瑞国伝
水野文華
一
けれど、宴席に座る皇帝は顔色が悪く、虚ろな目をしていた。幼い皇太子は退屈なのか、顔をしかめてむずむずと落ち着きなく座っている。母の皇后はそんな皇太子を見て美しい微笑を浮かべるだけで、たしなめる気配すら無い。廷臣たちは、山海の珍味や美酒に舌鼓を打ち、話に花を咲かせていた。
「めでたいことだ」
「本当に。皇太子殿下は皇后陛下に似てお美しい」
「あと数年たてば、瑞国一番の美男となられるだろう」
「そのころには、我が娘も年頃だな」
「私の娘はまだ赤子ですが、なに、男が年上の分には一回りも二回りも問題ございませんからな」
「しかし、皇帝陛下におかれては
「しっ、不吉なことを仰るな」
「だがそうなると、皇后陛下の一族が出しゃばってくるのではないか。皇后陛下は自分の一族ばかり優遇なさる。皇太子殿下に代わって政治を行われることすらあるやも」
「皇后陛下は女性だぞ。まともに政治などできるはずがない」
「まあいいさ、そうなったらそうなったで私達が政治のやり方を教えてさしあげるのみ」
「そうだそうだ。皇太子殿下も皇后陛下も、政治のことなど何もわからないであろうから」
「我らがこの国を動かさなければ」
話しこんでいた廷臣たちは、ひっそりと薄気味の悪い笑みを浮かべた。瑞国は、その体の中に何匹も虫を抱え込んでいる。
そんな皇宮の真上の空は、つややかな黒の絹地に大ぶりの琥珀を置いて、小さな真珠をいくつもばらまいたようである。地上でどんなことが起ころうとも変わらない、泰然とした美しさがそこにあった。
「嫌な空だ」
呟いた者の名を、
そもそも、清朗はこんなところで洗濯物を洗っているはずでは無かった。もし、幸運ですらあったなら、今夜の宴の上席に座っていたかもしれない。
運さえ味方であったらならどこまででも上り詰められただろう才覚を、清朗は持ち合わせていた。なぜなら彼は、難関の官吏登用試験たる科挙に二十八にして第四席で及第した秀才だったから。瑞国にはこんなことわざがある。曰く、「五十歳で科挙に及第するのはまだ若い」。
それは幾分誇張が入っているとしても、二十八の若さ、しかも第四席での及第は驚嘆に値するものだった。
しかし、これには続きがある。本当は、清朗こそが首席だったのだ。そのことを、清朗は科挙の及第者が集められる酒宴で知った。酒に酔った高官が、第三席までの者が賄賂を使ってその地位を得たことをぽろりと漏らしたのだ。
最初に清朗の心に浮かんだのは疑問だった。これは本当に現実なのか、と。そしてすぐに、深い憤りと悲しみが清朗の心を塗りつぶした。ずっと努力し続けてきた。それは自分のためでもあったが、瑞国のためでもあった。瑞国を愛していたから。
けれど、瑞国は簡単に清朗を裏切った。清朗の目の前に、黒くてどろどろとした中身をさらけ出して。
この国は腐っている。清朗がそれに気づいたのはこの時だ。
それから数ヶ月、清朗は故郷に帰って酒浸りになっていた。飲まなければ耐えられなかった。努力を否定されただけでなく、これまでの人生そのものを否定されたような気がしていた。人生を捧げようと思っていたものががらくただったと知った時、人はどうするのだろうか――そう考えるうちにどんどん気持ちが沈みこんでいき、ますます酒を飲むようになっていった。
しかしそんな時、任官が決まった。任官先は瑞国の最高学府・
不思議なことに、その知らせを受けた途端目の前の霧が晴れていくような心地になった。国子監で学んだ者がそのまま官吏となり瑞国を支えていくことになるのならば、学生たちに熱心に教育を授ければ、だんだんと瑞国も変わっていくのではないか――そんな考えが一瞬にして清朗の頭の中に浮かんだ。
清朗は決意した。もう一度瑞国のために仕えてみよう、と。そして、
清朗は国子監の学生たちに全身全霊で向き合った。学生からの質問や講義の準備に毎日深夜まで追われたが、まったく苦にならなかった。机に向かって科挙のための勉強をしていた頃より、国子監で学生に教えているときの方が何倍も楽しかった。
学生たちも清朗の講義を真面目に、熱心に受けてくれた。たくさんの教え子たちが有能で清廉な官吏となって国子監を巣立っていった。
任官から十余年経つと、清朗は国子監にその人ありと言われるまでになっていた、が。
ある日突然、清朗は投獄された。「国子監の学生たちに不適切な教育を施した」罪で。
心当たりは何もなかった。何かの間違いだろうとしか思えなかった。
牢獄の中の清朗に真実を教えてくれたのは、清朗を哀れんだ
