皇太子の教育は、宮を訪れる何人もの学識高い教師によって為されることになっている。


 しかし、翔令は講義を真面目に受けたことがなかった。学問はつまらない物だと思っていたし、そんな態度を咎められる教師もいなかった。


 だが、その日は違った。あの宦官のせいだ。自信満々に思ってもみなかったことを話すものだから、実際のところはどうなのか気になって仕方がない。


 しくもその日の歴史の講義では寧帝の時代の話をしている。けれど、いまさら質問するのも教師に対してばつが悪い。


 悩んでいた時、教師はまさにその話をし始めた。


「寧帝については暗君という見方が大半ですが、これは違うのではないかと私は思っております」


「なっ、本当か!?」


 先ほどの逡巡しゅんじゅんも忘れ、翔令は思わず大声をあげた。


「は、はい」


 翔令の食いつき方に驚いたのか、教師は思わず身を引いた。



 それから教師の語ったことは、宦官の見解と完全に一致していた。



 なぜあの宦官がそんなことを知っているのか不可解だった。宦官のなかでは字の読める者すら珍しいというのに。


 しかし、疑問と同時に、押さえきれない学問に対する興味が湧いてくるのを感じていた。



 それから翔令は講義を真面目に聴くようになった。一度興味を持ってみると学問は面白く、翔令は完全にのめり込んでしまった。歴史だけでなく、全ての講義に熱心に取り組んだ。そのあまりの変わりっぷりに、涙を流す教師すらいた。




 皇太子のそんな様子は、清朗の目にも入ってきた。


 清朗はもう教師ではない。皇太子が勉学に励んだところで関係はない。けれど、清朗はまるで教え子が学問に励んでいるかのように嬉しくなり、そんな自分に戸惑った。


 もう戻れないのだから、教師だった頃の気持ちなど捨ててしまいたいのに。


 

 数日後、清朗は皇太子に呼び出された。


「おい狗、教えろ」


 皇太子は尊大に教えを請うた。


 皇太子は講義を真面目に受けるようになり、したがって課題にも真面目に取り組むようになっていた。しかし、課題がなかなか難しい。今までさぼってきたのだから当然である。そこで、清朗を呼び出したのだ。



 そしてそれは、その日以降も続くようになった。


「狗、来い」

「おい、やることがないなら私が使ってやっても良い」

「狗、わからないところがある」


 ほどなくして、質問に答えるだけでなく、皇太子に歴史や政や礼学を教えるようになった。


 皇太子に教えられることが、清朗は嬉しかった。教えることそのものも楽しいのだが、それだけではない。


 


 清朗が学問を教えていることが伝われば、皇后も司礼監太監も清朗を抹殺しようと動くだろう。二人とも、皇太子が賢くなってしまっては都合が悪い。皇太子が聡明に育てば、彼らの甘言に耳を貸さなくなり、権力を握れなくなるのだから。


 そして、清朗の大願はかなえられるのだ。



「狗、お前、名前は何だ」

「楚清朗と申します」

「そうか」


「おい、......清朗!教えろ」

「殿下、まさか私の名前を」

「悪いか?狗の方が良かったのか!?」

「いいえ。とても、嬉しいです」


 それは、偽りのない清朗の本心だった。名前で呼んでくれるようになったということは、翔令が少しは清朗を信用してくれるようになったということだ。それが、何故かどうしようもなく嬉しかった。清朗は皇太子のことを、教育を与える機会をくれ、また死へといざなってくれる都合の良い道具くらいにしか思っていなかったはずなのに。


「清朗、来い」

「清朗、教えてくれ」

「ありがとう、清朗」

「お前が私のもとに来てくれて良かった」


 皇太子は日に日に笑顔が増え、清朗に心を開いていった。それにつれ、責め立てられるようだった。


 自分は汚れている。皇太子を道具としか思っていない。なのにどうして、こんなに明るい笑みを見せて、胸が痛むほどに優しい言葉をかけてくれるのだろう。


 どうして、胸が痛いのに、嬉しく思ってしまうのだろう。


 

 皇太子に仕え初めてから一年ほど経った頃、清朗は司礼監太監のもとに呼び出された。仕え始めて以来、会うのは初めてである。


 清朗にとっては死ぬための好機だ。他ならぬ清朗の手によって、皇太子は司礼監太監の意に反し聡明になりつつある。これをぶちまければ、すぐにでも清朗は殺してもらえるだろう。


「どうだ、殿下は」

「心を開いていただけたようです」

「おお、そうか!やはり私の目は間違っていなかったな!」


 司礼監太監は満面の笑みを見せた。清朗のことを、つゆほども疑っていないようだった。それもそうだろう。司礼監太監には清朗の気持ちなど理解できまい。死にたいと、願うことなど。


「これで、殿下が玉座に昇られても我々は安泰だな。清朗、その時はお前も大きな富を手に入れるだろう。どうだ、もっと生きて、殿下に仕えないか?」


 生きることに未練などありません。私は貴方を欺き、皇太子殿下は日に日に賢くなっています――そう、全てを暴露しようと思っていた。


「もちろん、そのつもりです。そんな未来を思うと、もっと生きたいと欲が湧いてきます」


 けれど、口から出たのは全く別の言葉。


「ははは!お前も宦官の水に染まってきたか。そうだ、貪欲に生にしがみつくことこそ我らの性よ。しかし、 やり過ぎはいかぬ。お前ひとりが利を独占することは許されぬこと、わかっておるな」


 笑顔から一転、司礼監太監は清朗を冷たい目で睨みつけた。皇太子を自分だけの傀儡にしようとするな、という脅しである。


「もちろん、そのようなことは致しません。今の私が有るのは全て貴方さまのおかげでございます」

「よくわかっておるな。安心しろ、これからも私がお前を守ってやる。皇后さまに知られぬように。だから、もうここには来るな。感づかれる恐れがあるからな」

「ありがたきお言葉。お名残り惜しいですが、これからも全力を尽くし、任に励みます」


 

 死を切望していたはずなのに、ついに清朗は真実を告げられず命を繋いでしまった。


 死への恐怖は無い。未来に希望もない。なのにどうして、あんなことを言ってしまったのか。自分がわからなかった。










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