皇后の住む宮殿は、後宮の中でも別格である。大きさや調度の豪華さだけではない。女官の数は他の妃嬪ひひんたちの宮より格段に多く、皆洗練されている。何より、宮の女主人である皇后は天女のような美しさを誇る。三十路も半ばにさしかかっているが、美しさでは他の妃の追随を許さない。


「久しぶりだこと。立派になったわね。よく顔を見せて」


 一年ぶりに宮を訪れた翔令を、皇后・芳雪蘭ほうせつらんは慈しみにあふれた言葉で出迎えた。


 皇太子が十二になって新たな宮に移ると、母親に会うのは年に一度に制限される。それ以外で宮を訪れることが出来るのは、妻を娶るときのみ。古くからある瑞国の規則だ。


 三年前は、母との年に一度の出会いを指折り数えて待っていたものだが、今は違う。ここ最近、会うことを考えるたび憂鬱だった。


 翔令はとっくに、母の空っぽの愛に気が付いていたから。


「母上もお元気そうで何よりです。会うのを心待ちにしておりました」


 内心を押し隠して笑顔を作った。何の力も無いのに母に表立って逆らうのは愚策でしかない。


 破竹の勢いの芳家の支援を受け、母は大きな権力を握っている。一刻も早く翔令は母から力を奪わねばならない。そうでなければ、皇帝になったとて政を思うまま動かすことはできないからだ。

 

 それにしても、柔和な笑みも言葉も、全てが嘘だとわかったうえでかつて愛した母と対峙することは、かなり心にくるものがある。帰るころには、翔令はすっかり疲れ切っていた。


 帰り道、下を向いて大きく息を吐いた翔令の目に、何かきらりと輝く物が映った。


 翔令が興味を示したのを理解した侍女が光る物を取りに行く。今日は、清朗は連れてきていない。代わりに、侍女を数名伴っていた。


 侍女から手渡されたのは、精巧なつくりのかんざしだった。牡丹をかたどった美しい品だ。


――なぜ落ちているのだ?


 これほど精巧な簪の持ち主なら、髪をしっかりと結い上げることのできる侍女の一人や二人いるだろうに。



「簪を、見つけませんでした? 」


 後ろから、翔令に声がかかった。振り向いた翔令の目線の先にいたのは、薄青の衣を纏った美しい少女。翔令と年のころは変わるまい。しかし、髪が乱れているのが美しい装いの中で悪目立ちしていた。もともと牡丹の簪がささっていたのだろう。


「まあ、皇太子殿下! ご無礼をお許しくださいませ」


 翔令の顔を見た少女は、舞うようにひざまずいた。


桃家とうけ当主・環寧かんねいが嫡女、翠玉すいぎょくと申します。桃貴妃とうきひさまのもとへ伺うはずだったのですが、簪を落としてしまい......困っておりました。殿下が拾ってくださったのですね。ありがとうございます」


 驚愕した。桃家は、瑞国一の有力氏族である。翔令の母の実家の芳家の台頭に押され気味ではあるが。まさかそれほどの家の娘だとは、翔令は思っていなかった。


 桃家からも、皇帝は妃を娶っている。皇后に次ぐ高位の妃である桃貴妃は、当主の妹。この少女の叔母にあたるはずだ。


 翔令は、簪を翠玉に渡してやった。


「美しい簪だな」

「ありがとうございます。わたくしもこれが一番好きですの」


 翠玉は嬉しそうに微笑む。美しく、屈託のない笑みだ。


 何度も頭を下げてから、翠玉は桃貴妃の宮へと歩いていった。翔令は、翠玉の姿が見えなくなるまで、ずっとそこを立ち去らなかった。




「随分と立派になっていたこと」


 静かな宮の中、芳雪蘭が呟いた。その声に喜びはなく、ただひたすらに冷ややかだ。


「私の失敗です。あれほど賢くなられたことを掴めませんでした。罰ならいくらでも受ける覚悟はできております」


 身を縮めて答えたのは、景恭希けいきょうき。雪蘭の側仕えで、あらゆる情報を握る特務機関・東廠とうしょうの長でもある。司礼監太監と並ぶ高位の宦官だ。今の今まで雪蘭たちが清朗の教育によって翔令が聡明になったことを知れなかったのは、ひとえに司礼監太監の邪魔立ての所為である。しかし、東廠の長である恭希がそれを掴めなかったのは、この場で斬首にされても仕方のないほどの大失敗だった。


