙女

Դլե յաման,(デーリ・ヤーマーン)             

※悲しみの叫び

Մանուշակ ջան, ջան։(マーヌシャーク ヤンヤン)     

※愛する菫の乙女よ 


あなたは太陽、星の炎

私はキョチェクでありながら

月明かりに照らされた夜

禁じられた恋をしてしまった

ああ、亡くした両親はどこにいる?

この傷に毒をぬっておくれ

あなた方の元へ帰りたい


Սարի աղջիկ, օ՜յ, օ՜յ,(サーリ・アグチーク オイオイ)

Քարի աղջիկ, օյ, օյ,(カーリ・アグチーク オイオイ)

Քար սիրտ աղջիկ, օյ, օյ,(チャーシ・アグチーク オイオイ) 

Դլե յաման, (デーリ・ヤーマーン)

Մանուշակ ջան, ջան։(マーヌシャーク ヤンヤン)


私は歌を生業とする者。吟遊詩人(アーシュク)と人は呼んでくれる。しかしサズを持たず、女の格好をした、変わり者。キョチェク上がりの、男になれないものである。

本名はティグラン・アイヴァジャンという。生まれた場所は、戦で焼け野原となった。軍人(パシャ)にみそめられ、連れてゆかれた。両親の遺体の前で、信じられない苦痛を与えられた。血を吐きうめきながら、将来必要になるからと言われて、父のタールと母の衣服を持ち出した。

その日から、私は本来の私を見失った。男にくみしかれる恐ろしさは言葉にしようがない。身体を奪われ、感覚を狂わされ、精神も毎日殺された。この悲しみをキョチェクの集団の中で共有し、語りあえることはなかった。みな同じ体験をしていたが、明日の飯のため、芸を磨くことに必死だった。

十代半ばの頃、少年奴隷を巡り、パシャどもが殺し合いを始めた。ざまあない。しめたものだ。そのすきに、通りすがりの隊商へ、拾ってくれと頼んだ。

手元にあるのはタールだけ。絹の道を行き来し、路銀を稼ぐために各地で珍しい歌を集めた。世界の半分を支配する山の国で、詩と千夜一夜物語を学んだ。新しい異教の礼拝も教わった。レバントにおける古い信仰の、聖なる文書を読む声音も真似た。草原の民の哀切な歌も覚えた。北の山の、誇りをそのまま表したような叙事詩も。笑い話も、各地の創世神話も。人気がありそうなものは全て。タールで弾けるように工夫しながら。その土地の言葉を知り、人々と親しくなることが鍵だった。

これが私の生き抜き方であり、唯一の世渡りの手段だった。そうして長い時間を過ごしてきた。一日の食べ物のために、座して費やす。今も結局、男の相手をする。聖典で禁じられていることを。キョチェクの境遇を脱してもなお、なぜか自滅行為を繰り返す。もう修復できない。地獄に堕ちるだろう。なんて醜いのだろう。いくら洗っても、身体から腐った臭いがする。もはや父母が残したものなくしては、私は生きてゆけない。


ある秋のこと、故郷へ帰ることができる道へ入った。絹の道からはずされた、いまだ戦の冷めやらぬ場所。誰もが迂回路を使い、避ける場所。暮らす人は、いかほど苦労していることだろう。せめて、私の元の信仰へ触れることができるなら、話の種にはなるだろう。

私の崇める神は、他のどの宗教とも厳密には違っていた。上手く順応してきたが、やはり元の生活が恋しい。失った家族のおもかげ。使わない言葉。教会のレリーフ、あの独特な模様。墓参りがしたいと頼み込み、ラクダを一頭借りた。霊山の裾野の湖で、ラクダの主と会う約束をした。

いつしか砂漠ではなく森となり、夕闇で道を見失った。太陽がすっかり沈み、野営をしなければならない時間となった。仕方がないのでラクダを休ませ、その体にもたれて眠ることにした。

