瑞国記

水野文華

第1話

 瑞国ずいこくは東の大国である。その皇宮こうぐうの広間に、何百人もの廷臣たちがずらりと顔をそろえていた。皇太子の十二の祝いの宴のためだ。皇太子は十二になると母から離れ、新しいみやを賜って住むことになっている。そんな節目でもあるため、今宵の宴は格別に豪華だ。


 けれど、宴席に座る皇帝は顔色が悪く、虚ろな目をしていた。幼い皇太子は退屈なのか、顔をしかめてむずむずと落ち着きなく座っている。母の皇后はそんな皇太子を見て美しい微笑を浮かべるだけで、たしなめる気配すら無い。廷臣たちは、山海の珍味や美酒に舌鼓を打ち、話に花を咲かせていた。


「めでたいことだ」

「本当に。皇太子殿下は皇后陛下に似てお美しい」

「あと数年たてば、瑞国一番の美男となられるだろう」

「そのころには、我が娘も年頃だな」

「私の娘はまだ赤子ですが、なに、男が年上の分には一回りも二回りも問題ございませんからな」

「しかし、皇帝陛下におかれては蒲柳ほりゅうしつでいらっしゃる。口にするのも憚られるが皇太子殿下がすぐに玉座に上られることも有り得るやもしれぬ」

「しっ、不吉なことを仰るな」

「だがそうなると、皇后陛下の一族が出しゃばってくるのではないか。皇后陛下は自分の一族ばかり優遇なさる。皇太子殿下に代わって垂簾政治すいれんせいじを行われることすらあるやも」

「皇后陛下は女性だぞ。まともに政治などできるはずがない」

「まあいいさ、そうなったらそうなったで私達が政治のやり方を教えてさしあげるのみ」

「そうだそうだ。皇太子殿下も皇后陛下も、政治のことなど何もわからないであろうから」

「我らがこの国を動かさなければ」


 話しこんでいた廷臣たちは、ひっそりと薄気味の悪い笑みを浮かべた。瑞国は、その体の中に何匹も何匹も虫を抱え込んでいる。



 そんな皇宮の真上の空は、つややかな黒の絹地に大ぶりの琥珀を置いて、小さな真珠をいくつもばらまいたようである。地上でどんなことが起ころうとも変わらない、泰然とした美しさがそこにあった。



「嫌な空だ」



 呟いた者の名を、楚清朗そせいろうと言う。広間から遠く離れた皇宮の端の端で、洗濯物を洗っているところであった。尋常でなく心が荒んでいるせいか、毎日洗濯物と向き合っているせいか、千金の夜空も清朗には黒い衣にしみが点々としているようにしか見えない。


 そもそも、清朗はこんなところで洗濯物を洗っているはずでは無かった。もし、あとほんの少し幸運であったなら、今夜の宴の上席に座っていたかもしれない。


 ほんの少しというのは誇張ではない。清朗は、難関の官吏登用試験たる科挙に二十八にして第四席で及第した秀才だった。瑞国にはこんなことわざがある。曰く、「五十歳で科挙に及第するのはまだ若い」。


 科挙の合格者の中で上位の三人は三元さんげんと呼ばれ、科挙の合格者の中でも別格とされる。成績はほとんど同じでも、第四席と第三席では名誉も人々の評価も天と地ほども違う。それでも、二十八の若さ、しかも第四席での及第は驚嘆に値するものだ。


 しかし、これには続きがある。本当は、清朗こそが主席だったのだ。そのことを、清朗は科挙の及第者が集められる酒宴で知った。酒に酔った高官が、第三席までの者が賄賂を使ってその地位を得たことをぽろりと漏らしたのだ。


 その時、最初に清朗の心に浮かんだのは疑問だった。これは本当に現実なのか、と。そしてすぐに、深い憤りと悲しみが清朗の心を塗りつぶした。ずっと努力し続けてきた。それは自分のためでもあったが、瑞国のためでもあった。瑞国を愛していたから。


 けれど、瑞国は簡単に清朗を裏切った。清朗の目の前に、黒くてどろどろとした中身をさらけ出して。


 この国は腐っている。清朗がそれに気づいたのはこの時だ。


 それから数ヶ月、清朗は故郷に帰って酒浸りになっていた。飲まなければ耐えられなかった。努力を否定されただけでなく、これまでの人生そのものを否定されたような気がしていた。人生を捧げようと思っていたものががらくただったと知った時、人はどうするのだろうか――そう考えるうちにどんどん気持ちが沈みこんでいき、ますます酒を飲むようになっていった。


