囚人番号八十七
海汐かや子
これを愛と呼ばずになんと言う?
八十七は、痩せた顎を掻きながら天井を見上げた。高く黒い天井。真ん中に取り付けられた白目を剥く月のような、小さな照明。窓がなく、あるのは固く閉ざされた扉だ。六畳の空間に、机や椅子などの家具や娯楽品はない。備わっているのは便座と一枚の毛布、一冊の本だ。
この牢屋に入った受刑者たちが、暇つぶしに何度も目を通したのだろう――頁の至る所が黄ばみ、本そのものが曲がっていて古い匂いを纏わせていた。本が劣化した匂いと、本に触った人間の指の香りと、この空間に閉じ込められた人間の体臭を吸った重々しい匂いを嗅ぎながら、頁をめくる。
節くれだつ男の手が、文字を怪しくゆっくりとなぞる。
『人間は自由に結婚をしてはならない。結婚対象は全て政府が決める。政府に従うことこそ、国民の義務である』
なんの面白みもない文に、八十七は『結婚』の文字に指を這わせた。伸びた爪で、かりっと文字を引っ掻く。
「世話になったね、君」
八十七は、かさかさの唇を引き伸ばして薄らと微笑んで言った。肩幅が広く、腰が細く、身体に厚みのない猫背の男は、くしゃくしゃの黒い頭を掻き、ゆらりと陽炎のように立ち上がった。足元に影が落ちる。
彼は政府が与えた結婚相手を拒絶した罪で、刑務所に入れられた。同じ理由で三度この刑務所に収監された彼の目論見通り、看守の『楠木』に認知されるようになった。
楠木さん、と八十七は掠れた声で言った。
下唇を舐める。ぬらりと唇が濡れる。
鍵が解錠される音が聞こえた。扉が開き、体格の良い黒服の女性が八十七を眼光鋭く見つめる。
「出ろ、八十七」
「はぁい」
甘ったるく、八十七は答えた。慣れた仕草で両手の手首を合わせて軽く拳を握る。ネームプレートに『楠木』と黒く刻まれた彼女は、眉間に深いしわを寄せながら手錠をかけた。八十七は目を伏し目がちに、嬉しそうに頬を染めて口角をゆるりと上げる。ちらりと楠木を見ては、期待するかのように顔を近づける。彼の喉仏が上下する様子を見た楠木は、乱暴に肩を押して顔を遠ざけた。
「八十七、もう二度とここに戻ってくるなよ。政府は慈悲深い。外に出れば今度も新しい結婚相手を与えてくださる。決して拒むなよ」
うぅん、と八十七は唸った。
「君は結婚していないんでしょう」
「当たり前だ。私は政府に使える人間。結婚をして良いと認められていない」
「じゃあいいじゃん、俺と結婚して。俺のものになってよ。君が望むなら白いドレスも赤いドレスも、黒いドレスも用意しますよ」
目を細めて、吐息混じりに甘く告げた。彼の妖艶な容姿も相まって、蠱惑的に彼女を誘う。一瞬、彼女は自分の喉に蛇が巻きついたような心地になった。
「私がいつか看守を辞めたら、結婚相手が宛てがわれる。あなたとは結婚できない。あなたのものにはならない」
「その時はどんな手を使っても、君を攫おうかな」
参った、と彼女は唇を引き締めた。初めて彼と対面した時、無表情で虚ろだった瞳が自分を見た時、夜空に尾を引く彗星を見た子供のように輝いた。その時、肌が泡立った。狙われた。そう思った。
「外に出ろ」
また、はぁい、と甘ったるい声が響く。
楠木は落ち着かせるように自分の仕事を思い返す。
自分の役割はここから二十五メートル程の廊下を進み、囚人をエレベーターに乗せることだ。その後の引き継ぎは別の人間が行ってくれる。
「前に進め」
八十七は素直に前へ進んだ。ただし、足取りは遅い。日が差し込みにくい薄暗い廊下を、彼は惜しむように歩く。
「そういえば話していなかったんですけどね」
彼女は返事をしなかった。それでも八十七は口を開く。
「結婚を拒絶すると、三年間服役しなければならないじゃないですか。僕は三回服役したので、合計九年ですね。それでね、君は知らないかもしれませんけど。結婚を四回拒絶すると今度は服役ではなくて、永久に同じ職場に就くっていう法律になっているのはご存知ですか」