夜がますます更けると、狼の遠吠えがした。うっかりしていた。この地には古くより、大きな狼が現れるという。ラクダを起こし、薪を並べ、遅ればせながらの火打ち石をならした。しかし手が震えて、上手く火がつかない。早くしなければ。ラクダが悲鳴をあげた。闇でよく見えないが、苦しんでいる。オオカミの唸り声が、そこかしこで聞こえる。取り囲まれている。ジャッカルと違いやっかいなのは、生きた動物を狙うことだ。そして逃げると追いかけてくる。私はようやく火をおこした。のろのろと松明を持ち、じっと堪える。狼たちは、ラクダを得たことで満足したのか、じりじりと去って行った。恐ろしい夜だった。

これまで何度も死んだ方がましだと思ったにもかかわらず、私は全身全霊で生きたかった。寝入れば火が消えているのに気付かず、また襲われるかもしれない。ラクダを失った……。湖は遠い。故郷もまた人の足では遠い。この先どうするべきか途方に暮れた。タールと自分だけになってしまった。しばらくふくろうの鳴き声を聞いていた。

なぜか、自然と弾き語っていた。幼い頃、父母から伝え聞いた昔話を。誰にも話せない故国の言葉を。音を出すことで、獣を退けることが期待できるだろう。夜が白み始めて、安心した。そのまま、うつらうつらと眠りに陥った。

浅いまどろみの中、虫の羽の音を聞いた。まだ夢でも見ているのかと思った。妖精が、自分の腰掛けているオリーブの影に隠れていた。大きな蒼い羽根、不思議だ……。そうか、疲れた頭の見ている夢なのだ。ついに狂ったか。

私はできるだけ、優しく妖精と接することにした。まだほんの可愛い女の子だった。髪を細かに編み込み、大きな緑の瞳をきょろきょろさせていた。純粋な好奇心で満ちていた。彼女は私の歌を、とても素敵だと言ってくれた。素晴らしい、初めて聴いた豊かな音だと。笑い話にくすくすと笑い、悲しい恋物語に涙を流した。登場人物に心から同情した。目の前に本当にいるかのように、空想上のものではないかのように、祈った。

こんなに純朴な観客は、私にとっても初めてだった。日銭を稼ぐことしか頭になかったのに、彼女の前では、歌うことが楽しかった。物語ることが楽しかった。おのれの旅の意味は、こうして誰かを楽しませることにあったのだ。物語へひたり、時間を共にするということだったのだ。数十年、生業としながら、彼女に出会って初めて知った。私の流浪の旅は無駄ではなかった。これがもし、願望を写した夢であったとしても、嬉しかった……。

ただ次第に、彼女を失望させるのではないかと怖くなった。私は矮小な人間でしかないことを、不意に気付くのではないかと。一つ、二つ、三つ、四つ……私の歌える物語の種類は少ない。それでもいいのだろうか。

また、私自身が現実に引き戻された。腹がすく。太陽が西へ傾く。夜の帳がおり、冷気が満ちる。早くここをたとう。町へ行かなければ、一歩でも森を出なければ、死んでしまうだろう。引き止める彼女の声に、後ろ髪を引かれた。

「私、あなたの歌好き。タール好き」

飽きないのだろうか? はたして、妖精とはそういうものなのだろうか? 自分が、純粋さ全てを体現した精霊を、汚してしまうような気がした。

「また来年、君が同じ気持ちなら来よう」

そういう昔話を思い出しながら、口にした。

私はもう、戻らないつもりでいた。驚いたことに、森は僅か半日で出ることができた。アララト山が頂に雲をのせている。もし、かつて本当に洪水があったとしたら、あの妖精の一族も一緒だったのだろうか? それとも……人間の身勝手な空想だろうか。

私は、人間が中心の聖典を信仰する民。神は一柱しかおらず、人間が全ての動物の支配者という荒唐無稽な物語を崇めている。それと違う物語をいくつも見てきた。既存のものを組み合わせた聖典を、本気で信じさせる新興宗教も見た。一体どうして、自分自身を信じられるだろう。妖精は……本当にいるのか? 今は誰も信じない、一神教の時代だ。古代の多神教は、北の山奥か東の彼方にしかない。世界は全て信じられない。人間は誰も信じられない。だが、彼女に与えられた充実感は本物だった。


