小舟を漕ぐ後悔士

マスク3枚重ね

太鼓の音と小舟を漕ぐ後悔士

遠くから太鼓の音が聞こえる。川の向こうからこちらにゆっくりと近付いてくる。家の前をゆっくりと通り過ぎて行き、そして次第に音は聞こえなくなる。

毎日これだ。夜明け前、日の光が山向こうから指す直前にこの音で目が覚める。いい加減うんざりだ。起きる直前に目が覚めると私はもう眠れなくなるのだ。お陰でいつも睡眠不足だ。音の原因を突き止めてやる。


すっかり日も登り、会社に行く準備をして二階建てアパートの外に出る。すると箒で掃き掃除をする人が居る。


「大家さん、おはようございます」


「あら、井辻(いつじ)さん。おはよう」


私が恰幅の良い大家さんに挨拶をすると、箒を掃く手を止めて愛想良く挨拶を返してくれる。そして、私は夜明け前の太鼓の音に付いて訪ねてみる。


「あの、聞きたいことがあるんですけど」


「何かしら?お家のことかしら?」


「いえ、家の事ではなく、夜明け前の太鼓の音に付いて何ですけど…」


大家さんは首を捻る。何の事かわかっていないらしい。


「夜明け前にいつも太鼓の音が聞こえるでしょう。川の向こうから家の前を過ぎてあちらに」


私は家の前を流れる大きな川を指でなぞる様に説明するが、大家さんは訝しむ用な顔をする。


「そんなの聞こえないわよ?でも、どうかしら。私は眠りが深いから気付かないかもしれないわ」


「そう…ですか」


釈然としないが、少なくともずっとここに住んでいる大家さんは聞いた事がないらしい。私がここに引っ越してきて数ヶ月、毎日聞こえるあの音が大家さんが聞いた事がないのは何故なのか。色々考えるが答えは出ない。


「わかりました。そろそろ遅刻してしまうので、行ってみます」


「何かわかったら教えてね。行ってらっしゃい」


大家さんが手を振ってくれ、私も手を小さく振り返し足早に会社へと向かう。

朝の混んだ電車に乗り込み考える。大家さんはあのアパートが出来てから居るらしいから、少なくとも10年以上は住んでいる。その間に太鼓の音がしていたら、1度くらいは聞いていてもおかしくはない。だが、聞いた事が無いという。ならば私が引っ越してきた数ヶ月前から太鼓が聞こえるのか。数ヶ月の間に1度も聞いていないのだろうか、それも考えずらいだろう。何せあれほど大きな音だ。耳栓をしていてもギリ気が付く様な音なのだ。


「勘弁してくれ…」


私はそう呟き、ため息を吐く。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


仕事が終わり帰りの電車に揺られていると、誰かに話し掛けられる。


「井辻さん。貴方も今帰りですか?」


「ああ!お隣の川口さん、お疲れ様です」


この全身ムキムキの太い丸太がスーツを着ている様なこの人は部屋のお隣の川口さんだ。


「お互い、遅くまで大変ですね」


「いや、全く!明日はお互い休みでしょう。井辻さんもこれどうですか?」


川口さんが釣竿を振りリールを巻くようなジェスチャーをする。


「いえいえ、私は釣りはからっきし駄目でして。ジッと待ってられないんですよ」


「そうなのですか。いやー勿体ない!釣りはいいですよー」


川口さんは目をキラキラさせながら、リールを巻くジェスチャーを続けている。それを見た私は気が付く。


「釣りをやるって事は川口さんは朝早くに起きますよね?」


「そりゃもう!釣りは朝釣りが基本ですからね!」


「夜明け前に太鼓の音を聞いた事はありますか?」


「はい?太鼓ですか?」


川口さんは丸太のような首を傾げて、考え込むが「ないと思うな」と答えた。


「そうですか…」


電車が駅に着き、川口さんは明日の為の買い物をして帰るからとその場で別れる。井辻は家に帰るために街灯のない暗い河川敷を1人で歩く。


「私にしか聞こえないのか…」


井辻は1人そう呟く。


これはまずい。何かの病気なのかもしれない。だとしたらストレスとか心の病気とかだろうかと不安になる。そしてあの日を思い出し暗くなる。それを振り払うように首を振り、井辻は最後の手段に出る事にする。


「音の正体を直接、確かめるしかない!」


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


その日は帰って直ぐに眠り、そして夜中に目覚ましで目を覚ます。夜中の3時半、後1時間もすればあの太鼓の音が聞こえて来るだろう。直ぐに着替えて外に出ると、もう6月だが少し冷える。まだ辺りは暗く、井辻は河川敷の坂に腰を下ろす。


