第9話 エピローグ


 安浦先生の出版記念パーティーから、数日が過ぎた。

 あれから、私の心が晴れやかになったかというと、そうでもない。

 確かに私はあれで裕貴を見返すことができた。

 その瞬間だけは、胸がスッとした。


 私にもわかっていた。

 報復を終えた後は、虚しさだけが残ると。

 見返したって、裕貴が私にしたことを、なかったことにできるわけではない。

 それでも、私が前に進むためには必要なことだったと、自分自身に言い聞かせるしかなかった。

 

 安浦先生から聞いた話だが、あれから裕貴は、父親である穂鷹会長にこっぴどく叱られたそうだ。社内会議にまで発展し、社長を辞任して他の出版会社でイチから修行し直すことになったらしい。

 それに、私と婚約をした頃から他の女性に会っていたことも判明した。浮気の真偽まではわからないけれど、今となっては、もうどうでもいいことだ。

 

 私は、次へ進むために、また新しい物語を綴るだろう。

 しかしその前に、決断しなければならないことがあった。

 

「桐人さん、お世話になりました。私、この家を出ようと思います」

「……えっ?」


 朝食の後、荷物をまとめて、リビングでコーヒーを飲んでいた桐人さんの前で頭を下げる。

 安浦先生は書斎に籠ってしまったので、まずは桐人さんだけに挨拶をした。

 家政婦の杉田さんも戻ってくる。

 小説を書籍化して、裕貴を見返すことができた。

 私がここにいる理由は、もうない。

 桐人さんは音を立ててカップを置くと、困った顔をして私を見た。


「ま、待ってください。どうしてですか、僕たちは婚約したんですよ」

「はい。でも、仮初ですよね? 裕貴を見返すまでの……」


 まさか、止められるとは思わなかった。

 きょとんとしていると、桐人さんは座ったまま私の手を取った。


「もう、その名前は出さないで下さい。……嫉妬で気が狂いそうになる」

「えっ?」


 驚いていると、桐人さんも驚いた表情を見せて立ち上がった。


「まさか、気づいていなかったんですか。これだけ一緒にいて、あなたに惹かれないわけがないでしょう? 病院の屋上で悩みを打ち明けられた時、右手の指輪がなくなっていたことに気がつきました。これはチャンスなのではと、多少の下心も抱きました」


 真っ直ぐに見つめられたかと思うと、今度は申し訳なさそうに眉を下げる。

 桐人さんの手が、少しだけ震えて、しっとりとした感触が伝わってきた。

 

「ちゃんとしたプロポーズは、事が終わるまで我慢していました。あなたが納得できる結果になったらおうと。だけど……。すべて終わっても、あなたの心は晴れないままのようですね」


 見透かされている。

 一体この人は、どれだけ私を見つめて、どれだけ私の心をわかってくれているのだろう。

 その優しさに、心がほんのりと満たされていく。


「言ったでしょう? 僕はしのぶさんを信じると」


『信じる』

 なんて強い言葉なんだろう。

 そう言われるだけで、安心してしまう。

 

「だから……。僕ではだめですか? 僕がしのぶさんの元気の素には、なれませんか?」


 そう言って桐人さんは、私の左手を取る。


「……嫌だったら、拒んでください」


 ポケットからハンカチに包まれていたリングを取り出し、左の薬指にはめようとする。

 拒めるはずがなかった。

 胸がキュウっと切なくて、苦しくて。

 私はこんなにも桐人さんに惹かれていたのだと、ようやくわかった。


 いつから用意していたのだろう、そのプラチナのリングは、ほんの少しだけ、サイズが大きくて。

 私は、目に涙を溜めながら、クスッと笑った。


「……やっと、笑ってくれましたね」

「あ……」


 自分は、そんなに長く笑っていなかったのか、と思った瞬間、

 私は、ふわりと桐人さんの両腕に包まれた。


「今度、一緒にサイズ直しに行きましょう」

「……はい」


 耳元で優しく言われて、私は素直に返事をする。

 

 あの時、桐人さんが話を聞いてくれていなかったら、私は今ここにいないだろう。

 いや、そもそも裕貴の秘書にならなければ、桐人さんと出会うこともなかった。

 人の縁とは不思議なものだ。

 私たちの人生は、思いがけない出会いや出来事で繋がっていく。

 だからこそ、その縁を大切にしたい。


 桐人さんの顔が近づいてくる。

 目を閉じると、唇が触れ合った。

 その一瞬、世界が静止し、私たちの心がひとつになったように感じた。


─ 完 ─

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幼馴染との婚約を解消したら、憧れの作家先生の息子に溺愛されました。 草加奈呼 @nakonako07

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