獄卒は語った。清朗の教育は、本当に正しいものだった。清朗の教え子たちは贈収賄に加担せず、不正にもまったく手を染めなかった。けれど、清廉な官吏が増えたことで不都合に思う者たちがいた。それは、不正で甘い汁を吸っていた
ふざけている。こんなことが許されるはずがない――そう思っていた。
だから、獄卒が沙汰を伝えに来た時、清朗は自分の疑いが晴れたことを伝えに来たのだろうと思った。信じていたのだ。瑞国は良くなっているはずだと。瑞国に仇なす者の言葉を真に受けて、瑞国のために働いてきた者に罰を下すわけがないと。
けれど、その考えは間違っていた。清朗に下された刑罰は死刑の次に重い刑罰である
後宮には皇帝の妃たちが暮らしている。妃から生まれる子供の父親が皇帝以外であってはならないから、後宮に男を入れるわけにはいかない。けれど、男手はどうしても必要だ。そこで妃たちを妊娠させる心配のない宦官が必要となる。
宦官は、宦官であるというだけで人々から見下され蔑まれる。皇妃や皇帝のすぐそばに仕え、たいへん可愛がられて大きな権力を握ることもあるが、それはほんの一握り。大多数は軽蔑と苦役にまみれて死んでいく。
絶望した。瑞国を変えられると思っていた。少しでも変えられたと思っていた。それは幻想に過ぎなかった。瑞国は芯まで腐りきっていたらしい。そして、瑞国に仕えてきた自分は罪人として、宦官として人々に
乾いた笑いが口から零れ出た。自分の人生は全て無駄だったのだ。努力も、苦労も、信念も。全て、全て。
刑は速やかに執行され、清朗は宦官になった。清朗に残されたものは傷ついた身体と深い深い絶望だけだった。
宦官たちは清朗に冷たかった。飯を抜かれることや服を汚されることは日常茶飯事。与えられた仕事は宦官の中でも最下層の者のやる洗濯仕事だった。
宦官になってから三月が経った今、毎日洗濯物を洗いながら清朗は考えている。自分の人生はいつ終わるのだろうか、と。人生を楽しむことも、月や花を美しいと思うことももうできそうになかった。
けれどある日、単調な日々は終わりを告げた。十余万の宦官の頂点に立つ
「よく来たな、楚清朗」
たっぷりと肥えた顔に福々しい笑み。妙に高い宦官特有の声で、司礼監太監は清朗に呼びかけた。
「早速だが本題に入ろう。お前を皇太子殿下の側仕えに任じる」
あまりのことに理解が追いつかなかった。皇太子は傲慢で、側仕えの宦官が何人も変わっているという話は聞いていた。だが、最下層の宦官、しかも一応罪人たる自分が選ばれることなど、夢にも思わなかった。
「何故、私を」
ようやく発した声は掠れていた。
「そうだな、急すぎたか。まずは理由から話そう」
「皇后陛下がご自分の一族を随分とお引き立てになっていることは知っているな」
当代の皇后・
「皇太子殿下が玉座に上られれば、芳家の権勢は瑞国一となるだろう。その暁には、皇后陛下は芳家だけに権力を集中させたいと考えておる。その他の
宦官は皇帝に愛され、時に皇帝に次ぐ権力を持ち政治を牛耳ることがある。親族と自分のみ権力を握りたい皇后にとっては、邪魔者でしかないだろう。皇后が心を許す宦官はただひとり、自分の側仕えのみだ。
「皇后陛下の影響で、皇太子殿下も宦官がお嫌いだ。このままでは、殿下が皇帝になられたときの我々宦官の居場所が無くなってしまう。側仕えの宦官に、皇太子殿下が心を開いてくださることが必要なのよ。そうすれば、殿下の我々宦官への嫌悪も薄まっていくだろう」
「それはわかりました。しかし、そこで何故私を任じようと思われたのですか」
清朗が皇太子に気に入られるとは思えなかった。それに、十二の皇太子と
「お前、命が惜しくないだろう? 」
その言葉と鋭い眼光が、清朗の呼吸を止めた。清朗は、自らの心を見抜かれているとは全く思っていなかった
司礼監太監は清朗の過去も今も、全て知っているのだ。
「何人送り込んでも、すぐに逃げ帰ってきてしまう。皇太子殿下は、側仕えのことを『司礼監太監の
司礼監太監の口調は穏やかで、どこか困ったような調子だ。しかし、清朗の身は震えた。
「お前は違うだろう。人生を早く終わらせたいのだから、逃げ出すはずが無い。待遇も今より良い。逃す手は無いと思うがな」
司礼監太監は底知れぬ微笑みを顔に浮かべた。
人生を終えること。それは、確かに清朗の唯一の望みだ。
こうして、清朗は皇太子の側仕えとなった。
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