「太鼓を叩いてる奴に注意してやる」


井辻はそう口に出してはみるが、本当に太鼓を叩いている奴などいるのだろうかと不安になる。大家さんに川口さんは聞いた事はないと言っていた。自分にしか聞こえない音だったら、それは幻聴かなんかの類か超自然的な何かであろう。どちらにしろ怖い。そんな事をぐるぐる考えているとほんのり空が明るくなってくる。

ドン、ドン、ドン、ドンと太鼓の音が川の下流から聞こえてくる。井辻は立ち上がり川岸へと降りて行く。いつの間にか辺りは霧が出てきていた。霧の向こうから川の流れに逆らう様にゆっくりと何かの影がやってくる。ドン、ドン、ドン太鼓の音が影と共にやって来る。そして奇妙な歌が聞こえてくる。


「夜明け前の太鼓の音が、お前の後悔を対価にあの日に戻す。乗るか乗らぬか、お前が決めろ。太鼓の音が聞こえる者は乗る資格あり、乗らぬ後悔もう後がない。乗ってあの日をやり直せ」


その奇妙な歌と太鼓の音と共にやって来たのは小さな小舟だった。その小舟はかなり古い物の様で木でできている。そして笠を被った着物の男がその歌を歌いながら小舟を櫓で漕いでいる。そして呆気に取られる井辻の前に小舟は止まり、太鼓の音も止まる。笠の男が話仕掛けてくる。


「よお、やっと来たな。随分と遅いじゃねえか」


「あ、貴方が太鼓を鳴らしていたんですか。うるさいんですよ!毎日毎日!」


笠で男の表情はわからないが、肩を落として手を広げる。


「太鼓なんか持ってねぇぜ。聞こえるのはあんただけだ」


確かに男の手には太鼓はなかった。それにそんな音が鳴るような物がある様にも見えない。


「お前が聞こえるから俺が迎えに来たんだ。乗るか乗らないかはお前次第だがな」


「貴方はいったい…」


「俺か?俺は後悔士。あんたの後悔を航海できる舟漕ぎだ」


男は笠を少しだけ上げて口元をニヤリとする。


「後悔…士…」


意味がわからない。意味はわからないが…後悔。この言葉程、私に刺さる言葉はない。私には大きな後悔がある。その後悔は私の中に重くのしかかり、いつも苦しんでいる。そうだ、この太鼓の音が聞こえ出したのもここに引っ越してからじゃない。私はこの舟に乗らなければならない、そんな気がした。


「乗るかい?」


「乗らせて…もらう」


「そうこなくっちゃね!」


私は舟に足を掛け舟に乗りこむ。舟は少し揺れ、バランスを崩しそうになり笠の男に服を掴まれる。


「舟から絶対に落ちるな?座っとけ」


私は舟の椅子に腰を下ろすと笠の男はゆっくりとギィーギィーと音を立て舟を漕ぎ出す。するとまた太鼓の音が鳴り出す。

ドン、ドン、ギィーギィー、小舟はさらに深くなった霧の中を進み続ける。笠の男がまた歌い出す。


「夜明け前の太鼓の音が、お前の後悔を対価にあの日に戻す。乗るか乗らぬか、お前が決めろ。太鼓の音が聞こえる者は乗る資格あり、乗らぬ後悔もう後がない。乗ってあの日をやり直せ。自分の後悔、自分でどうにかするものだ。後悔の海で溺れて死ぬな…後悔士が導く後悔の海を大航海〜なんてな!」


井辻が振り返ると相変わらず口元しか見えないが笑っている。


「私の後悔を旅するってどういう意味なんだ?それに後悔が対価とは、あの日に戻れるってのは本当か?」


井辻が一気に捲し立てるように聞くと笠の男は櫓を動かしながら答える。


「まんまだよ。お前の後悔の海を航海して、1つお前の後悔を俺が貰う。そしたらお前の最悪のあの日、後悔したあの日に送って行ってやる」


「後悔を貰うってどうやって…?」


「すぐにわかるさ…」


2人が乗る小舟は薄暗く深い霧の中をゆっくりと進んで行くが井辻はある事に気が付く。一向に朝がこない。あれから随分とたったがいつまでも太陽が昇らないのだ。それに、いくら大きな川でも明らかにおかしい。これだけ進めば川幅は狭くなるし流れも早くなるはずだが、霧でよく見えないが凄く広く感じ、それに流れは一定の速度のままだった。


「もう後悔の海に出てるぞ」


笠の男が井辻の心を見透かした様に答える。


「後悔の海って何なんだ?」


笠の男が顎で前を指し示す。井辻が前を見ると向こうから光の群れがこちらにゆっくりと向かってくる。


「なんだあれは?」


「灯篭だよ」


笠の男は何ともなしに答える。光達は徐々に近付き姿が見える。四角い紙の中に蝋燭の灯りを灯す小さな舟が沢山流れて来ている。


「これって…灯篭流しの…?」


「そうだ」


その光景は幻想的だった。霧の中で沢山の優しい光がゆっくりと私達の乗る小舟と反対方向へ流れて行く。だが灯篭流しと言えば死者の魂を弔う為の物、なぜ後悔の海を流れているのだろうか。


