第6話 絶望と決心
気づけば、私はホテルの一室にいた。
あまりの出来事に、言葉が出ない。
まっさらなシーツのベッドに倒れ込むように横になり、先ほどの事を思い出していた。
あの後、裕貴は怒っていたのか、家を出て行った。
私は、泣きながら破られた原稿をかき集めて掃除をした。
かなり細かく破られたから、もう一度印刷し直さなければならない。
でも、データまで消されてしまった……。
かろうじて途中までのバックアップはあったので、私はそのメモリーを失くさないよう、大切に鞄にしまった。
ぐちゃぐちゃになった感情で退職届を書き、婚約指輪を外してその上に置く。
そして、当座の着替えとノートパソコンなど、最低限の荷物をまとめて家を飛び出していた。
どうしてなの、裕貴……。
私はそんなに裕貴の気に入らないことをしてしまったの?
家事のことは、好きな人のことだから我慢できると思っていた。
仕事のことも、私は裕貴を支えているつもりでいた。
でも、唯一の心の拠り所である、小説のことを否定されてしまったら……。
私はもう、裕貴のそばにはいられない。
じわりとシーツに涙が滲み、慌てて体を起こした。
もう何もする気が起こらないと思っていたけど、まだ、私は大丈夫だ。
ようやく少し落ち着いて、今後のことを考える。
ずっとホテルにいる金銭的な余裕はない。
実家は裕貴にすぐ見つかってしまう。
しばらくの間、友人の家に置いてもらうしか……。
スマホの連絡リストを眺めていて、桐人さんの名前が目に入る。
はっ、そういえば……勢いで家を出てしまったけど、安浦先生のお世話はどうしよう……!
気難しい先生のことだ、何の連絡もなく担当が変わってしまったら、きっと怒ってしまうだろう。
そうなると、必然的に会社にも迷惑がかかってしまう。
裕貴のことは許せないけど、プライベートと仕事はちゃんと分けなきゃ。
退職届は出してしまったけど、安浦先生が退院されるまでは、お見舞いを継続することにした。
*
「今日は、どうしたのかね?」
安浦先生の病室に入って挨拶するや否や、そう言われた。
「……えっ?」
「いや何、元気がないように見えてね」
「そ、そうですか……? あ、そうだ。夜遅くまで小説書いていたからかもしれないです」
一体、どこまでお見通しなんだろうというくらい、先生は私をよく見てくださってる。
昨日のことを思い出して涙が出そうになるけど、眠い目を擦るようにして誤魔化す。
そうだ、先生と約束していたんだった。
「そうかそうか。完成を楽しみにしているよ」
先生は、顎髭を指でなぞりながら、朗らかに笑った。
「そうだ、さっき裕貴君……穂鷹社長が来てね。君が来ていないかと言われたんだが、何かあったのかね?」
「えっ? 社長が……?」
危なかった。そうか、私のことを探しているんだ。
鉢合わせなくて良かった……。
先生の言い方からすると、裕貴も詳しい話はしていないようだ。
まさか、原稿を破って婚約者に逃げられたなんて、口が裂けても言えないのだろう。
「いろいろありまして……。あの、安浦先生、お願いです。私がここに来ていること、社長には内緒にしていただけませんか?」
「……と言われてもねぇ。何があったのかわからないことには……」
「お願い……します……」
肩を震わせて、深く頭を下げた。
私がここに来ていることがバレたら、今後待ち伏せされてしまうかもしれない。
それに、先生は過労で入院されているのに、私のことなんかで心配させてはダメだ。
奥歯を噛み締めて、泣きそうになるのを、ぐっと堪えた。
先生は、小さくため息をついて、
「わかった。しばらく様子を見させてもらおう」
と言ってくれた。
「ありがとうございます……!」
安心して、また涙が出そうになる。
「そ、それじゃ、今日の分、お預かりしますね!」
話していると本当に泣いてしまいそうで、私はそそくさと洗濯物を持って病室を出る。
その途端に大量の涙が溢れた。
先生の前では、よく我慢した。
でも、もうダメだ、拭っても拭っても溢れてくる。
ここにいると、裕貴に見つかるかもしれない。
早くこの場を去ろうとした時、桐人さんと鉢合わせてしまった。
「……真宮さん?」
「ど、どうも……!」
泣き顔を見られたくない。
俯いて挨拶だけして立ち去ろうとすると、
「待って!」
と桐人さんは私の腕を掴んできて、半ば強引に病院の屋上まで連れて来られた。
屋上は、ちょっとした公園になっていて、入院している患者さんや見舞客もここで談笑したり、日向ぼっこしている人もいる。梅雨晴れで良かった。
ベンチに座ると、桐人さんは自販機で缶コーヒーを買い、手渡してくれた。
「冷たい方が良かったですか?」
「いえ……ありがとうございます」
さりげない気遣いが、とても嬉しい。
プルタブを開け、温かいコーヒーを喉に流し込むと、じんわりと体に温かさが伝わっていく。
桐人さんも私の隣に座り、黙って缶コーヒーを飲んでいる。
半分くらい飲んだところで、桐人さんが訊ねてきた。
「あの……。もしかして、父が何か失礼なことを……?」
言われて、ハッと気がついた。
そうだった、病室から出てきて泣いていたら、そう思いますよね!