「謝る暇があったら手を打ちなさい」

「すでに司礼監太監に文を出しました。今頃激怒しているはずです。恐れ多くも、皇后さまを欺いたと思っていたのが、自分の放った狗に欺かれていたと知ったのですから。狗の命もここまでです」


 それを聞いた雪蘭は喜ぶこともなく、ただ、変わらぬ冷たい声でつぶやいた。


「もし何もしていなかったら、お前を殺していたでしょうね」





 その日は突然やってきた。


 清朗は皇太子の使いで後宮書庫から書物を借り、宮へと急いでいた。皇太子の喜ぶ顔を想像すると、頬が緩み、自然と早足になる。


 だから、背後の気配に気づけなかった。


 後頭部を固いもので殴られたとわかったときには、書物は散らばり、地面は間近に迫っていた。そして、何も見えなくなった。



 

 突き飛ばされ、叩きつけられる衝撃。誰かの怒鳴る声。頬に固い物があたって、吹き飛ばされる。痛みと、血の味。


「愚図め! 早く目を覚ませ! 司礼監太監さまの御前だぞ! 」


 誰かに腕を乱暴につかまれて地べたに座らされたときに、ようやく意識が澄んだ。


「久しいな、楚清朗。二年ぶりか」


 見上げた先の豪奢な椅子に座すのは、司礼監太監。


「お前は私を欺いた。せっかく使ってやったのに。失敗だらけのお前の人生は、他ならぬ私によって栄華で彩られるはずだったのだぞ!恩知らずの裏切り者め!」


 司礼監太監の罵詈雑言は、次第にその激しさを増し、福々しかった顔は欲と怒りに歪んでいった。


 けれど、そこにはもう以前ほどの迫力は無い。余裕を失った瞬間に、司礼監太監の底知れなさは吹き飛んでしまったからだ。


 司礼監太監はその貪欲さでのし上がってきた。けれどきっと、その欲が眼をくもらせてしまったのだ。そのおかげで、今まで清朗は殺されずにすんでいたのだ。


「一瞬で死なせてやるものか。あらゆる拷問にかけてやる、恥知らずめ。涼しい顔をしていられるのも今のうちだけだ! 」


 苦痛を味わうのは怖い。けれど、その苦痛がこの三年間の代償だと思えば、甘んじて受け容れることができる。

 

 そっと、心の中だけで皇太子に感謝をして、清朗は覚悟を決めた。


 その時、清朗の後ろで、慌ただしく誰かが部屋に駆けこんできた。


「皇帝陛下ご危篤きとく! 司礼監太監さま、今すぐ陛下のもとにいらっしゃってください! 」


 荒い息でつむがれたその言葉に、その場の全員が驚いた。


 皇帝は病弱で、そう長くないだろうとは誰もが思っていた。しかし、皆、平静ではいられない。時代が動くのだから。


 もう命に未練はなかったはずなのに、清朗は、もうすこし生きれたらと願わずにはいられなかった。皇太子が皇帝となった、新しい時代が見たいと思った。


 何故今になって未練が溢れてきたのかと困惑して、不幸なことに、気づいてしまった。清朗は、本当は生きたかったのだ。


 生きることは叶わぬ望みだと思っていた。だから、今まで生きることを望まなかった。望んでも、得られるのは痛みだけだと思っていた。


 ただただ、怖かったのだ。だから、行動もしないうちから諦めた。皇太子に全てを話せば、手を尽くしてくれただろうに。言い出せなかったことは、清朗が皇太子を信じ切れていなかったことも意味している。


