檸檬
馬村 ありん
檸檬
母さんの手が、その黄色いごわごわした皮にナイフの刃を立てた。厚い皮に刃がすべり込み、甘く酸っぱくさわやかなにおいがキッチンに広がった。
「できたわよ。ちゃんとみんな二枚ずつ食べるよ」
母さんは言った。
父さんはテレビに目をやりつつ、野太い指で一枚の輪切りを手に取り、口に運んだ。
テレビは昨日の煙害による死亡者を報じていた。青森六人、岩手十二人、秋田八人……。毎日少しずつ死んでいく。少しずつ。
「檸檬嫌いだよ」
妹が言った。
「嫌いなのは分かるけど、ちゃんと食べなきゃ煤煙にやられちゃうわよ」
「嫌いだ」
妹はまだ七歳で、世の中で何が起きているのか分かってなかった。
母さんはマニキュアのついた指で、輪を描く檸檬の皮の一端をちぎり、ひとつの黄色い直線を作る。その直線にぎざぎざ状にへばりついた実を少しずつ指に取り、妹の口に運んだ。
僕も檸檬を手にとった。輪切りを二つ折りにして口に運んだ。前歯で噛みしめると、果肉と繊維質がつぶれて強烈な酸味が舌の上に広がった。
食べ終わって口をぬぐった。唇が少しヒリヒリした。
ニュースキャスターは話していた。きょうは大陸側から張り出した煤煙気団が日本列島をおおい、各地で煙害をもたらすでしょう。
洗濯には向きません。外出の際は
「中国が悪いんだ」と父さんは言った。「悪いものはいつも中国から来る」
「場所は中国でもこの煙害を起こしたのはアメリカ企業だよ。しかも事故を起こした技術者は日系人だ」
僕がいうと食卓は静まり返った。
「酸っぱい。嫌い」
レモンを食べながら不平を言う妹の声だけが聞こえていた。
晴れたので久々に登校日になった。ガスマスクのない外出は久しぶりだった。どこもかしこも
並木のサルスベリは枝の先っぽまで黒くコーティングされていた。道路標識や道路看板には煤のぬぐわれた跡があった。
ホームルームの時間になり、担任教師が教壇に立った。
「ウェブでは皆さんと毎日顔を合わせていますが、こうして会うのは実に三十一日ぶりですね。すでにご存知とは思いますが、この間に峰田さんと富山さんが亡くなりました。いずれも煙害による肺炎です。五分間の黙祷をしたいと思います」
僕たちは黙祷した。
昼食の時間になった。生徒たちは教室のあちこちで弁当を広げた。
僕も机の上にセパレートタイプの弁当箱を広げた。弁当には小ぶりなタッパーウェアが付けられていて、中に檸檬の輪切りが入っていた。
「久しぶりだな、龍彦くん。元気そうでなによりだ」
「長田くん。久しぶり。君も元気そうだね」
長田くんは断りもなく僕の机に椅子を向けて座り、持参した菓子パンを食べはじめた。勝手知ったる仲だ。
「龍彦くん、君も檸檬を食べるのか。無意味だ。うちではそんなもの食べない」
長田くんは僕のタッパーウェアを目にして言った。
「檸檬のビタミンCが煤煙の毒を中和するってYouTubeでもテレビでもいろんな人が言っているよ」
クラスメイトの大勢も檸檬を食べていた。しかめっつらをしながら果肉の断片をせっせと口に運んでいた。
「この手の話はデタラメだよ」
医者の息子らしい学者めいた口ぶりで長田くんは言った。
「そうなの?」
「ああ。奴らはみんな嘘つきなんだ。自分では証拠を一切示さないで、アメリカで実験に成功したとか科学誌に論文が提出されたとか適当なことを言うんだよ。うちじゃサーキュレーションに気を使ってるけど、そのほうが効果的だよ」
僕は手元の檸檬を見下ろした。食べやすいようハチミツに浸かっていた。
「彼らはどうしてそんなこと言うんだろう」
「みんなが安心するからさ」長田くんは言った。「煙害という前例のない被害の中でみんな安心を欲しがっている。そんな状態だから、それらしい話にみんな飛びついてしまうんだよ。金の子牛みたいなものだね」
「安心させてどうするんだろう」
「人の関心を買いたいとか。あるいは檸檬輸入業者から金をもらっているのかもしれないな」
長田くんは菓子パンを食べ終えた。
「授業が始まるまで外に行ってくる。久しぶりに体を動かしたい。サッカーでもするかな。君はどうする?」
「僕は教室にいるよ」
「そうか」
僕はためらった末、檸檬を食べた。ハチミツの甘味が檸檬の酸味を緩和していて食べやすかった。
翌日は煤煙の強い日だった。窓の外は真っ黒な雲がおおい、一センチ向こうだって見通すことができなかった。煙から逃れてきた一匹の蝿が窓の向こうに止まり、じっと耐えていた。
ドアを一枚隔てた向こうから父さんの声が聞こえてきた。父さんは誰かと熱心に話をしている。ウェブ通話中なのだ。
僕と妹は机に座って学校の宿題をしていた。四則計算に四苦八苦する妹に僕はおはじきを使って説明した。妹は理解が進むと面白そうに問題を解いていた。
午前中に仕事を終えた母さんは、午後は家事をしていた。
ドアの向こうで「お疲れ様でした」とあいさつの声が響いた。それから父さんが居間に入ってきた。
「ごほっ! ごほっ!」
父さんは急にせきこんだ。背中をまるめ、ぜいぜいと体を引きつらせていた。母さんが駆け寄り、その背中をなでていると、父さんは落ち着いた。でも、口を拭ったスウェットの袖に血がにじんでいるのを僕は見逃さなかった。
「檸檬だ。檸檬をくれ」
食卓にさわやかな匂いが広がった。母さんが輪切りの檸檬をお盆に載せてきた。
「あなた、食べてちょうだい」
母さんが言った。
「あー。酸っぱい。酸っぱい。クソ、酸っぱいな」
父さんは顔をしかめながら檸檬を食べた。
母さんは父さんの背中を抱きしめた。父さんは檸檬をたべて酸っぱくなった口の中にコップの水を流し込んだ。
「大丈夫だよな。俺?」
テレビがつけっぱなしになっていた。きょうの死者情報が報じられていた。全国で百二十人。我が県では七人。
僕は檸檬の果肉をかみしめた。
強烈な酸味が舌を
「おいしい? おいしいわよね?」
母さんが泣きそうな顔で妹と僕にたずねた。
「おいしいよ」
僕はそう言ってほほえんだ。
終わり
檸檬 馬村 ありん @arinning
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