ニ
「楚清朗と申します」
皇太子・
長いまつ毛に縁どられた意志の強そうな瞳、高く通った鼻筋、つるりとした血色の良い頬。美貌の皇后に似たのか、皇太子は結構な美少年だ。しかし。
「おい、
まだ高い声で発せられた言葉は、皇太子が言うには相応しくないものである。
「知っているぞ、お前は司礼監太監の狗だ! 」
宦官は主人に物のように扱われる運命だ。罵詈雑言には皆慣れている。だから、清朗もこれくらいでは何ともなかった。
「母上が仰っていた。お前たち宦官は、私を愚物にしようとやってくる悪鬼どもだと」
得意げに皇太子は続けた。
確かにそれは正しい。司礼監太監の意図は、まさしく皇太子を宦官の言うことを聞く愚物にすることだ。権力者を骨抜きにして暴利を貪るのが宦官の生き方。宦官の
けれど、母たる皇后とて皇太子を愚物にしようとしている点では同じだ。彼女は皇太子を甘やかし、自分だけの言うことを聞く
子をひたすら甘やかすのは愛ではない。子を愛しているのならば、親はときに子に厳しく接するものだ。甘やかされて育った子は、長じた後、傲慢で自分の頭で考えることを知らない者となろう。まさに、今の皇太子のように。
結局、司礼監太監も皇后も、皇太子のことを自分の権力のための道具としか見ていない点では同じだ。瑞国一豪奢な暮らしを送る皇太子は、本当は誰からも愛されていない。それを知らず、皇太子はひたすら母親を信じ、愛しているのだ。
そんな皇太子に対し、清朗の心に湧いてきたのは苛立ちでも恐怖でもなく、哀れみのみであった。
面白くないのは皇太子の翔令である。これまでの側仕えの宦官の中で、
下劣な狗のくせに、と心に募るいらだちを解消するため、翔令は新任の宦官に行う「いつもの質問」をすることにした。
「瑞国以前の王朝の君主で、一番の名君を答えよ」
大陸の東方では、瑞国以前にたくさんの王朝が興亡を繰り返していた。
今までの宦官は予想だにしない質問に泡を食って、そのあげくに神話の名君の名を答えるのが常だった。宦官は教養がなく、読み書きすらできないのが普通だ。とうてい名君の名など答えられる筈がない。そんな宦官たちを見て楽しむことが翔令のお気に入りだった。
馬鹿め、恥さらしめ、その程度のことすら知らぬのに私を愚物にしようと画策するなど――と、悪鬼の化けの皮を剥いでやったような気持ちになるからだ。
目の前の宦官は落ち着き払っているが、どうせこれで無知を露呈するに決まっている。
しかし、どうしたことか。宦官は狼狽する様子も無く、むしろ生き生きとしたように見えた。
知っているはずが無い。宦官が名君など知るはずがない。
しかし、宦官は迷いなく口を開いた。
「
その答えを聞いて、翔令は拍子抜けすると同時に、勝ち誇った気持ちになった。宦官が答えたのは数百年前の王朝の有名な暗君の名であったから。
「馬鹿め! 答えに
寧帝は北方の異民族が襲来した際、自ら出向いて異民族の首領に会いに行き、朝貢する代わりに侵略をやめる条約を結んだ皇帝だ。
「そのような見方が大半です。しかし、当時かの国には異民族に勝てるほどの力はありませんでした。廷臣たちは楽観的な見方をする者が大半で、誰もが迎え撃つように奏上しました。そのような中、寧帝は冷静に状況を見つめ、矜持を捨てて異民族に下ったのです。国と民のために」
一般に寧帝は暗君と言われている。
だから、清朗が国子監で教えていたころ、寧帝が名君だと話すと学生たちは一様におどろき、興味を持って話を聞いてくれた。そして、歴史に様々な見方があるのを知って、ますます真剣に、熱心に、楽しそうに学問に打ち込むようになった。
学生たちがそうやって学問にのめり込んでいくところを見るのが清朗は好きだった。国子監にいた頃は本当に楽しかった。宦官になって以来、清朗はその頃のことを忘れてしまっていた。
「でたらめばかり言うな! 狗のくせに! 」
皇太子の怒声で清朗ははっと我に返った。
「部屋から出ていけ! 」
皇太子は顔を真っ赤にして怒っている。何か気に障ったらしい。
しかし、清朗の言ったことはでたらめなどでは無かった。清朗が史書をひもとき、考えに考えて出した結論だ。
悲しかった。今では自分の学識など、何の意味もなさないのだ。学問の楽しさを思い出したからこそ、宦官となってしまった今が辛かった。
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