第8話 只、穏やかな空間

 それからしばらくして、剛は家に素子を連れてきて、唯花に紹介した。剛よりも十歳ほど若い三十代の女性だった。こういう大人しそうな女性が不倫をするのか、と唯花は素子をまじまじと見た。


 理恵子とは違うタイプだと感じた。教師だった理恵子はどちらかというと言いたいことはハッキリ言い、凜とした女性だったが、素子は男性を立てるタイプなのだろう。


 唯花にどう話しかけたらいいのか戸惑っているのは手に取るように分かったので、唯花はニコリと笑って自分から挨拶をした。唯花と一緒に暮らしても良いと思ってもらえないと、復讐は始まらない。


 剛は理恵子の性格も知っているし、唯花のことも生まれたときから見ている。唯花の態度に警戒をしていたが、素子は唯花が自分を受け入れてくれたと思ったようだ。

 唯花のことを「唯ちゃん」と呼び、少しずつこの家で過ごす日が増えていった。


 唯花は春から長距離通学の高校生になることが決まり、家に居る時間は短くなる。これでいい。唯花自身も素子と同じ空間にいるのは本当は反吐が出るくらい嫌だったし、素子も先妻の子が居るのは心の底では嫌に違いないから。


 剛が素子と再婚したのは、唯花が高校に入学するタイミングだった。クラスメイトに両親の仕事を聞かれたときは、共働きの会社員と答えた。


 素子が母親らしいことをしようとすると、唯花はだんだん反発していった。本当は素子のことを認めていない、そういう態度を表すようになった。

 困った素子の顔を見るのは小気味良かった。と同時に、自分の醜い部分が増えていくようで気持ち悪い。


 試験勉強で遅くまで起きていたとき、飲み物が欲しくなりリビングに行くと、剛と素子の会話が聞こえた。


「やっぱり唯ちゃんと一緒に住むのは早かったんだと思う。唯ちゃんにとっての母親は、まだ理恵子さんなんだもの。私を見る唯ちゃんの目が怖いの。唯ちゃんの態度が怖いの」

 剛が素子の背中にそっと手を置いたのを見て、唯花はリビングのドアを勢いよく開けた。


「私が怖い? あなたにやましい気持ちがあるから怖いんでしょ」

 驚き振り返った素子の目は涙で濡れていた。その表情にさらに怒りがこみ上げる。

「悲劇のヒロインぶるのはやめてよね」

「唯花! なんだその言い草は」

「あんたに私を叱る資格はないよ。あんたは金だけだせばいいのよ」


 剛が立ち上がり、唯花に近づくと思い切り頬を打った。勢いで唯花は壁に身体を打ち付ける。

「剛さん! やめて!」

 さらに唯花を殴ろうとする剛に素子はしがみついた。頬がじんじん痛い。


「言い返せなくて暴力。最低な男だね」

 唯花は立ち上がるとリビングを出た。頬が痛い。胸が痛い。胃がムカムカする。

 唯ちゃんにとっての母親はまだ理恵子さん? そんなの当たり前だ。冗談じゃない。素子は剛の妻になったかもしれないが、私の母には絶対になれない。私が認めない。奥歯を噛みしめながら部屋に戻った。


 剛と素子とは完全に決裂した。

 唯花はベッドに突っ伏して声にならない叫びを上げた。

 大学卒業までは居座ろうと思っていたけどもう限界。高校を卒業したら家を出る。この町も出る。ここで育った思い出は何も要らない。友達も必要ない。


 唯花は担任の鈴木に進路相談を持ちかけた。入学した高校の偏差値はとても低い。でもどうせならレベルの高い大学に入って剛と素子を見下してやりたい。

 剛が出た大学よりは絶対レベルの高い大学に入ってやる。そのためにはこの高校で何を頑張れば良いのか。


 親身になって話を聞いてくれる鈴木に、唯花は少しずつ家の事情も話し始めた。

 鈴木は唯花の大学受験のためにやれることは全てやると言ってくれた。この高校からまずは国立大学進学者を出したいというのが学校側の悲願でもある。

 他の教師たちの協力も仰いで唯花をバックアップすると言ってくれている。それに応えるためにも唯花は学年トップであり続けなければいけない。


 *


 夕食後、風呂から出て部屋で勉強をしていた唯花は問題集を閉じて大きく伸びをした。時計を見ると日付が変わろうとしていた。今日はここまでにしようかな、そう思い席を立つ。部屋のドアを開けると静かな空気が唯花を包む。祖父母たちの部屋は一階で、そこから音はしてこない。ぐっすり寝ているのだろう。


