一、《天使》の微笑み

第1話 天使の微笑み①

 突然家を訪ねてくる女の子がいた。小包で届けられてくる女の子がいた。偶然異世界から呼び出してしまった女の子がいた。空から降ってくる女の子がいた。机の引き出しから現れる女の子がいた。魔法を使う女の子がいた。ドジな女の子がいた。幼馴染の女の子がいた。眼鏡をかけた真面目な委員長がいた。高飛車な良家のお嬢様がいた。血の繋がらない妹がいた。


 ――いつからだろう。

 世界が《萌え》で飽和しだしたのは。


 少なくとも。

 俺が子供のころは、ここまで酷くはなかったはずだ。


 それは。

 当時はまだ、殺し屋たちが健在だったことを意味しており。


 今や。

 彼女たちの勢いを止める者が、たったの一人だけになってしまったことを意味していた。


《萌え》の体現者たる存在を殺す者――殺し屋。

 その最後の一人こそ。

 破竹はたけゆう―――俺だった。


    ◇


「今、私の首を絞めようとしましたよね?」


「ええ、でも絞めませんでした」


「はい。そんなことをしても、私は殺せないですもんね。昨夜実証された通りです。うふふ。ですから、もう諦めてください破竹さん。大人しく、私に萌えてくれればいいんです」


 少女が微笑む。天使の笑みで。


    ◇

 

 昨日の夜——悠はいつものように、自身が通う(不登校気味ではあるが)白間市立第一中学校の宿直室で遅い夕食を採ろうとしていた。


 この時間、この部屋に来る者は誰もいない。いや、日中であっても、この忘れ去られた部屋を訪れる者はまずいなかった。


 強いて言えば、時々、公民教師の沢津が訪れるくらいである。現校長の息子である彼は、この部屋を悠が寝食の場とできるよう取り計らってくれた張本人であり、彼自身も月一程度の頻度で寝泊まりに使うことがあった。だいたいは給料日直後に大量の酒を買い込んでやってくる。


 そして昨日は六月上旬の日曜日――沢津が現れる可能性はほぼなかった。


 だというのに。


 旧時代の遺物とでも言うべき、立てつけの悪い宿直室の扉は。

 何の前触れもなく。

 廊下を歩く足音さえなく。人の気配さえなく。

 するりと滑るように開かれた。


「破竹さんですね?」


 第一声。

 それは柔らかな少女の声だ。自己紹介すらなく、傍若無人に是非を問う。


 悠はカップラーメンを啜る手を止めて、声の方に視線を向けた。


 少女は一歩部屋に踏み入り、すでに断定の口調で言葉を紡ぐ。

「破竹さん」

 まっすぐな瞳が悠を捉え、瑞々しい唇が歌でも口ずさむように告げた。


「私に、萌えてください」

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