第8話 ぐさり
そうして朝。
昨夜の涙が嘘のように、晴れ晴れとした笑みをまとった天使の少女によって起こされた悠は、意識の覚醒とともに天啓を得た。
(そうだ——)
申し訳程度の食器棚から包丁を持ってくる。
「え? え? 破竹さん、何する気ですか? それで刺しても、私は死にませんよ? そりゃ、痛くもないですけど、包丁で刺されるなんてやっぱり気分悪いですし、止めてくださいよ。どうせ無駄なんですから」
たじろぎながら後退する少女に迫り、手を捕まえる。
急接近した二人の距離。
悠の右手には包丁。左手には少女の華奢な手首。
「ところで、昨日は一晩中ここにいたんですか?」
「そうですよ」
笑顔。
「本当に暇人なんですね……」
悠は。左手で掴んでいた少女の右手に、包丁の柄を握らせる。
「……?」
その意味を少女が思考するより早く、包丁を持たせた手を、自分のほうに引き寄せた。
ぐさり。
「え……きゃあっ」
可愛らしい悲鳴が上がる。
悠の左腕を掠めた包丁の刃には、わずかにではあるが鮮血が付着していた。
凶器が擦過した悠の左腕には傷が付き、破けた皮膚の隙間から段々と血が浮かび上がってくる。
(——止血はしておくか)
「何してるんですか悠さん!」
名前で呼ばれる。
少女――そうだ、名前を聞いていたんだった、有井が血相を変えた。
「左腕を傷付けさせました」
「どうして!」
泣きそうな顔で見つめられる。
「半袖だったし、場所的に丁度いいかなと」
「そういうことを聞いてるんじゃないですよ!」
悠が力を抜くと、解放された有井の手からは包丁が落ち、床の上でブルーレイのパッケージに受け止められた。
(片付けといてって言ったのに……)
「ば、ばんそうこう! この部屋にはばんそうこうとかないんですか?」
「あったようななかったような……」
生返事をしながら、少女有井の姿を観察する。
とくに変化はない。
頭上の輪も、背中の羽も、いたってそのままのようだ。
「あ、あれ、そんなに見つめて……もしかして、萌えてくれてます?」
「いえ、人を傷付けたのに、《天使》じゃなくならないんだと思って」
「―――――ばっ」
馬鹿、と言いかけて止めたような顔をして、天使の少女は俯いた。
「もう……今のはあなたに傷付けさせられたんじゃないですか。他人の手で概念を喪失させようだなんて、殺すよりも無理ですよ」
「やっぱダメですか……」
悠は肩を落とした。もしかしたら、と思ったんだけど——。
理論の上の話では、不可能ではないことだ。人間と《萌え》概念の合一体である
《天使》に反する行動をとって《天使》の概念を喪失すれば、有井優可はただの人間だ。
殺す必要もなくなる。
しかしながら、主体的に概念を喪失させるなど、自らの存在意義を否定させるのと同義である。
有井の言うとおり、殺すよりも難しい……というか、事実上不可能な難易度だ。
だから、殺すしかないわけで。
でも、殺せないわけで。
(どうしたら死んでくれるんだろう……)
悠は色褪せた瞳で有井を見た。
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