 唯花は自分の部屋の前のドアを開けて、灯りを点けた。ここは理恵子の部屋。結婚して家を出るまで理恵子が使っていた部屋。そして剛と離婚した後は戻ってくる予定だった部屋だ。


 壁の本棚にはずらりと古典文学が並ぶ。唯花は源氏物語を手に取り、一人掛けのソファーに座った。理恵子は源氏物語が特に好きだった。幼い唯花には、いろいろな女性と関係を持つ光源氏の行動が解せなかった。


「こんな男の人、唯花は好きじゃない」

「そうね。お母さんも。でもね、どうして紫式部がこういう物語を書いたのか。その背景を知ると、別の見方ができるよ。それを知るには唯花にはまだ難しいね。もうちょっと大人になったら分かるかな。歴史の勉強も頑張らないとね」


 そんな会話を思い出しながら、唯花は桐壺のページを開く。

 今なら少しだけ分かる。源氏物語は女性たちの生き様を描いたものだと。源氏物語以前の物語の作者は男。女性が女性の目線で描いた物語、それが源氏物語。そして物語を書き始めた背景には藤原氏の策略があった。


 母の理恵子が生きていたら、古典についてもっといろいろ話が出来たのに。母なりの考察も聞くことが出来たのに。


 唯花はそっと目を閉じる。この空間に居ても理恵子はなにも答えてくれない。只、穏やかな空間。此処には不慮の死への未練も悲しみもない。理恵子はきっときちんと旅立っているのだと思う。


 でも唯花はどうしても許せない。父、剛の裏切りと素子の存在が。理恵子の死に二人は直接は関係ない。理恵子は飲酒運転の被害者だ。


 事故の加害者はもちろん憎い。でもそれ以上に目の前に居る剛が許せなかった。

 唯花がこれから理恵子と過ごすはずだった時間は奪われた。しかし剛には素子が居る。怒りの対象を剛たちにするしか今の唯花には出来ない。

 その感情をなくしてしまえば多分自分が壊れてしまう。怒りの感情を持つことで生きていくことが出来るのだ。


 唯花はソファーから立ち上がると、手にしていた源氏物語を書棚に戻した。そして保元物語を手に取る。京の都から讃岐に流された崇徳院が自分の舌を噛み切り、その血で日本国の大悪魔になると誓うシーン。いつ読み返しても背筋が寒くなる迫力がある。


「今は後生菩提のために書きたる御経の置き所をだにも許されざらんには、後生までのかたき、ごさんなれ。我、願はくは、五部大乗経の大善根を、三悪道になげうつて、日本国の大悪魔とならむ」


 恐ろしいほどの執念を感じる。実際、崇徳院の怨みは明治天皇が崇徳院の御霊みたまを京都に戻すまで続いたのではないかと唯花は思っている。恨み続けるのも心が疲れるのに──


 溜息を一つついて、唯花は書棚に本を戻すと自分の部屋に戻った。


 翌日も朝食後は部屋で勉強をし、昼食後は祖父母と高校野球の中継を観たり談笑して過ごした。夕食後は勉強。泊まりに来た二日間はあっという間に過ぎていった。


 翌日の十四日は暁斗の参考書選びに付き合うことを思い出した唯花は、夕食後にスマホを確認した。暁斗からメッセージは入っていない。こっちから連絡すると書いたから律儀に待っているのかもしれない。予約した特急の時間を確認し、暁斗にメッセージを送った。


『こんばんは。連絡が遅れてごめんなさい。明日は十三時半に甲府駅着予定です。お昼は祖父母の家で軽く食べると思います』

 続きのメッセージを書こうとすると、すぐに既読になった。


『了解です。こちらも軽く食べて行きます。待ち合わせは改札口でいいかな』

『オッケーです』

『じゃあ明日。宜しくお願いします』


 了解ですのスタンプを送信して唯花はスマホを置いた。明日二人で会うことは真琴には話せないな。少しだけやましい気持ちになる。


 参考書を一緒に選ぶだけだとしても、暁斗と二人で会うことに変わりはない。唯花に恋愛感情はなくても、もしかしたら暁斗は唯花を気に入っているかもしれない──いや、多分気に入っている。

 だからこれ以上は親しくなってはいけない。真琴のためにも、暁斗のためにも。

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暮方(くれがた)の窓 七迦寧巴 @yasuha

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