その声を聞いた時、清朗は自身の耳を疑った。遠くから呼びかけるその声が、皇太子のものとしか思えなかったからだ。けれど、それは幻聴ではなかった。


「清朗、迎えに来たぞ! 」


 ついに牢の格子の前に立って呼びかけたのは、まさしく皇太子その人だった。


「……殿下? 殿下なのですか! 」


 走っていって、鉄格子にしがみつく。何度目をためつすがめつしても、皇太子は消えていなくなりはしなかった。


「殿下、私などのためにありがとうございます」


 ひざまずいて深く頭を下げる。諦めていた望みが叶った、その信じられないほどの幸福が、清朗を満たしていた。


「礼を言うのは私の方だ。お前が教えてくれたことのおかげで、ここまで辿り着けた」


 皇太子は、これまでのことを詳細に清朗に語ってくれた。皇后から実権を奪い、東廠とうしょうを使って二日と絶たずに清朗を探し出したこと、もはや瑞国を随意に動かせるようになったことを。


 皇太子は、清朗の予想など遥かに越えた大器となっていたのだ。


「本当に感謝している。お前がいなければ私はずっと母の傀儡のままだった。瑞国に裏切られたのに、お前は私に教えてくれていたのだな。皇太子の、私に」


 清朗は、はじかれたように顔を上げた。皇太子に過去の話などしたことが無かった。話すのは、清朗の心にひどい苦痛を伴うだろうことがわかっていたから。


「何故、それを」

「すまない。お前の過去を何も知らなかったと思って、東廠に調べさせた」

「いえ、お話ししなければならないことでした」


 清朗自身、自分は罪を何も犯していないことを、皇太子にいずれ話したいと思ってはいたのだ。


「……お前は何と高潔で強いのだろうと思った。瑞国が理不尽にお前を痛めつけても、お前は少しも諦めず、前を向いたのだな」


 皇太子は、胸の痛みと感嘆と賞賛が入り混じった口調で清朗に言った。


「殿下、違います。私は殿下が思ってくださるような者ではありません。……お仕えした当初、畏れ多くも私は、あなたを利用しようと思っておりました。死にたかったのです。私が殿下にお教えし、殿下が日夜勉学に励まれていることが司礼監太監しれいかんたいかんどのと皇后陛下に知られれば、この命はどちらかの手によって刈り取られるだろうと踏んで、殿下にお教えしていたのです。ですが、殿下の強い御意志ごいし御覚悟おかくごに触れ、もう一度、瑞国と殿下のために生きようと思えたのです」


 清朗が前を向けたのは皇太子のおかげだ。その皇太子を、かつて清朗は道具としか思っていなかった。


「それに、私は臆病者です。殿下を信じることができませんでした」

「どういうことだ」

「私は、司礼監太監のもとに連れ去られたときまで、死ぬことを覚悟しておりました。けれど、そこで気づいたのです。死を受け入れていたのは、臆病以外の何でもなかったことに。本当はもっと生きたかったことに。私は、望むことが怖かったのです。だから、殿下に何も言い出せなかった。殿下に助命を頼んで希望を持っても、それがついえるだけだろうと決めつけていたのです。殿下はこうしてここまで私を救い出しに来てくださるほどのお方だというのに、私は殿下を信じられなかったのです」


 清朗にとって、それは罪だった。


「清朗、お前の言ったことは、お前の立場に立ってみれば当たり前だ。お前はまるで罪を吐露するようだったが、それを罪とは呼ばぬ」


 皇太子は落ち着いた声できっぱりと否定した。


「お前は、当初私を利用しようとしていたと言ったな」

「はい」

「では、その後は違うのだろう。私を大切に思っていてくれたのではないか?嘘とは言わせぬ。誰にも愛されなかった私を、お前だけが愛してくれた。お前のしてくれたことが今の私を形作っている。お前が何と言おうと、私はお前に感謝しているんだ。だから、もう自分を責めるな」


 顔を上げて仰いだ皇太子は、優しく慈しむような笑顔だった。大人びた、民を慈しむ皇帝の顔だった。


「ありがとう、ございます」


 本当はもっと色々なことを伝えたかった。けれど、胸がいっぱいで言葉が出てこない。


「うん。それで良い」


 皇太子は、にっこりと笑った。さきほどの笑みとは違い、十五という年に相応の笑顔だ。


「話は変わるが、もっと生きたい、ということは、お前はこれからも瑞国に仕えてくれるのだな?」

「はい」

「では、お前を司礼監太監ににんずる」


 司礼監太監は十余万の宦官の頂点に位置する。いきなりそんなことを言われ、清朗は慌てふためいた。


「わ、私には過ぎた大任です! 」


 しかし、皇太子は大まじめだ。


「いや、お前こそが相応しい。お前に宦官制度を改革してほしいのだ。宦官がまつりごとに悪影響を及ぼしたことは多々ある。それは、多すぎる人数、そしてその制度によるものだと思っている。無くせとは言わぬ。ただ、政を乱せぬように抑えてほしい。大事業になるが、お前ならそれができると見込んでのことだ」


 皇太子の瞳が、清朗を真っすぐに射抜いている。相手に、期待に応えたいと強く思わせるものを、皇太子はすでに持ち合わせていた。その瞳をみるうちに清朗の心の中の驚きはおさまり、代わりにやる気が満ち溢れてきた。


「任じていただき、光栄です。殿下と瑞国のために微力を尽くします」

「もう一つ、お前を任ずる理由がある。......もし私が暗君と成り果てたら、私をしいしてほしい」

「何を仰るのですか!? 」


 にわかにとんでもないことを言い出した皇太子に、清朗は憤った。考えたくもないことだ。


「落ち着け。もちろん私は暗君となるつもりなど微塵も無い。これは、私なりの覚悟のあかしだ」


 清朗には、意味がわからなかった。しかし、皇太子は落ち着いて話し出す。


「お前は正しく志ある者だったのに、瑞国はお前を裁き、宦官とした。またお前がそのような理不尽な目に合うとしたら、それは私が暗君となったときだ。その時は、お前が私を弑すのだ。無辜むこの民を、お前を、害す前に。司礼監太監の地位とお前の頭脳があれば可能だろう。清朗、先のことは誰にもわからぬ。だから、これを証として誓おう。私が、生きる限り瑞国のためにあることを」


 その言葉は、皇太子の覚悟の大きさを物語っていた。臣下に命をあずけ、未来を誓う――これが、名君でなくて何であろうか。そして、それほどの信頼を受けるのは、何と光栄で幸せなことか。心からの畏敬をこめ、清朗は深く一礼した。


「つまらぬことを申したこと、お詫びいたします。この命尽きるまで、殿下にお仕えいたします」

「頼むぞ。さあ、牢を出よう」


 鍵を開けるのを忘れていた、と笑って、皇太子は手ずから牢の錠に鍵を差し込んだ。重い音をたてて、牢の扉が開く。新しい時代の到来を確かに感じながら、清郎は牢の外へと踏み出した。










  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る