「私は…まさか死んだのか…?」


「お前は死んでない。本来、灯篭流しは死者や御先祖様をあの世に送る為の物じゃない。後悔を持った生者が死者に送った送り火が始まりだ。いつだって後悔ある者は生者と決まっている」


灯篭が小舟を避けるように流れていく。笠の男が笠を深くかぶり直す。


「そろそろお前の後悔の話を聞こうか」


その言葉で水面が光、私の後悔が水面に浮かび上がる。その上を小舟と灯篭がゆっくりと交差する様に進んで行く。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


後悔は1年前。4年間付き添った彼女の事だった。私は彼女を本気で愛していた。結婚を考えて指輪も用意した。プロポーズを控えた前日に彼女が消えた。井辻は彼女を探し警察の協力を得て、2日後に彼女が見つかった。彼女の様子が明らかにおかしく、病院で検査を受けさせた。


「彼女は若年性認知症です」


医師のその言葉で彼女の両親と私は固まった。彼女の物忘れはよくある事だった。それは子供の頃からだったみたいで両親も私も直ぐに病気だと気が付かなかったのだ。そして彼女は幼児退行してしまった。私の事も忘れてしまい、両親と共に暮らす事になった。私はそれでも彼女と結婚したいと両親にお願いしたが「駄目だ」と追い返されてしまった。今なら彼女の両親の気持ちもわかる。まだ若い私に辛い思いをして欲しくなかったのだと思う。だが、これが大きな間違いだった。彼女は自殺した。彼女の葬式で彼女の母親に私宛の手紙を渡された。そこには拙い文字でこう書かれていた。


『けいごくんへ。だいすきです。ばいばい』


私は手紙を握り締めたまま泣く事しか出来なかった。彼女は私の事を時々思い出していたのだ。両親はその事に気が付いていたが私には言ってくれなかった。

それから直ぐに仕事を辞めて、県外の今のアパートに引っ越し新しい会社に就職した。彼女を忘れようと。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


「そうだ。彼女が死んでから太鼓の音が聞こえていたんだ。引っ越してから、より大きくなったんだ。どうして…」


「太鼓の音は後悔する者、皆が聞こえているんだ。気が付かないで死んでしまうのが殆どだがな」


太鼓の音が静かに鳴っている。遥か遠くで聞こえるような近くで聞こえるような、そんな感覚。


「お前の後悔はわかった。彼女が消える前の日に送ってやる」


小舟は水面を滑るように進んで行く。薄暗く深い霧のその向こう。

灯篭達が疎らになり始め、井辻も何となくだがこの旅ももうすぐ終わるのだと感じる。井辻が笠の男に訪ねる。


「貴方には後悔はないんですか?」


すると笠の男が櫓を漕ぐ手を止める。


「びっくりしたぜ。この仕事長いが初めて聞かれたな。俺に後悔はない。いつだって生者だけが後悔してんだよ…」


笠の男がまた漕ぎ始め舟が再び進み出す。


「俺に後悔はない…後悔はないが…いつだって心配はしてんだぜ?ほら着いた。お前の後悔、譲り受けた。行ってきな!後悔ないようにな!」


小舟は止まるが、殆ど霧で先が見えない。井辻は降りるのを躊躇する。


「大丈夫だ。俺を信じて行ってこい!」


井辻が振り返ると笠を上げニッと笑う男の顔は私の顔に似ている様に見えた。男に軽く胸を押され、井辻は背中から水面に落ちる。身体は動かせずゆっくりと沈んでいく。あの日を取り巻く後悔の日々が自分の周りを回っている。次第にそれは渦となり井辻を飲み込み意識が薄れていく。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


目が覚めると雀の囀りが聞こえてくる。窓を見ると日が登り朝になっていた。隣には寝息をたてる彼女がいる。私は我慢できずに彼女を力強い抱き締めた。彼女も寝惚けながら抱き締めてくれる。


「う…ん…けいごくん…おはよう…どうしたの?泣いてるの?」


「いや、泣いてないよ…あくびしたら涙が出たんだ…」


「そっか。勘違いだぁ」


彼女はえへへと笑いまた目を閉じる。しばらくしてから私はゆっくと彼女を起こさないように起き上がり、スーツのポケットから箱を取り出して中から指輪を取り出す。そしてまた布団に潜り込む。彼女の指に指輪をそっとはめてやり、私もまた目を閉じる。


きっと楽では無い道のりだろう。でも後悔はない。彼女が幸せになる未来、そして私が幸せになる未来。その日から太鼓の音は聞こえない。



おわり

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