三、《ナース》のお仕事
第25話 ナースのお仕事
《ナース》は医療にまつわる概念であり、医療とは、大雑把に言ってしまえば心身の機能を治療するものである。そして、その治療の過程で、必要な措置として、人体を傷付ける場合がある。そう、メスで皮膚や筋肉を裂いたり、注射器で血管を穿ったり――それはどうしようもなく治療のためで、間違っても人体を傷付けるのが目的ではない。
ないのだが。
どうやら《ナース》は、あらゆる他者を攻撃対象とすることが可能らしい。
拡大解釈というやつか。
ともあれ、《ナース》――看護師は、メスは使えない。看護師は医師の許可を得て注射器を扱える者だが、メスを用いて手術を行える者ではない。その一般的な医療上の認識が《ナース》にどこまで適用されるのかは未だ判然としないが、目の前の相手はある一つの凶器を手にしている。それだけは、逃れようのない現実だ。
沢津は短く息を吐いた。
少し甘く見ていた――その事実を認めながら。
《ナース》の戦闘能力が高いかもしれないということは、可能性として考えていた。
しかし、これほどとは。
《ナース》の
そんなことを思いながら、沢津はあんぐりと口を開く。
「はーい、痛かったら言ってくださいねー」
「ていうか、痛くしないでよね! アタシ、痛いのは嫌いなのよ!」
「はいはい。善処しますよー」
沢津のオネエ口調にも動じず、敵は歯科用タービン――いわゆる歯を削るアレ――を徐々に近付けてくる。シュイイイイィィンという音と、キイイイィィンという音が混じり合った二重奏は、無慈悲に死出の旅へと発たせる送別の調べにも聞こえる。
歯を削る医療用機器、エアータービン。歯の表面を覆うエナメル質とは、人体を形成する骨子の内でも最も硬い組織だという。それすらも削り取るほどの攻撃力――まさに脅威。
沢津が怯えているのがそんなに楽しいのか、タービンをゆっくりゆっくり彼の口に寄せていく七瀬の目は、笑っていた。口こそマスクで覆われていて見えないが、どうせ唇の両端も持ち上げられていることだろう。
……タービンは、まだ沢津の口に到着しない。明らかに、彼女は焦らしている。
沢津は耐えられず、眼を強くつぶった。
「こら! 七瀬君、何やってるの!」
医師の声が聞こえ、七瀬がとっさにタービンを隠す。
「な、何もやってませんよ?」
七瀬の視線が斜め上に泳ぎ、後ろ手に持ったタービンがポケットに落とされるのを沢津は見た。
「先生、こいつ!」
沢津が目を見開いて唾を飛ばすと、人のよさそうな中年歯科医が眉を下げる。
「ごめんなさいね、沢津さん。ちゃんと叱っておきますから」
彼は七瀬のほうを向き、
「こら、使ってないタービンでいたずらしたらダメでしょう! ……これでよし」
「えへへ」
「全然反省してないよ!」
沢津は必死に喚こうとするが、
「静かにしてくださいね」
「もがっ」
口にめいっぱいの綿を詰められた。
沢津を黙らせると、七瀬は半透明の手袋に包まれた人差し指を突きつける。
「元はといえば、沢津さんが前フリなんてするからですよ? 『歯は削らないでね! 絶対よ! 絶対削らないでよ!』とか言われちゃったら、もう削るしかないじゃないですか。もともと私は歯科衛生士なんですから、歯を削ったりはできないっていうのに」
……そうだった。
沢津は歯科医院独特の空気に当てられ、動揺していたのだろう。そんなこと、すっかり忘れていた。いや、歯医者というイメージが生み出す恐怖感の前に、満足な思考ができていなかったというほうが正しいか。
七瀬は歯科衛生士であった。
沢津は《ナース》が看護師だとばかり思っていたから、特定に時間がかかってしまった。もっとも、彼のフォローをしておくと、歯科衛生士は女性であってもナースとは呼ばれない。ナースとは女性看護師——いわゆる看護婦のことであり、歯科衛生士は看護婦ではない。
にもかかわらず、七瀬は《ナース》の概念と合一化している。これは《萌え》的な見地において、彼女は大衆にそう認めさせるだけのスペックと適性を有していたからだろう。
でなければ、このようなことにはならないはずだ。
「それじゃあ、全体の歯垢を落としちゃいますねー」
綿の塊を取り、七瀬の指が顎に触れた瞬間、沢津の身体がぴくっと震えた。
(……やるわね。
このアタシが、悠ちゃん以外の人間に、それも女に触れられて悦びを感じてしまうなんて。
七瀬七、恐ろしい娘……ッ!)
快感と戦う沢津を不審がりながらも、七瀬は歯牙の掃除を終えた。
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