 しかしそんな時、任官が決まった。任官先は瑞国の最高学府・国子監こくしかん。その教官に抜擢されたのだ。国子監とは、高官の子弟に教育を施す場所だ。瑞国には、門蔭もんいんと呼ばれる高官の子弟を官吏に自動的に登用する制度がある。しかし、何も知らない者を官吏にするわけにはいかない。そこで彼らを国子監に通わせる。彼らは国子監の寮に住み、日夜官吏となるため励むのだ。


 不思議なことに、その知らせを受けた途端目の前の霧が晴れていくような心地になった。国子監で学んだ者がそのまま官吏となり瑞国を支えていくことになるのならば、学生たちに熱心に教育を授ければ、だんだんと瑞国も変わっていくのではないか――そんな考えが一瞬にして清朗の頭の中に浮かんだ。


 清朗は決意した。もう一度瑞国のために仕えてみよう、と。そして、こころざしある者が瑞国に絶望せず、希望を抱けるようにしようと。


 清朗は国子監の学生たちに全身全霊で向き合った。学生からの質問や講義の準備に毎日深夜まで追われたが、まったく苦にならなかった。机に向かって科挙のための勉強をしていた頃より、国子監で学生に教えているときの方が何倍も楽しかった。


 学生たちも清朗の講義を真面目に、熱心に受けてくれた。たくさんの教え子たちが有能で清廉な官吏となって国子監を巣立っていった。


 任官から十余年経つと、清朗は国子監にその人ありと言われるまでになっていた、が。


 ある日突然、清朗は投獄された。「国子監の学生たちに不適切な教育を施した」罪で。


 心当たりは何もなかった。何かの間違いだろうとしか思えなかった。


 牢獄の中の清朗に真実を教えてくれたのは、清朗を哀れんだ獄卒ごくそつだった。


 獄卒は語った。清朗の教育は、本当に正しいものだった。清朗の教え子たちは贈収賄に加担せず、不正にもまったく手を染めなかった。けれど、清廉な官吏が増えたことで不都合に思う者たちがいた。それは、不正で甘い汁を吸っていた貪官汚吏たんかんおりどもだった。官吏たちに圧力を加えたいが、高官の子弟にそんなことはできない。ならば、元を絶ってしまおう。教え子だった官吏たちも、教師の教育が正しくなかったと言われれば、だんだんとこちらの水に染まってくるに違いない――そんな考えで、人の皮を被った悪鬼たちは、清朗に罪を着せることにしたのだ、と。


 ふざけている。こんなことが許されるはずがない――そう思っていた。


 さから、獄卒が沙汰を伝えに来た時、清朗は自分の疑いが晴れたことを伝えに来たのだろうと思った。信じていたのだ。科挙を受けた時よりも瑞国は良くなっているはずだと。瑞国に仇なす者の言葉を真に受けて、瑞国のために働いてきた者に罰を下すわけがないと。


 けれど、その考えは間違っていた。清朗に下された刑罰は死刑の次に重い刑罰である宮刑きゅうけい。清朗を去勢し、後宮に仕える宦官かんがんとする、というものだった。


 後宮には皇帝の妃たちが暮らしている。妃から生まれる子供の父親が皇帝以外であってはならないから、後宮に男を入れるわけにはいかない。けれど、男手はどうしても必要だ。そこで妃たちを妊娠させる心配のない宦官が必要となる。


 宦官は、宦官であるというだけで人々から見下され蔑まれる。だから、宦官は卑屈でそのくせ意地の悪い者が多い。皇妃や皇帝のすぐそばに仕え、たいへん可愛がられて大きな権力を握ることもあるが、それはほんの一握り。大多数は軽蔑と苦役にまみれて死んでいく。


 絶望した。瑞国を変えられると思っていた。少しでも変えられたと思っていた。それは幻想に過ぎなかった。瑞国は芯まで腐りきっていたらしい。そして、瑞国に仕えてきた自分は罪人として、宦官として人々にそしられ、苦杯をなめさせられるのだ。


 乾いた笑いが口から零れ出た。自分の人生は全て無駄だったのだ。努力も、苦労も、信念も。全て、全て。


 刑は速やかに執行され、清朗は宦官になった。清朗に残されたものは傷ついた身体と深い深い絶望だけだった。


 宦官たちは清朗に冷たかった。官吏かんりと宦官は昔から仲が悪い。おまけに清朗は罪人だ。飯を抜かれることや服を汚されることは日常茶飯事。与えられた仕事は宦官の中でも最下層の者のやる洗濯仕事だった。


 宦官になってから三月が経った今、毎日洗濯物を洗いながら清朗は考えている。自分の人生はいつ終わるのだろうか、と。人生を楽しむことも、月や花を美しいと思うことももうできそうになかった。

 

 


