第29話 奇襲
などと考えながら、悠は尾行を続けていた。
駅からはまだ五分程度しか歩いていない。
しかし、人通りは如実に少なくなっていく。ファーストフードやコンビニなどの店舗もすでに絶え、道路を挟む景観は住宅街へと突入していた。
(もしかして、やっぱり恋人じゃないんじゃないだろうか)
とも思ってみるが、あの仲の良さは……友達同士って、こんなにいちゃつくものなのか?
スキンシップはなかなかで、人目がほとんどないことも影響しているのか、男は七瀬のスタイルのいい腰に腕を回したりなんかしている。
(…………)
なぜだろう、悠は自分がイライラしているのを感じていた。
しかしそれも一瞬、その行為を目にした一瞬だけで、悠の心は瞬間冷却装置でも作動したかのように即座に冷えていく。
(……行動に移るのは、男と別れてからだ。家まで一緒だったり、同棲なんかされていた場合は出直そう)
この時点で、悠は今夜の襲撃は諦めかけていた。時間も時間だし、男は七瀬を彼女の家まで送り届けるだろうと、そう読んでいたからだ。
ところが、それから数分もしないうちに、男は七瀬の腰から手を離した。二人は道の途中で立ち止まる。悠もまた、怪しまれないよう脇道に身を潜め、動きを止めた。
……どうやら、ここで別れるらしかった。
悠にとっては願ってもない。僥倖に感謝していると、七瀬を心配するような男の声が聞こえてきた。その気持ちは分からなくもない。悠もこんな時間に笙子が一人で帰ると言えば、送って行きたくなるかもしれない。
そんな男に明るく笑いかけ、七瀬は「大丈夫だよー」とか言っている。
全然大丈夫じゃないけどね、と思いながら悠は七瀬を応援した。ここで別れてもらわねば、殺害の機会はまた後日ということになってしまう。
二人はそれからも少しの間、手を握って話していたが、最終的には七瀬が勝ったようだった。なんだかんだいって、女は強い。
七瀬は別れる間際、男に軽くキスをした。目をつぶって背伸びをして、互いの唇を重ね合わせる。
「――――」
その一呼吸のキスの映像に、なぜだか悠の心臓は、どくんと高く脈打った。
(あれ? 俺は、キスをしたことがある――?)
そんな、この場においてまったくどうでもいいことを唐突に思い出す。
(それも、つい最近だ)
思わず唇に手を触れてしまう。
(だけど――)
だけど、その相手が誰かは思い出せない。
わずかに呆然としてしまった。
その瞬間。
「!」
視線を感じ、最速で周囲の状況を再確認する。
……三人の男女の姿があった。前方から道を歩いてくる若い男女のペアと、後方から近付くサラリーマン風の男性。しかしその誰もが、悠のことなど気に留めない。
(気のせいか……?)
彼らが往来を通り過ぎる間に、七瀬と男は別れの挨拶を交わしていた。
男はじゃあね、気を付けてね、と片手を上げて、近くの建物の中に消えていく。見たところまだ新しい、赤褐色の壁のアパートだった。ここに男は住んでいるのか。
七瀬は「おやすみーっ」と少し大きめの声で男を送ると、バイバイと手を振った。
七瀬は、そして歩き出す。
悠も当然ながら後を追った。
先ほど前を行ったスーツの男性の姿はすでになく、辺りに他の人影もない。
そろそろ動こうと悠は思う。
赤褐色のアパートも見えなくなり、次の交差点はまだ見えない。
まっすぐと伸びる道には、今や悠と七瀬だけが取り残されたかのようだ。
周囲の建物に遮られ、月の光も届くことなく。
頼りない街灯と民家から漏れる明かりだけが、静かに彼らの舞台を照らしていた。
悠は足音を立てずに、呼吸を行う息遣いすら殺して七瀬の背後に忍び寄る。
手にはナイフ。
今日は拳銃は所持していない――無音で致命の一撃を与えるために。
銃は足止めの必要がある場合にしか使わない。今回は背後から奇襲をかけるつもりだったので、悠の装備はナイフだけだった。
髪を掴んで頭部を固定し、首を裂く——背後からの致命傷を狙い、冷酷な未来を思い描く。
接近に要した時間は、わずかに五秒。
悠は七瀬の髪を掴もうと、瞬く間に手を伸ばす。
七瀬の身長は160センチあるかないかといったところで、中学三年生男子の平均身長を下回っている悠よりもやや低い。
悠は苦もなく彼女の髪を掴み、そして驚きの暇すら剥奪し、頸部を断ち切る――はずだった。
「!」
驚いたことに、掴もうとしていた七瀬の髪が左に揺れる。
思わず息を呑んだ悠の鼻腔には、何やら甘い香りが届けられた。
それがシャンプーなのかリンスなのか、はたまた香水のものなのかを一瞬思案しかけ、悠の意識は左手の痛みで現実へと帰還する。
七瀬の頭髪めがけて突き出していた悠の左腕には、銀色に輝くペーパーナイフのようなものが突き立てられていた。
「……っ!」
髪をふわりとなびかせて振り向いた七瀬が、悠の眼前で不敵に笑んだ。
「やっぱり殺し屋さんだぁ」
してやったり、という表情。
いたずらが成功したことを喜ぶような、ちょっと挑発的な笑みだった。
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