七
その声を聞いた時、清朗は自身の耳を疑った。遠くから呼びかけるその声が、皇太子のものとしか思えなかったからだ。けれど、それは幻聴ではなかった。
「清朗、迎えに来たぞ! 」
ついに牢の格子の前に立って呼びかけたのは、まさしく皇太子その人だった。
「……殿下? 殿下なのですか! 」
走っていって、鉄格子にしがみつく。何度目をためつすがめつしても、皇太子は消えていなくなりはしなかった。
「殿下、私などのためにありがとうございます」
ひざまずいて深く頭を下げる。諦めていた望みが叶った、その信じられないほどの幸福が、清朗を満たしていた。
「礼を言うのは私の方だ。お前が教えてくれたことのおかげで、ここまで辿り着けた」
皇太子は、これまでのことを詳細に清朗に語ってくれた。皇后から実権を奪い、
皇太子は、清朗の予想など遥かに越えた大器となっていたのだ。
「本当に感謝している。お前がいなければ私はずっと母の傀儡のままだった。瑞国に裏切られたのに、お前は私に教えてくれていたのだな。皇太子の、私に」
清朗は、はじかれたように顔を上げた。皇太子に過去の話などしたことが無かった。話すのは、清朗の心にひどい苦痛を伴うだろうことがわかっていたから。
「何故、それを」
「すまない。お前の過去を何も知らなかったと思って、東廠に調べさせた」
「いえ、お話ししなければならないことでした」
清朗自身、自分は罪を何も犯していないことを、皇太子にいずれ話したいと思ってはいたのだ。
「……お前は何と高潔で強いのだろうと思った。瑞国が理不尽にお前を痛めつけても、お前は少しも諦めず、前を向いたのだな」
皇太子は、胸の痛みと感嘆と賞賛が入り混じった口調で清朗に言った。
「殿下、違います。私は殿下が思ってくださるような者ではありません。……お仕えした当初、畏れ多くも私は、あなたを利用しようと思っておりました。死にたかったのです。私が殿下にお教えし、殿下が日夜勉学に励まれていることが
清朗が前を向けたのは皇太子のおかげだ。その皇太子を、かつて清朗は道具としか思っていなかった。
「それに、私は臆病者です。殿下を信じることができませんでした」
「どういうことだ」
「私は、司礼監太監のもとに連れ去られたときまで、死ぬことを覚悟しておりました。けれど、そこで気づいたのです。死を受け入れていたのは、臆病以外の何でもなかったことに。本当はもっと生きたかったことに。私は、望むことが怖かったのです。だから、殿下に何も言い出せなかった。殿下に助命を頼んで希望を持っても、それが
清朗にとって、それは罪だった。
「清朗、お前の言ったことは、お前の立場に立ってみれば当たり前だ。お前はまるで罪を吐露するようだったが、それを罪とは呼ばぬ」
皇太子は落ち着いた声できっぱりと否定した。
「お前は、当初私を利用しようとしていたと言ったな」
「はい」
「では、その後は違うのだろう。私を大切に思っていてくれたのではないか?嘘とは言わせぬ。誰にも愛されなかった私を、お前だけが愛してくれた。お前のしてくれたことが今の私を形作っている。お前が何と言おうと、私はお前に感謝しているんだ。だから、もう自分を責めるな」
顔を上げて仰いだ皇太子は、優しく慈しむような笑顔だった。大人びた、民を慈しむ皇帝の顔だった。
「ありがとう、ございます」
本当はもっと色々なことを伝えたかった。けれど、胸がいっぱいで言葉が出てこない。
「うん。それで良い」
皇太子は、にっこりと笑った。さきほどの笑みとは違い、十五という年に相応の笑顔だ。
「話は変わるが、もっと生きたい、ということは、お前はこれからも瑞国に仕えてくれるのだな?」
「はい」
「では、お前を司礼監太監に
司礼監太監は十余万の宦官の頂点に位置する。いきなりそんなことを言われ、清朗は慌てふためいた。
「わ、私には過ぎた大任です! 」
しかし、皇太子は大まじめだ。
「いや、お前こそが相応しい。お前に宦官制度を改革してほしいのだ。宦官が
皇太子の瞳が、清朗を真っすぐに射抜いている。相手に、期待に応えたいと強く思わせるものを、皇太子はすでに持ち合わせていた。その瞳をみるうちに清朗の心の中の驚きはおさまり、代わりにやる気が満ち溢れてきた。
「任じていただき、光栄です。殿下と瑞国のために微力を尽くします」
「もう一つ、お前を任ずる理由がある。......もし私が暗君と成り果てたら、私を
「何を仰るのですか!? 」
にわかにとんでもないことを言い出した皇太子に、清朗は憤った。考えたくもないことだ。
「落ち着け。もちろん私は暗君となるつもりなど微塵も無い。これは、私なりの覚悟の
清朗には、意味がわからなかった。しかし、皇太子は落ち着いて話し出す。
「お前は正しく志ある者だったのに、瑞国はお前を裁き、宦官とした。またお前がそのような理不尽な目に合うとしたら、それは私が暗君となったときだ。その時は、お前が私を弑すのだ。
その言葉は、皇太子の覚悟の大きさを物語っていた。臣下に命をあずけ、未来を誓う――これが、名君でなくて何であろうか。そして、それほどの信頼を受けるのは、何と光栄で幸せなことか。心からの畏敬をこめ、清朗は深く一礼した。
「つまらぬことを申したこと、お詫びいたします。この命尽きるまで、殿下にお仕えいたします」
「頼むぞ。さあ、牢を出よう」
鍵を開けるのを忘れていた、と笑って、皇太子は手ずから牢の錠に鍵を差し込んだ。重い音をたてて、牢の扉が開く。新しい時代の到来を確かに感じながら、清郎は牢の外へと踏み出した。
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