第7話 心の中に芽生えていた復讐心

 松本駅からローカル線に乗り換えて、祖父母の家がある駅に到着した。祖母に電話をしながら、キャリーバッグを転がして歩く。祖父母の家でも勉強するつもりなので、荷物はそれなりにある。


 家に到着する頃には、じっとり汗をかいていた。表札の「あずま」という文字を眺めた。ここは私の家──そう思いながら呼び鈴を鳴らし、ドアを開ける。


「ただいまー」

 唯花が玄関に入ると、祖母のサトが

「おかえりー。疲れたでしょう」と、キッチンから顔を出して微笑んだ。白髪は増えた気がするが、まだ若々しい姿に安堵した。

「今日は暑いね」と言いながら唯花はリビングに顔を出す。祖父の正造しょうぞうはソファーに座って高校野球を観ていたが、唯花を見て嬉しそうな顔をした。


「お爺ちゃん、ただいま」

「おかえり。少し背も伸びたか?」

「もう伸びないよ」

 唯花は笑って答えると、洗面所で手を洗い、サトに買ってきた桃を見せた。


「まずはお母さんにあげて」と言われたので頷き、仏間に向かう。

 紫檀の仏壇。綺麗な菊の花が飾られている。その真ん中に唯花の母、理恵子の写真があった。

 蝋燭に火をともし、線香をあげる。おりんの澄んだ音が響いた。

「お母さん、ただいま。大好きな桃買ってきたよ」

 唯花は心の中で話しかけ、供物台に乗せた桃を眺めたあと手を合わせた。


「荷物、部屋に置いてきちゃっていい?」

「いいよ。届いていた荷物も部屋においてあるよ。御飯ももう出来るから、すぐに降りておいでね」

「うん」

 唯花はキャリーバッグのタイヤを拭いてから二階の部屋に持って行った。


 この家で唯花の部屋は二階にある。八畳の洋室を与えられた。窓は開けられていて風が入り気持ちが良い。

 南の窓側にベッド、そして東の窓側には机が置かれている。唯花が送った荷物はクローゼットの前にあった。


 本当なら中学三年から、祖父母と母と四人で毎日ここで生活するはずだったのだ。母、理恵子の死で変わった。スマホを充電ケーブルを挿し、とくにメッセージが来ていないことを確認してからリビングに向かった。


