第17話 女教師フォーリンラブ

 久我くが八的やまとは市立第一中学校に在籍する二年生男子である。


 理数系科目が少々得意なだけの割と平凡な学生である彼は、この春先からとある《萌え》概念に囚われていた。


 ただし、彼自身には囚われているなどという感覚はない。

 単に胸を占有する圧倒的な感情の存在を――ひどく満たされた心地になる感情の存在を知るのみだ。


 その感情の矛先は、一人の女性だった。

 今年度から、新たに第一中学へと赴任してきた女性教諭。

 嘉村鈴子。


 今や全校の男子生徒、男性教諭のアツイ視線を一身に集めている彼女こそ、久我が堕ちた《萌え》概念——《女教師》の概念持ちタイトルホルダーだった。


 だが、久我はその事実を知る由もない。学内の誰も、それに気付ける者はいない。

 そもそも、概念持ちタイトルホルダーなんて者が存在することさえ彼らは知らない。


 萌義党という宗教団体の存在自体は、噂程度に知っている人もいるだろう。しかし、人々にとってそれは取るに足るようなものではなく、どうでもいいことだ。だから、萌義党の内部事情や具体的な活動内容、ましてや構成員が《萌え》概念と人間の合一体だなんて突拍子もないことは、世間一般に生きる人々にはあずかり知らぬことだった。


 久我にしてみれば、ただ純粋に《萌え》と出会い、堕ちただけのこと。


 彼らはすでに《女教師》の虜だが、それは彼らの意思でそうなっていることでもある。

《女教師》の美貌に、愛嬌に、色気に、仕草に、優しさに、厳しさに。

 彼らは触れ、萌え、惹かれ、堕ちたのだ。


 嘉村は全学年の理科を担当し、部活動では天文部の顧問をしている。

 ……もともと、彼女が授業を受け持つのは一、二学年の一部クラスのみのはずだったのだが、当該クラスでない男子生徒諸君の涙の猛抗議により、全学年の理科を他の教員と交代で受け持つことになったのだ。


 そして天文部では時折、学校側の許可を得て、下校時刻を過ぎた後の校舎の屋上で天体観測が行われていた。

 当然、久我も天文部に所属している。


 久我は夜の屋上で見る嘉村の横顔が好きだった。


 いや、もちろん、気さくなお姉さんといった感じの性格とか、大人を感じさせる声とか、スタイルのいい身体とか、知的な印象を底上げする眼鏡とか、そういったものにも多分に惹かれたのだが、敢えて一番を挙げさせてもらえるのなら、その美しく少し切なげな横顔だった。


 天文部には女子生徒も多からずいたが、夜空を眺めている嘉村――先生は、その誰よりも美しく見えた。


 それは、単に年齢の差が大人の女性を魅惑的に見せているだけではない気がする。

 それだけではない気がする。

 先生のためなら何だってできる気もする。


 ――久我は、それが恋慕や憧れと呼ばれる感情なのだと認識していた。


 そして今、久我はかつてないほど緊張している。

 制服のポケットの中で一通の便箋を温めながら、彼は職員用玄関へと向かう廊下を歩いていた。

 気温はそれほどでもないというのに、汗がにじむ。


 本当に、これでいいのだろうか。

 あの文章でよかったのだろうか。


 とくに、自分の気持ちを伝えるための言葉――その一言には気を遣った。

 悩みに悩みぬいた。


 僕は、あなたに――

「恋をしています」でも違う、「気持ちを受け取ってほしい」でもしっくりこない。

 なんかこう、もっと刺激的で、ロマンチックで、抽象的でなく、パンチの効いた――

 そして彼は、決めたのだ。


 その言葉に思い至った瞬間、あらゆる語彙を司る神が降りてきたのではないか、と自分の文才に畏怖すら覚えた。

 もうこの言葉しかない、と思った。


 久我は手紙にしたためた奇跡の一言を胸の内で繰り返す。

 そう、僕はあなたに――


「……フォーリンラブ?」


 すってーん! と久我は芸人のようにすっ転んだ。

 胸中で発したはずの言葉が、声となって耳に聞こえてきたのだから当然かもしれない。

 彼が驚くのも無理はなく、衝撃のあまりつんのめってしまったのもまったくもって仕方ない。その拍子にポケットから桃色の便箋が飛び出たのも必然で、廊下を滑ったそれを一人の女子生徒に拾い上げられたのも自然の――

 いやいやいやいや!

 慣性の法則はそんな風には働かない! とばかりに急いで久我は起き上がり、女子生徒に駆け寄った。


「いきなりコケるから、びっくりしたー。ケガはない?」


 久我が頷くと、おさげの女子生徒は笑って手紙を返してくれた。上履きのカラーリングから三年生だと分かる。


「誰に渡すかだいたい想像ついちゃうけど……頑張ってね」

 先輩女子は馬鹿にするでもなく優しげに微笑んでいた。

 久我はかぁっと顔が熱くなるのを感じ、慌ててその場を後にする。


「……あれ?」

 おさげを揺らして、女子生徒が辺りを見回す。

 彼女がさっきまで話していた相手がいなかった。


 そして、久我は。

 よもや自分が尾行されているなどと、夢にも思うことはなかった。

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