第31話 強敵なのかも
「病院にはね、メスも、注射器も、麻酔薬なんかもあるの。ユウくんが望むなら、安楽死させてあげてもいいのよ」
そう言う七瀬の服装は、すでにナース服になっている。ナースキャップ、ナースシューズと合わせて、限りなく白に近い薄桃色で揃えられていた。
《ナース》の
しっかりと知覚できてしまう。内観も、備品も、制服も、すべて現実のものとして。
それらに気になる綻びはなく、懐疑心がうまく働かない。
(これは若干、強敵なのかも……)
悠はくらりとする頭を押さえ、無言で立ち尽くす。
対して、七瀬は饒舌だった。
「本職ではもちろん使わないんだけどね。私は《ナース》だから何でも使いこなせるし。えっへん。あー、でもでも、やっぱり歯科用タービンが私は好きだなぁ。あの音がトラウマになってる人って実際多いし、そんなところにまた惹かれちゃうのよねー。ようし、決定!」
七瀬はいつの間にかマスクを付けて、目元を細め、悠に微笑みかけた。
「さぁ、ユウくん。こちらに来てくださーい」
「あ、はい……」
悠は七瀬に呼ばれるがまま、彼女に近付いていく。
当然だ。
病院で名前を呼ばれたら、それに従うのが当たり前だ。
七瀬の前には、歯科でおなじみの診療椅子が現れていた。
悠は自然な流れでそれに座る。
側を何人かの通行人が行き来したが、ここは病院であり、その治療の風景に何の疑問も抱かない。
「それじゃ、行きますよー」
七瀬は麻酔もかけずにタービンを唸らせる。
高速で回転する切削器具は、分速四十万回転もの勢いで先端部を回し、本来であれば虫歯となった箇所を削り取るために用いられる。
しかし今の七瀬は、その切削能力でもって悠の頭蓋を削ろうとしていた。
「痛かったら手を上げてくださいねー」
なんて、この状況下で痛くないわけがないのだが、七瀬は暢気に最悪なセリフを口ずさむと、半透明の手袋をはめた左手の指を悠の口内に突っ込んだ。
「うえ」
間抜けな声が上がる。
口内の親指、そして顎にかけられた人差し指と中指で悠の頭部は固定された。
いよいよタービンが死に至らしめるドリルとなって、悠の額に接着する。
その、瞬間。
「ひは、ほへはほはひいへほう(いや、それはおかしいでしょう)」
悠は、その異常に気が付いた。ふがふがという言葉とともに、彼の身体が沈み込む。
診療椅子は消えかかり、悠の身体と重複していた。
「あっ」
と七瀬が可愛く悲鳴を上げた時には、悠は彼女の手を逃れ、カエルのような体勢で両手両足を地面に付けていた。
次の刹那、七瀬の身体を浮遊感が襲う。
「え―――」
何が起きたのか理解できないまま、七瀬は宙に浮き、そして全身で着地した。
「あんっ」
身体を地面に打ち付けてから、足払いをされたのだと気付く。
しゃがみこんだ状態で七瀬の足を払った悠は、倒れこんだ彼女に覆いかぶさり、マウントポジションを取った。
「ひっ」
七瀬の目に、初めて恐怖の色が灯る。
「俺の勝ちですね」
悠が冷やかに告げ、左手で七瀬の口を押さえた。おぼろげなっていたマスクを突き破るかのようにして、発声が禁じられる。
「な……んで……」という七瀬の呟きは、彼女の口の中だけに響いた。
ショックで抵抗する意思を失った七瀬は両手が自由であるにもかかわらず、悠がナイフを振り上げるのをただ見守るばかりだ。
一方で、恐怖だけが臨界に達する。
「ん……っ、んんーーーーーっ!」
七瀬は口を封じられたまま叫ぼうとするが、
「悲鳴を上げたら殺します」
と言われて凍りつく。
もちろん、悠は悲鳴を上げなくても殺すつもりでいる。冷静に考えれば分かることだったが、この時の七瀬にそれは望むべくもない。
だが、冷静かどうかでいうならば、悠も完全には冷静でなかった。殺ろうと思えば、そんな脅しを口にするまでもなく、一息に殺してしまえたのだから。
真の殺し屋を自負するのなら、彼はそうして然るべきだったのだ。
悠の中に一瞬の躊躇を生じさせたのは、あの夢にまで見る出来事のフラッシュバックだった。
今と同じように、少女の上に馬乗りになり、ナイフで首を――
(――そうだ。同じこと)
縮こまるようにして固まった七瀬を見、哀願するような瞳を無視し、その首へとナイフを走らせる。
(終わりだ——)
そう悠が意識した瞬間、住宅街と重なっていた《病院》の風景は完全に消失した。
同時に、
「超天使ヨーヨーッ!」
上空から少女の声が聞こえ、バチンと悠のナイフが弾き飛んだ。
驚きに天を仰げば、
闇夜の空に、白き天使が浮いている――。
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