第28話 電車に乗る君の背中を密かに尾行した

 有井には、あれから気になっていることがあった。

 どうしても、悠の涙が脳裏に貼り付いていて離れない。


 学校でも、授業中でも、友達と話をしていても、その光景が蘇ってくる。

 あの少年のことばかりを考えている。


 まるで恋をしているみたいだ、と有井は思った。


 思い出す。

 落ちかけた夕陽が朱く照らす教室の中。

 右手のナイフを放り出し、一心不乱に自分の首を絞め上げた少年。


 その頬には細く、細く、涙が伝っていて。

 ああ、と有井は唐突に理解してしまった。


 ――ああ、悠さんは、本当は人を殺したくないんだ。

 それなのに、殺さなくちゃいけないから苦しんでるんだ。


 …………だったら。

 だったら、私がその心の傷を癒してあげよう。

 そうしたら、感激して萌えてくれるかもしれないし。

 それって、なんだかとっても天使らしいし。

 うん、そうしよう。

 それがいい。

 ふふ。


 ふふ、と再度、天使の笑みをこぼして。

 有井は——そう心に決めた。


    ◆


 七瀬七は市街の外れに近い歯科医院に歯科衛生士として勤務していた。


 髪はミディアムヘアというのだろうか、肩にギリギリ届かないくらいの長さで、分け目からくせもなく流れている。なお、仕事中は後ろで結っている。

 眼鏡はかけていない。目に色気がある。マスクが似合う美人――この辺はどうでもいいか、と悠は沢津渾身の調書――プリントの束をペラペラとめくる。


 仕事内容は歯科衛生士としての通常業務のほか、日によって受付も兼務する。勤務態度はイタズラ好き……って、やべえ奴じゃねえか。

 悠は目を疑った。調書の勤務態度の欄で真面目とか良好以外の表記を初めて見た。


 ——まあいいか。肝心なのはここからだ。勤務日数は週五日。今日、彼女が休みでないことを再確認すると、さらに勤務時間について書かれた部分にも目を走らせる。診察自体は十八時までだが、医院を出て帰路につく時刻はまちまちだ。十八時半に出てくることもあれば、二十時を回ることもあるという。


 ——というわけで、悠は念のため十八時過ぎから、私鉄の駅の構内で彼女を待っている。


 この駅は彼女が勤める歯科医院から目と鼻の先にあり、彼女が通勤に利用している地下鉄も乗り入れる駅だった。


 地下鉄への改札は二カ所あったが、歯科医院から近いほうで待っていれば間違いない。遠い改札へ行くにも通る場所だからだ。


 もっとも、歯科医院が入居するビル付近で張り込めればベストだったのだが、それだと医院が閉まった後に使われる通用口付近で出待ちすることになる。それはちょっと不審者になるのでやめておいた。


 ふぁ、と退屈であくびが出てしまう。イヤホンを付けて民放のラジオを聴いているものの、かれこれ一時間以上は待った。


 しかし、好都合だ。夜が深まれば深まるほど、人通りは少なくなる。さすがに駅構内にいる人の数は減らないが、駅から離れれば差が出てくる。


 沢津はあと一日あれば七瀬の最寄り駅や自宅の場所まで調べてくると言ったが、悠はそれを断った。どのみち犯行に及ぶのは闇にまぎれてになるだろうし、それなら現状の情報だけで十分だ。


 時刻が十九時四十分を過ぎた頃、七瀬は悠の視界に現れた。


 だが、悠はそれに気付かない。

 当たり前だ。悠は七瀬の顔を知らない。


 隣にいた沢津が悠の肩を叩いて教えてくれる。

 さすがに沢津もシリアスだった。

 悠が会話除けにラジオを聞いていたからといって、へそを曲げたりはしていないようだ。多分。


「じゃあ、行ってきますね」

「気を付けるのよ」

 ちらりと視線を寄こした悠を、ウインクしながら親指を立てて送り出す沢津。


 そうして、悠は単独での尾行を開始した。


 尾行といっても、駅や電車内にはまだ人が多いので、とくにこそこそする必要もない。むしろ、こそこそしているほうが不自然だ。


 悠は七瀬の後を追って、普通に電車に乗って、普通に四駅ほど通過した。

 七瀬は五駅目で乗り換え、その次の駅でまた降りた。


 結構遠くから通ってるんだなぁ、などと中学生の悠は思う。そこは二つ隣の市であり、萌義党の勢力分布的には最南端にあたる地方都市だった。


 そこで、悠は驚くべきものを目にする。


 悠が見たのは、男だった。

 いや、ただの男であれば、驚くには値しない。形容が必要だ。

 悠が見たのは、七瀬の恋人であると思われる男だった。


 背はすらりと高く、甘いマスクの、いわゆるイケメンというやつだった。


 七瀬と男は駅の外で落ち合い、軽く抱きしめ合ってから、何事かを話しながら歩いていく。


 七瀬の顔は笑顔だ。

 男もまた笑っている。


 そこにあるのは、間違いなく幸せと呼ばれるものだった。

 間もなく終わる、幸せ。


「…………っ」


 悠の中に相反するさまざまな感情が巻き起こり、千切れて乱れ飛び、入り混じる。


 その中には、なぜか男のほうに向けられる殺意もある。


 だけど、そのまるで意味の分からない発作はすぐに収束する。


 殺し屋だから。

 心は常に、冷徹に。


 悠は標的を見失わないよう細心の注意を払いながら、けれど一定の距離を保ちつつ、死神となるべく小さな一歩を踏み出した。

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