 臆病がこの状況を呼んだのだ。そして、土壇場で自分の本当の気持ちに気づいた。けれど、全てが遅すぎた。


 司礼監太監は目に見えて動揺し、皇帝のもとへ参じようと扉の方へ体を揺らして走っている。しかし、扉の前で立ち止まり、振り返って清朗を睨みつけた。


「そやつは牢屋にぶち込んでおけ! 私が帰ってくるまで、痛めつけてはならぬ!私の目の前で、あらゆる苦痛を味わわせてやる! 」


 悔しさを叩きつけるように怒鳴って、司礼監太監は出て行った。




 

 清朗がいなくなった夜、翔令は不安を抱えながら、眠れずに清朗の帰りを待っていた。


 もうすぐ翔令は皇帝となるのだ。今まで待ち望んできたことなのに、不安だった。清朗に思いを吐露して、激励してほしかった。


 けれど、そこに清朗はいない。何かあったに違いないのだ。清朗が理由もなく帰ってこないことなど有り得ない。しかも、こんな時に。病か、陰謀か。殺されてしまったことすら有り得る。悪い想像をしてしまうたび、心臓を強く握られるようだった。


 緊張と不安の中の翔令のもとに、やっと清朗のことを伝える者が来たのは、翌朝のことだった。


「皇太子殿下。殿下の側仕えであった楚清朗は、昨日、後宮書庫からの帰りに倒れ、そのまま身まかりましてございます」


 丁重な挨拶の後、伝令の若い宦官は淡々と告げた。あやうく叫び声をあげそうになって、必死で抑える。君主は取り乱してはいけない。君主はどうあるべきかを、翔令は今まで他ならぬ清朗から学んできた。


「……死に顔を見せてくれないか。三年も仕えてくれたのだ、最後に礼くらいしたい」

「恐れながら、宦官のむくろはすぐに皇宮から運び出される規則です。もう今は、楚清朗の骸は皇宮にございません」


 にべもなく宦官は答えた。いつも敬われ、礼を尽くされながらも、翔令は大切な側仕えの亡骸なきがらに礼を言うことすら許されない。それが、どうしようもなく悔しかった。けれど、声を荒げることを翔令は自分に許さなかった。声を荒げては、教育を施してくれた清朗に申し訳が立たなかった。


 宦官が出て行った途端、翔令はその場にへたり込んでしまった。涙が流れて頬を伝い、衣を濡らしていく。


 亡骸を見たわけではないから、清朗が本当に死んでしまったかどうかはわからない。けれど、清朗がいなくなったのは、決して病などではないことはわかっていた。病ならば、昨夜のうちに伝わってきたはずだ。今朝になって、というのは不自然すぎる。つまり、清朗は誰かの策略によって姿を消したのだ。


 翔令は清朗を守れなかったのだ。


 あまりに愚かだった。皇帝になって民を守ると息まいていたのに、一番身近な清朗の危機に気づけなかった。皇太子なのに、翔令は何の力も持っていないと突きつけられた。


 泣いていては駄目だ、と、必死で自分に言い聞かせる。


 どのような状況においても、君主は前を向き、今できる最善を考えねばならない。清朗が教えてくれたことだ。


 清朗は死んでいるかもしれないが、生きているかもしれない。手をこまねいていては救える命も救えない。


 言い聞かせるうち、やっとまともに物が考えられるようになってきた。


 もし清朗が生きていたとして、救い出すだけでは根本的な解決にはならない。その後も清朗の身に危険は残るし、政は思うように行かないだろう。翔令のやるべきことは、実権を手に入れ、清朗を救い出すことだ。翔令が持っているのは、皇太子の身分と清朗たちからもらった知識。それを使って、翔令にできることは何か。



 しばらく経った後、翔令は侍女を呼び出し、に文を届けるよう命じた。









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