第7話 報復
あれから一年が過ぎた。
六月下旬、また憂鬱な梅雨がやってくる。
今日は、安浦栄次郎の出版記念パーティーだ。
ホテルの大広間に、穂鷹出版の重役たちや、他の先生方、新聞記者らしき人たちが集まる。
当然のことながら、社長である裕貴もだ。
婚約指輪と退職届を置いて、黙って出て行ってしまったことを、きっと怒っているだろう。
私は、着慣れないセレモニースーツを着て、衝立の裏側で緊張しながら立っていた。
桐人さんも、チャコールグレーのスーツがよく似合っている。
「しのぶさん」
桐人さんが、優しく肩を抱いてくれた。
「大丈夫です。僕と父に任せてください」
肩に触れる手の力が、ぐっと込められた。
そこから伝わってくる温かさで、少しずつ緊張がほぐれていく。
桐人さんといると……安心する。
「安浦先生、おめでとうございます!」
衝立の向こうで、裕貴の声が聞こえた。
心臓が、ズキリと痛む。
「ああ、穂鷹社長。来てくれてありがとう。ところで真宮くんは……」
「す……みません先生、真宮は、ちょっと来られない事情ができてしまいまして」
「そうかい、残念だね。一年前の入院中は彼女にとても世話になったからね。是非ともこの場でお礼がしたかったのだが」
「それは、良かったです……。私も真宮を代理に立てた甲斐がありました」
衝立の隙間から覗くと、裕貴は苦虫を潰したような顔をしていた。
安浦先生に婚約者として紹介してしまった手前、本当のことは言えないだろう。
裕貴も、認めないだけで自分に非があることはわかっているのだ。
しばらくして、安浦先生のスピーチに入る。
司会者からマイクを受け取り、先生は壇上に立つ。
衝立の裏側にいる私の方を一瞥してから来賓の方を向き、先生は話し始めた。
「えー……。本日は、お足元の悪い中、
先生が軽く頭を下げると、来賓の方々の拍手が雨の音のように会場に広がった。
新聞記者たちが、カメラのシャッターを切る音も聞こえてくる。
私は、ここからが本番だ、と桐人さんのスーツの裾を握りしめてしまっていた。
心臓の音が鳴り止まない。
「ところで、本日はもうひとつめでたいことがありまして、この場を借りて紹介させていただきたい。実は、私の弟子が
今日は穂鷹出版のパーティーだというのに、何を言い出すのだと、会場中の空気が張り詰めた。
しかし、誰も何も言えないのは、安浦栄次郎という人物が重鎮だからだろう。
ざわつく中、安浦先生は気にせずに話を続ける。
「皆さんもご存知のとおり、私は一年ほど前入院しておりまして。彼女は、その間とても親身になってくれた。何か礼がしたいと言ったら、書いた小説を見てほしいと言ってきましてな。
ところが、不運にも彼女の
しかし彼女はそのショックを乗り越えて、再度原稿を書き上げました。読んでみたら、これがまた面白い」
先生は笑いながら言うと、再び衝立の方を見て、そちらに来賓の視線が行くよう促した。
「では、紹介しましょう。私の弟子、真宮しのぶと、書籍『黒猫カルーニャの気まぐれ』」
安浦先生に呼ばれて、私は衝立の裏から書籍を持って壇上に登った。
新聞記者たちのカメラのフラッシュが眩しい。
でも、これでやっと表舞台に立てる。
「しのぶ……ッ!? おまえ、今までどこに行って……!!」
案の定、裕貴は半ば取り乱しながら近づいてきて、私の肩を掴もうとした。
心臓が痛い。乱暴にわし掴みされたような感覚だった。
しかし、間に桐人さんが入り、その手を払いのける。
「僕の婚約者に、何をするんですか?」
「ふざけるな! 婚約者はオ……!!」
裕貴は、言いかけて口を噤んだ。
……言えないでしょうね。
先ほど、安浦先生は「
ここで私の婚約者は自分だと名乗り出れば、自白しているようなものだ。
私たちの様子を見て、周りがざわめき始める。
「裕貴、おまえ、まさか……!」
裕貴の父親である穂鷹会長だけは、私と裕貴が婚約していたことを知っている。
気付いてくれた人がいるというだけで、私の心は救われた。
「父さ……会長、これは……!」
「帰ったら緊急会議だ。わかったな」
会長の顔は怒りの色を隠しきれず凄んだ表情に変わり、逃れようのない圧力を感じさせた。
「……はい」
裕貴は青ざめた顔で、ふらふらした足取りで会場の隅へと移動していった。
私は、その姿を壇上から複雑な思いで見つめる。
怒りとか、悲しみとか、裕貴に対してそんな感情は、もう持ち合わせていなかった。
あの頃の感情はすっかり消え去り、今の私にはただの冷静な観察者としての視点しか残っていない。
ここまでできたのは、すべて桐人さんと安浦先生のおかげだ。
私は、裕貴の姿を追いながら、これまでの出来事を思い出していた。
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