 そうめん、天麩羅、筑前煮が大皿に並び、唯花は笑った。

「お婆ちゃん、いつもすごい量」

「しっかり食べなさい。そんな細い体で。ちゃんと食べさせてもらってるの?」

「まあ、それなりに」

「大丈夫? 苛められてない?」

「うん。殆ど会話してないから平気」

「あんなやつの家、無理して居ることないんだぞ」

「大丈夫だよ、お爺ちゃん。高校を卒業するまで居るって決めたのは私だから。あと一年ちょっとだよ」


 二人を幸せになんてさせない。私があの家に居ることで、後ろめたい気持ちになればいい。


「ん。この茄子の天麩羅おいしい」

「でしょ? 庭で採れた茄子だよ。今年は美味しく出来てるの」

「お爺ちゃん、家庭菜園のセンスあるね」

「お爺ちゃんは何でもセンスがあるんだよ」


 そう言って豪快に笑った正造は、会社を定年退職したのち、しばらくは出向先で働いていたが、去年完全に年金暮らしになった。

 祖母のサトは週に一度、近所の人たちを対象にパッチワークキルトを教えている。

 リビングにもサトが作ったパッチワーク作品があちこちに飾られていてアットホームな雰囲気だ。


 食後、少し休んでから三人で理恵子の墓参りに出掛けた。

 先祖の名前が彫られた墓誌。まだ彫られて間もない理恵子の名前が、唯花の胸を締め付ける。


 剛と理恵子の離婚はほぼ成立していた。

 理恵子が先に離婚届に記入し、あとは剛が書けばそれで終わりだったのだ。もちろん唯花は理恵子とともに、祖父母の家で暮らす予定だった。

 理恵子は甲府の高校教師だったが、松本の高校に移ることも決まっていた。

 剛が離婚届に記入する前に、理恵子は死んだ。


 唯花が中学二年の晩秋。飲酒運転の乗用車に跳ねられてこの世を去った。

 出張中の剛とはなかなか連絡が取れなかった。出張に便乗して、素子との逢瀬を楽しんでいたと知ったのは、いつだったろう。


 剛と素子の関係がいつからだったのか、唯花は知らない。ただ、家に帰ってこない日が増えたと感じたのは小学生の高学年頃だったように思う。

 もともと出張の多い剛だったが、お土産を買ってこない「出張」が増えたと、子供心に思ったのを覚えている。


 提出前に理恵子が他界したので、離婚は成立しなかった。剛の不貞を許せず、正造やサトは唯花を引き取ると言い張った。唯花ももちろんそのつもりだったが、ふと思った。


 ここで自分が剛の前から消えたら、剛は気兼ねなく素子を迎え入れるに違いない。理恵子や唯花の存在を忘れ、不倫相手を正式な妻として迎え入れるのではないかと。

 そんなことはさせない。

 自分が目の前に居ることで、二人の幸せを奪ってやる。そう思った。


 剛は唯花に尋ねた。理恵子の両親のところで暮らすか、それともこの家に留まるか。実父という事実はあるので、唯花が成人するまではきちんと養育すると、もっともらしいことを言った。


 離婚していない以上、理恵子の死亡保険などの受け取りは剛になっている。まだ唯花に名義変更はしていないことに唯花は気づいた。

 これから唯花にかかる学費は全部剛に出させる。祖父母に負担はかけない。唯花は父と家に残ることに決めた。


 念書を書かせ、この先不倫相手と再婚したとしても、唯花の大学卒業までの学費及び経費は剛が負担することになった。正造とサトは自分たちのところで暮らせば良いと、何度も唯花を説得したが、唯花は首を縦に振らなかった。


 心の中に芽生えていた剛と素子に対する復讐心は二人には黙っていた。二人には、剛の前に居ることで、養育費を出す責任をいつでも思い出させたいからと言い、納得させた。

 中学三年になり、父ひとり、子ひとりのマンション暮らし。剛が帰ってくる日は殆どなかった。素子のところに居るのだろうと唯花は思っていた。


 一人の方が受験勉強は捗るが、これでは剛と素子の幸せを奪えない。苛立ちながら雨月物語の白峰を音読する。


「所詮此経を魔道に回向して、恨をはらさんとひとすぢにおもひ定めて、指を破り血をもて願文をうつし、経とともに志戸の海に沈めてし後は──」


 読みあげながら、崇徳院の復讐心を自分のものと重ねていた。

 進路を決めるとき、唯花の担任は甲府市にある高校を薦めた。理恵子が教鞭をとっていた高校は偏差値は高かったが、唯花ならもう少し努力すれば大丈夫だと言ってくれていた。


 しかし、甲府市の高校には多くの知り合いが進学する。理恵子の死を知っている人も多いし、理恵子が勤めていた高校だと、剛と理恵子の不仲を知っている教員が居るだろう。さすがにそういう環境で過ごすメンタルの強さは持ち合わせていない。


 なるべくなら家庭の事情を知らない人ばかりの高校に行きたい。

 唯花は県境にある名も無い高校を志望した。担任は猛反対したが、唯花は母の死で正直受験勉強には身が入っていないと打ち明けた。

 父も家に帰ってこないので、精神的にも不安定だと漏らすと、担任は剛に連絡を取り、きつく諭した。

 剛は不機嫌ながらも帰ってくるようになった。


「お父さんの彼女はどんなところに住んでいるの?」

 唯花は剛が休みの日に聞いてみた。

「何故おまえがそんなことを聞く」

「気になるじゃん。アパート暮らしなの?」

「そうだが」

「なら、此処に呼べば? いずれ一緒に暮らすんでしょ」

「何を言って──」

「お母さんの荷物は、もう全部お婆ちゃんたちのところにいってるわけだし、その人が暮らす部屋はあるでしょ。私は気にしないよ。お金さえちゃんと出してくれたら何も言わない。その人だって、いい加減けじめつけてもらいたいんじゃないの?」

「なに生意気なことを言ってるんだ。大人の事情に口を挟むな」

「大人の事情、ね」


 唯花は嘲笑しながら剛を見た。ずいぶん勝手な事情だよね、と心の中でさらに侮蔑した。

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