「い、いえ! そうじゃないんです! 安浦先生は全然関係なくて……!」
潤んでいた涙を、慌てて乱暴に拭う。
すると桐人さんは、ハンカチを取り出して、私の目頭に当ててくれた。
「僕で良かったら、話してくれませんか?」
借りたハンカチを、ぎゅっと握りしめる。
安浦先生に知られてしまったら、穂鷹出版に迷惑がかかるかもしれない。
息子である桐人さんにも話すことではないのかもしれない。
でも私は、この問題を一人で抱えることができなかった。
「……安浦先生には、絶対に話さないでください……」
私は、今までのことを桐人さんに打ち明けた。
桐人さんは、隣で私のたどたどしい説明を黙って聞いてくれた。
「原稿のことはいいんです。書き直せばなんとかなりますから。でも、まさか裕貴がそんなことをする人だったなんて、それがショックで……」
パソコンのデータは消されてしまったが、鞄の中に入っているメモリーが頼みの綱だ。
それがなかったら、もう一度書こうなんて思わなかったかもしれない。
「それは……ひどいですね。しかし、真宮さんは、これからどうしたいのですか?」
「どうしたい……?」
「そうです。どうするかを決めるのは、真宮さんですよ」
そう言われて、私は自分がまだ混乱の
この問題を、ひとつひとつクリアしていかなければならない。
裕貴のことも、好きなのに本当に許せなくて。
もう、わけがわからない。
だけど、ひとつだけ確かなことがあった。
「私は……。小説を完成させて先生に見ていただきたいです。でも、裕貴と一緒にいたら見つかってしまう……」
そうだ。そこだけは譲れない。
だから私は、裕貴から離れようと家を飛び出したんだ……。
震えながら本心を言うと、桐人さんは私の手を取った。
「よろしければ、うちへ来ませんか?」
「えっ?」
「臨時の洗濯係としてではなく、うちに居候していただいて、思う存分小説を書いてもらえれば」
「ちょ、ちょっと待ってください! それはさすがに……」
私にとっては、とてもありがたい申し出だ。
でも、さすがに桐人さんと一緒に暮らすのは、いろいろと問題があるような。
「部屋は空いていますし、もし心配なら、内側から鍵をかけてもらっても構いません。それに……いつか、ちゃんとしたお礼をしようと思っていたんです。こんな形で返せるなら、僕としても本望なのですが」
うわぁ……。
ダメだ、桐人さんが眩しすぎる。
この曇りのない瞳と淡い笑顔で言われたら、すぐに首を縦に振ってしまいそうだ。
どれだけ自分の意志を強く持とうとしても、その優美な笑顔と言葉に心が揺らいでしまう。
「それでも、もし気が引けるなら、正式に家政婦として雇うのはどうでしょうか? 仕事がないままでは困るでしょう?」
「でも、杉田さんという方がいらっしゃるのでは?」
「実は……。杉田さんは先日お孫さんが生まれたそうで、しばらく戻って来れないようなんですよ」
「そ、そうだったんですか……」
それなら、私は安浦家にとっても役に立てるし、安浦家は家政婦さんが必要。
桐人さんはお礼がしたい、私は居候で小説を書ける。
……うん、悪くない。どちらにとってもメリットしかないわ。
「わかりました。じゃあ、杉田さんが戻るまで、よろしくお願いします」
こうして私は、家政婦の杉田さんが戻るまでの一年間、安浦家にお世話になることになった。
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