楠木は答えない。
「結婚を何度も拒絶する人間って、滅多に居ませんから。その法律が適用されること自体、あんまり世の中に知られていないんですけどね」
「その情報をどこで得た」
「本です。あの牢屋に置かれた本に」
「ボールペンや鉛筆の持ち込みは禁止されているはずだが」
淡々とした声色で言うと、彼はあっさりと口にした。
「血で書いてありました。読みにくかったですけどね」
ぎょっと楠木の肩が小さく跳ねる。
「血ですって?」
いつの間にそんなことをした人間がいたのか、とぞっと楠木の背筋は寒くなった。
「その就職先って、どうもここ、みたいなんですよね。正式名称は何でしたっけ……八霧島大監獄、でしたっけ。モンテ・クリスト伯のようなイメージで新たに作られた監獄島、ここです」
八十七は軽やかな口調で言った。
「楠木さん。君も四回、結婚を否定した人なんでしょう。だから看守をしている。いつか看守を辞める日が来たらなんて嘘を言っちゃって。辞める日なんて一生来ないのに。俺、不思議だなって思ったんですよ。どうしてこんな場所に勤めているのかなって」
「少し、黙ってくれないか」
「君も誰かと強制的に結婚相手を宛てがわれることが嫌だったんでしょう。俺と同じ。周りに合わせることが美徳とされているこの国で、君と俺は異端だ」
「黙って」
「だから俺は君に惹かれた」
「黙ってください」
「焦ると敬語になる君も、本当に可愛い。俺、昔から男性も女性も好きになるなんて無かったんですけどね。人間に興味がなくて。でも楠木さんを見た時、この人だって思ったんですよ」
「黙ってって言ってるじゃないですか」
「俺、君のことを甘やかしてあげたいです。手を繋ぎたいし、キスも良いですね、それ以上もしたいけど……楠木さんには刺激が強いかも。じゃあやっぱり抱きしめるのが一番かな」
「やめてってば!」
楠木が拳を握りしめて叫ぶ。
くるりと振り返って、八十七は微笑んだ。
「また会いましょう、楠木さん。君にどれだけ下の名前を聞いても九年間、教えてくれなかったね。でも時間はある。俺、執念深いんで。君が俺のものになるまで諦めませんよ」
八十七はエレベーターの前に止まり、自らボタンを押した。乗り込み、口の端を引き伸ばして楠木を見つめる。
射るような、狙いを定めるような瞳。
楠木はそれが怖かった。男性が自分自身に向けてくる愛情や執着心が、受け入れられなかった。結婚相手が宛てがわれた時、良き友人でいようと心掛けたが、全ての男は彼女に情欲を抱くようになった。
どうしても、彼女は受け入れられなかった。この身が穢されるような気がして怖くて仕方がなかった。だから結婚相手を全て拒絶した。
三度、監獄島に投獄され、四度になるとこの島で死ぬまで働くように命じられた。彼女は安心した。ここなら誰かに想いを向けられることは無い。退屈な仕事で薄暗い場所だけれど、恋情を向けられる恐怖に比べれば遥かに良い。
けれども、エレベーターの中に立つ彼は、自分を見て狙いを定めている。
「またね」
不穏な言葉を残して扉が閉まった。
楠木は膝を震わせて、背後の壁に背中を預けた。手のひらに冷たい壁の感触が伝わる。
恐らくあの男とまた自分は会う。この監獄島という狭い世界で。楠木はふらふらとした足取りで、八十七のいた部屋に向かった。
部屋の中心に、茶色い表紙の単行本が置いてあった。拾い上げ、震える手でめくる。
右の頁が折られた箇所をめくると、とある文字に何度も爪で引っ掻いた跡が残っていた。
『恋情』
黄ばんだ染みが黒い文字にまとわりつき、まるで呪いのように印字されたそれを楠木は唇を震わせながら、静かに、静かに見ていた。
囚人番号八十七 海汐かや子 @Tatibanaeruiza
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