第8話 晴れない心
一年前、私が病院の屋上で桐人さんに相談した時。
安浦家にお世話になると決めた後、桐人さんが真剣な表情で話しかけてきた。
「真宮さん、この件、父にも話しましょう」
「どうしてですか? 安浦先生に知れたら、穂鷹出版に迷惑がかかります。これは、私と裕貴の問題です」
「そうかもしれません。ですが、仮にも出版社の社長が原稿を破るなど、あってはならないことです」
たしかに桐人さんの言う通りかもしれない。
でも、もしそれで安浦先生と穂鷹出版との間に溝ができてしまったら……。
「原稿は作家の命です。真宮さん、報復しましょう。あなたは、家を飛び出さなければならないほどのことをされたんです」
報復……。そこまで考えたことがなかった。
ただ、小説を完成させて見返すことができれば、と……。
「僕が力になります。必ずあなたを守ります。だから、父に協力してもらいましょう」
桐人さんの真剣な眼差しに胸を打たれ、私は決意した。
私たちは、病室に戻って安浦先生に話すことにした。
あまり日を跨ぐと、裕貴と鉢合わせてしまう可能性が出てくるため、話すなら早い方がいいとの判断だった。先生の体調も気がかりだったけど、もうすぐ退院できると聞いて安心した。
「穂鷹社長が……? ううむ、にわかには信じがたい」
安浦先生はベッドの上で腕を組んで考え込んだ。
そうだ、裕貴は編集時代、先生の担当をしていた時期がある。
私なんかよりも、ずっと付き合いが長いはずだ。
いくら私が裕貴の悪行を訴えたところで、そう簡単に信じてもらえるはずがない。
どうすればいいだろうか、と考えていた時、タイミングがいいのか悪いのか、裕貴からスマホメッセージが来た。
私は桐人さんと顔を見合わせると、桐人さんは無言で頷いた。
波打つ心臓を押さえ、覚悟を決めてメッセージを開く。
『いい加減、連絡しろ。どこにいるんだ?』
『退職届は受理できないぞ。戻ってこい』
予想通りの文言を見て、深くため息をつく。
「……すみません、すぐにブロックします」
「待って」
桐人さんが、スマホに触れて止めてきた。
「僕が代わりに返事をします」
「桐人さんが?」
「僕が、真宮さんになりきるんです。まあ、見ててください」
そう言って、軽やかなタッチで文字を入力していく。
『原稿を破ったことを謝ってくれたら、戻ります』
桐人さんが入力して送信すると、すぐに返事が来た。
『原稿を破ったことと、仕事は別問題だ。それに、あれはおまえが悪いんだろう』
まったく反省の色のない返事を見て、私はなんとも言えない気持ちになる。
しかし桐人さんは、したり顔をしてその画面を安浦先生に見せた。
「父さん、こういうことだよ」
「……なんということだ……」
そうか、うまく誘導して、自白の形に持っていってくれたんだ……!
私には思いつかなかった。
安浦先生は、深刻な表情でうなずいた。
「そういうことなら、私も協力しよう」
作戦はこうだった。
私は、安浦家にお世話になりながら原稿を完成させる。
そして、退院してきた安浦先生に読んでもらう。
「父さん、この原稿どうかな? 僕は面白いと思うけど」
「ふぅむ……。少々粗はあるが、なかなかいいね」
「これを使って、穂鷹社長を見返してやれないかな……?」
「ううむ、陽瑛出版に話を持っていってみるか……。もちろん、書籍化できるかどうかは、陽瑛さん次第だけどね……」
書籍化しなくともできる報復のパターンも考えていたが、書籍化できれば尚良かった。
「それでさ、父さんの出版記念パーティーで……」
「ほう、それなら、穂鷹社長には悪いが、一つ罠を仕掛けさせてもらうか。真宮くんと同席してもらうように言っておこう。きっと、血眼になって真宮くんを探すだろうよ」
安浦先生は、まるでご自身のミステリー作品に出てくる犯人のような、悪い顔で笑った。
たしかに、それならさらに裕貴にドッキリを仕掛けることはできる。
「それだと、ちょっと弱いな。社会的なダメージは与えられるかもしれないけど……。そうだ!」
桐人さんは、何かひらめいたようで、私の手を取った。
「真宮さん、僕たち、婚約しましょう!」
「はい!?」
婚約!?
私と、桐人さんが!?
「僕たちが婚約すれば、穂鷹社長に一泡ふかせることができます」
「つまり……裕貴に仕返しするまでの間……ということですか?」
「そ……そうですね……」
桐人さんは、困った顔をしていた。どうしたんだろう?
でも、一時の仮初とはいえ、桐人さんのような素敵な人と婚約者だなんて。
私の心に、少しだけ幸せの
*
──裕貴は見事に引っかかってくれた。
報復は終わった。
そう思うと、緊張が切れたのか、私の足はガクガクと震え出した。
私はその場にいられなくなって、喧騒に紛れて、会場の外へ飛び出していた。
外に出ると、冷たい雨が降り続いていた。
雨粒が肌に当たる度に、冷たさが心にまで染み込んでくるようだった。
舗道に打ちつける雨音が、私の鼓動と重なって、心のざわめきをさらに強める。
「待って……! 待ってください、しのぶさん!」
桐人さんが追いかけてきた。
振り切ることはできないだろう、私は、歩を緩めて立ち止まった。
「どうしたんですか、今からしのぶさんのインタビューを……」
「それは、もういいんです!」
私は振り向かずに力の限り叫んで、呼吸を整えて続けた。
「桐人さん、ありがとうございます。あなたと先生のおかげで、私……見返してやることができました。でも、私はなにもしていない。結局、裕貴の言うとおりなんです。私は……コネを使って……」
その言葉が口から出た途端、心の奥底で悔しさが沸き上がる。
こんな形で成功しても、自分の力ではないような気がした。
しかし、桐人さんの声が間髪入れずに響いてきた。
「それは違います! 小説を完成させたのは、しのぶさんの力です! 書籍化してもいいと判断したのは、陽瑛出版の方です! 父は、しのぶさんの才能を見抜いて原稿を持っていっただけです」
桐人さんはそう言って、私を背中から抱きしめてくれた。
彼の温かさが、伝わってくる。
「誰がなんと言おうと、僕はしのぶさんの味方です。もし、しのぶさんが自分を信じられないのなら……僕を信じてください。僕がしのぶさんの才能を信じます」
この人は、どうしてこんなにも優しいのだろう。
どうしてこんなにも、私を信じてくれるのだろう。
その言葉に、少しだけ心が救われる。
桐人さんの確かな声が、私の内なる不安を打ち払ってくれるようだった。
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