息子が宮を訪ねてきたと聞いた時、雪蘭は思わず口角を上げた。すでに予測していたことだった。おおかた、あの宦官のことで何か言いにきたのだろう。真正直に訪ねてくるとは、賢くなったとはいえ、翔令は未だ権謀術数けんぼうじゅっすうを操れないらしい。瑞国の規則では、皇太子が母のもとを訪ねるのは年に一度までと決まっている。例外は、結婚の報告をするときのみ。翔令を追い返すことなど容易い。いくら騒いだところで宦官のことを教えてやるつもりなど毛頭なかった。


「来てくれて嬉しいわ、翔令。わたくしが恋しくて訪ねてきてくれたのね?けれど、わたくしとあなたが会うのは年に一度きりと決まっているわ。陛下が御危篤で不安なのはわかるけれど、お帰りなさいな」


 雪蘭は優しく言った。


「いいえ、母上。不安で参ったのではございません。ご報告したいことがあるのです。私は、妻をめとることにいたしました」


 翔令の言葉に、虚を突かれた。


「まあ、このようなときに?」

「申し訳ございません。しかし、我慢がききませんでした」


 恐縮した様子で頭を下げる翔令に、雪蘭は苛立った。


 少しも焦った様子がないことも、結婚の報告をしにくることも予想していなかった。自分の傀儡かいらいだったはずの息子が、予想できない行動に出たことが、雪蘭の心に不安の陰を落として、それが苛立ちを生んでいた。


「相手は誰なの?この場にはいないようだけれど」

「連れてくることができず、申し訳ありません。なので、名前を私の口から申し上げます。私の妻となる娘は、桃翠玉とうすいぎょく――桃家当主・環寧が嫡女にございます。皇帝となった暁には、彼女を皇后にするつもりです」


 雪蘭は驚愕した。これは、まずい。


 桃家の娘を皇后に迎えること、それは、翔令が桃家と結んだことを意味する。雪蘭の実家である芳家は、いままで急速に力をつけ、翔令の即位で、それまで宮廷一の大貴族であった桃家を凌駕するはずだった。それが、直前になって崩れたのだ。翔令と結んだ桃家に対抗できるほどの力は、芳家には無い。


 しかし、芳家の当主である雪蘭の父は、桃家にくだることは無いだろう、桃家は芳家のことをこころよく思っておらず、何をされるかわかったものではないから。よって、にくだることになる。


 翔令は、雪蘭たち芳家を手中に収めてしまうのだ。そればかりではない。


 そうなれば、桃家も好き放題振る舞うことはできまい。翔令は、思う存分皇帝としての権力を振るえることになる。


 翔令は、婚姻ひとつで実権を一手に掌握してしまったのだ。


 雪蘭の背中は、今や冷や汗でじっとりと濡れていた。それでも、必死に翔令に言葉を返す。


「あなたと結ばれる桃翠玉は、あなたを好いてくれているの?あなたの気持ちばかりで、彼女の気持ちをないがしろにしてはいない?」


 翔令と桃家は、政略のために桃翠玉を利用している。そこに良心は痛まないのか、という意味だ。しかし、翔令は迷いなく答えた。


「心配なさらなくても大丈夫です。


 それは、翠玉も彼女自身の利益のためにこの結婚を承諾していることを意味している。


 出会った当初から、その出会いが計算されたものであろうことを翔令はわかっていた。


 翠玉はかんざしを落としたと言っていたが、大貴族の桃家の嫡女が、髪を結う侍女に不自由するはずがない。まして、高位の妃のもとを訪れるともなれば、侍女は念入りに髪を結うはずだ。


 翠玉は簪を落としたのではない。自ら引き抜いたのだ――翔令が道を通り、簪に興味を示すことに賭けて。おそらく、見初められれば幸運くらいに思っていたのだろう。


 自分の家のためにそんな賭けに出るとは、淑やかに見えてなかなか豪胆な娘である。しかし不思議なことに、翔令はそれが不快ではなかった。


 翔令も翠玉も、互いの利益のために結婚しようとしている。けれど、それはそんなに不幸なことではないと、翔令は思う。結婚など、そもそも政略の手段であることがほとんどだ。ゆえに、お互いのことが気に入らない不幸な夫婦も山ほどいる。そんな中、望んで結婚できるのだから、上々ではないか。翠玉と翔令は、心から愛し合う夫婦にはならないだろうが、冷え切った夫婦にもならないだろう。



 敗北を悟って絶句した雪蘭に、翔令は思いついたように言った。


「ところで、さがびとがいるのです。東廠とうしょうを貸していただけませんか」


 あらゆる情報を握る東廠を使えば、清朗を見つけることなど容易いだろう。


 雪蘭は、今まで東廠を使う権限をその手に握っていた。けれど、翔令の要求を突っぱねる力はもう雪蘭には無かった。目の前にいるのは、もはや彼女の傀儡では無かったから。












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