 けれどある日、単調な日々は終わりを告げた。十余万の宦官の頂点に立つ司礼監太監しれいかんたいかんに呼び出されたことによって。



「よく来たな、楚清朗」


 たっぷりと肥えた顔に福々しい笑み。妙に高い宦官特有の声で、司礼監太監は清朗に呼びかけた。好々爺こうこうやのように見えるが、そんなはずはない。皇帝の腹心中の腹心たる司礼監太監ならば、海千山千の狸に決まっている。足元には蹴落としてきた者の死体が山を作っているだろう。


「早速だが本題に入ろう。お前を皇太子殿下の側仕えに任じる」


 あまりのことに理解が追いつかなかった。皇太子は傲慢で、側仕えの宦官が何人も変わっているという話は聞いていた。だが、最下層の宦官、しかも一応罪人たる自分が選ばれることなど、夢にも思わなかった。


「何故、私を」


 ようやく発した声は掠れていた。


「そうだな、急すぎたか。まずは理由から話そう」


 諾否だくひを聞くでもなく早々と説明に入るあたり、司礼監太監は清朗に否と言わせない心づもりらしい。無論、清朗に選択権など無いけれど。


「皇后陛下がご自分の一族を随分とお引き立てになっていることは知っているな」


 当代の皇后・芳雪蘭ほうせつらんの一族は、もともと朝廷の末席を汚していたにすぎない。しかし、彼女がその美貌で皇帝の寵愛を受け、皇太子を産んだことで芳家は急速に力をつけた。彼女自身、皇帝に奏上して自分の一族を取り立てている。その勢いは年々増し、今では古くからの名門たる桃家とうけに次いで力を持つ一族となっている。


「あと数年たてば芳家の力は桃家に追いつき、皇太子殿下が皇帝となれば、しのぐであろう。皇后陛下は、その暁には芳家だけに権力を集中させたいと考えておる。その他の何人なんびとにも分け前は与えないおつもりよ。勿論、我々宦官にもな」


 皇后は、ほとんどの宦官を毛嫌いしている。宦官は皇帝に愛され、時に皇帝に次ぐ権力を持ち政治を牛耳ることがある。親族と自分のみ権力を握りたい皇后にとっては、邪魔者でしかないだろう。


 皇后が心を許す宦官は自分の側仕えのみ。そして、その側仕えには、司礼監太監と並ぶ皇帝の腹心中の腹心たる東廠提督太監とうしょうていとくたいかんの職をも与えている。東廠とうしょうとは、あらゆる情報を握るとされる、宦官のみから構成された特務機関である。その長たる東廠提督太監に皇后の配下が任じられているということは、皇后があらゆる情報を握り、瑞国中に目を光らせているということだ。


「皇后陛下の影響で、皇太子殿下も宦官がお嫌いだ。このままでは、殿下が皇帝になられたときの我々宦官の居場所が無くなってしまう。側仕えの宦官に、皇太子殿下が心を開いてくださることが必要なのよ。そうすれば、殿下の我々宦官への嫌悪も薄まっていくだろう」


 宦官は、権力者に気に入られねば生きる道はない。権力者に阿諛追従あゆついしょうし、骨抜きにして暴利を貪るのが宦官の生き方だ。


「それはわかりました。しかし、そこで何故私を任じようと思われたのですか」


 清朗が皇太子に気に入られるとは思えなかった。それに、十二の皇太子と四十路よそじの清朗では年も離れすぎている。もっと年が近く、ごますりが清朗より得意な宦官は、それこそ五万といるだろう。


「お前、命が惜しくないだろう?」


 その言葉と鋭い眼光が、清朗の呼吸を止めた。清朗は、自らの心を見抜かれているとは全く思っていなかった


 司礼監太監は清朗の過去も今も、全て知っているのだ。


「何人送り込んでも、すぐに逃げ帰ってきてしまう。皇太子殿下は、側仕えのことを『司礼監太監のいぬ』と呼ぶそうな。無論、悪口雑言には皆慣れておる。しかし、皇太子殿下の後ろにいらっしゃる皇后陛下が自分たちのことをそう思っておられることを考えると、皆恐ろしくなってしまうのよ。誰しも命が惜しいからな」


 司礼監太監の口調は穏やかで、どこか困ったような調子だ。しかし、清朗の身は震えた。


「お前は違うだろう。人生を早く終わらせたいのだから、逃げ出すはずが無い。待遇も今より良い。逃す手は無いと思うがな」

 

 司礼監太監は底知れぬ微笑みを顔に浮かべた。


 人生を終えること。それは、確かに清朗の唯一の望みだ。


 こうして、清朗は皇太子の側仕えとなった。











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