一年に一度、アララト山の裾野の森は開かれていた。他の時期は、いくら彷徨ってもオリーブの大木を見つけることができなかった。それでも、もう一度彼女に会いたかった。何者かの作用でか、あるいは自然の摂理でか。秋のいっときだけ、オリーブの大木を見つけることができた。見上げるほど巨大なオリーブ。たわわに実る時期。そしてタールを掻き鳴らすと、彼女が飛んできてくれる。妖精の元で、私は歌う。彼女も一緒に歌う。同じ歌でも、新しい歌でも、毎年楽しんでくれた。いつしか、ここへ通うことが旅の目的で、最大の喜びになっていた。

はるかな故郷、荒れ果てた村落。幼い頃は父母の遺体が頭を離れず、苦悩したものだった。しかし、その傍らに、確かに幸福は存在したのだ。聴いてくれるものがいて初めて、私の歌は完結する。誰かとともに歌うことで、心は満たされる。そのために生きていたのだと思える。タールがあって良かった、人間であってよかったと思わざるをえない。

彼女は外の世界を知りたがるので、アルフヘイムへは行くことはできない。昔話が警告を出している。何年経っても彼女は子供のままだった。見た目も精神も。私はその、純粋な心を失望させたくなかった。好奇心を満たす物語を歌えなくなることで、つまらないと言われ、離れられることが怖かった。子供によくある移り気さが怖かった。だから、一線を引いていた。

ある冬、肺炎を患い、しこりが残るようになってしまった。緩やかに、私の命は終わろうとしている。あと何年、何日生きることができるのだろう? 私の人生は歌うことしかできないままだ。生計をたてるには、それしかないと思っていた。

なぜなのか? 歌は私の一部で、全てだったからだ。

なぜだ? 他のどこかで定住して、結婚できずとも玉探しや、キャラバンサライでの商売や、小作人でも良かったのではないか?

父と母がタールを弾いていたから……という理由では、だめだった。ずっと頭の中で迷っていた。しかし、彼女と歌うことで答えを見つけた。アルフヘイムは迷わす場所ではなかった。彼女こそ、魂のよりどころを示してくれた。長らく歌とタールは他人のためにあった。

何よりも、忘れてはならなかったことがあった。

歌は私の苦しみ、私の喜び、心の発露。私の悩み、私の自由。この世の全ての感動を、美しいものを、音色にしたい。感じてきたあらゆる苦痛を、悲しみを、口にせずにいられようか。目に映る全てのものを表現できれば、どんなに幸せだろうか。きっと自分が好きになる。向日性をそなえた心に教えられた。

一緒に歌おう、星巡りの歌を。君に捧げよう、別々の家であるために引き裂かれた恋人の話を。さあチャイハネで歌おう、素敵な妖精と出会った冴えない男の話を。人間へ夢を、君へ夢を……虚構という現実離れしたカタルシスをあげよう。

緩やかに私の命は尽きてゆく。喘息は日に日に悪化する。肺が血を吹き、歌えなくなる。そして私は、次に彼女に会う日が最期だと感じる。彼女はもう、待つ必要がなくなるだろう。死者は鳥になり、風とともに舞う。願いでしかない、聞きかじりの曲を爪弾く。私の視界は暗くなる。

アルフヘイム、もし本当にあるのなら、一度は行ってみても良かったかもしれない。いいや、これでかまわないのだ。汚れた人間が入るべき場所ではない。あの子の一族を、地に堕とすわけにはいかない。私は挑戦しない人生を送った。


オスマン帝国に、アルメニア出身の吟遊詩人がいた。その人物が残した歌は、今では中東各地で愛唱されているが、元の内容は違っていたようだ。口伝えで万人向けとなり、キョチェクや菫のことは失われた。題名だけを残して、現在の形に落ち着いている。

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