レオナルドの鱗粉

庚乃アラヤ(コウノアラヤ)

レオナルドの鱗粉(約10,800文字)

 モモンガは被膜が生み出す揚力によって、人間は気の迷いによって空を飛ぶ。


 では、クマバチはどうか。

 かつては、気合いと思い込みで飛んでいると言われていた。


 彼らの身体は飛翔するにはずんぐりし過ぎていて、羽のサイズはあまりにも心もとない。航空力学上、飛行原理の説明がつかない生物とされ、一部の根性論者スポコンどもからは「不可能を可能にする象徴」としてありがたがられてきた歴史がある。


 だが、流体力学の発展によって空気の粘度を利用していることが明らかになると、「飛べると思っているから飛べる」という素敵理論は徐々に過去の遺物と化していった。


 さて。ここで一つ、この話における例外を紹介しよう。

 レオナルドクマバチだ。

 このクマバチが纏う鱗粉のような粒子は、彼らの鈍重極まる肉体に縦横無尽の飛行能力を与える。ティンカーベルの鱗粉のように、「飛べる」と信じるものを空に導くのだ。


     ◆◇◆


 立京大学産学連携研究センター。一九九六年にレオナルド・オグマ博士が、件のクマバチを発見したことを契機に創設された研究施設だ。近年では、国内外の産業組織や研究開発機構と共同して様々な研究分野の支援・推進を行なうまでに発展したが、一方で当初の創設目的であったレオナルドクマバチの関連研究は縮小の一途を辿っている。


 その理由は至極単純で、金にならないからだ。

 研究チームはいま、資金の調達先を血眼になって探している。


「普通、クマバチに鱗粉はありません。初めはその点が話題になって、このレオナルドクマバチは注目を浴びました。ご覧ください。ハチの周りで黄金色の粒子が渦巻いているでしょう。これがオグマ粒子。発見者のレオナルド・オグマ博士にちなんで付けられた名前です」


 ダグザ・カーマン主席研究員の流暢な日本語が、講堂内に朗々と響く。

 話を聞いているのは、大学内外から呼び集められた見学者たち。それと、手伝いのために駆り出された学生が一人――つまりは、私。まったく、泣ける人手不足だ。


「彼らは、オグマ粒子が生み出す斥力によって飛翔します。ああ、“飛翔”と言いましたが、彼らの翼が飛行動作に影響を与えることはほとんどありません。このサイズでは、滑空するにも軌道変更するにも小さすぎます。では、何のために翼が生えているか分かりますか?」


 そこの貴方とカーマンが指を差すと、齢十ほどの少年がビクッと身を震わせた。自分が指名されるとは思いもよらなかったらしい。不安げな様子で少年は、答えを口にする。


「えと、あの……カッコいいから、とか?」

「おおっ、素晴らしい。当たらずとも遠からずですよ! 雰囲気作りは大事ですからね。私も小さい頃、段ボール工作で飛行ユニットを作ったものです。可変後退翼の制作に成功した時には、クラスメイトに自慢したりして」

「脱線していますよ、カーマン先生」


 私が耳打ちすると、カーマンは額をピシャリと打って、


「やっ、失礼。この話はまたの機会にしましょう。それでどこまで話しましたっけ、フウカくん?」

「飛翔には雰囲気作りが大事、という話です」


 私が軌道修正をしたていだが、実のところ、この掛け合いはほとんどカーマンが組んだ台本の通りだった。どんな珍回答が返って来ても、話の筋は最初から決まっているというわけだ。とぼけているようで、意外と抜け目がない。


「そう、そう。それそれ。大事なのはムード。その気になれば飛べるぞ、という確信です。“思い込み”とも言い換えられますが、意外とこれが馬鹿にできない。偽薬効果なんてのもあるくらいですからね」


 言いながらカーマンは、手元のコンソールを弄ってプロジェクタのスイッチを入れた。すると壇上のスクリーンに、ホバリングしているレオナルドクマバチの姿が拡大投影される。ファーみたいな黄色い体毛に大きなサングラスを掛けているような風貌で、よく国内で見られるキムネクマバチに似ている。違っているのは、羽のサイズが小さくて羽ばたく音もごく微かだということ。そして、全身を覆うように黄金色の粒子が渦巻いていること。この二つだけ。丸っこくてかわいい点は、キムネと同じかそれ以上だ。


「ここに、別のレオナルドクマバチから採取したオグマ粒子を散布します。目で見て区別がつくように、今回は赤色に着色していますね。別個体の粒子同士が接触すると、どうなるでしょうか? ああ、仰らないで。答えは見てのお楽しみです。さ、フウカくん」


 カーマンの合図で、私は手にした保管容器の封を開放した。

 赤い粒子が重力に引かれ、綿雪のようにゆっくりと落ちていく。そして、ケースの中で渦巻いている黄金色の粒子と合流し――弾き飛ばされた。赤い粒子だけが正確に振るい落されていく様を見て、観客たちはあっと声を上げる。


「驚いたでしょう」


 どこか誇らしげにも見えるような笑みで、カーマンは一同に語り掛ける。


「オグマ粒子は生体粒子です。粒子と、それを生み出す個体とが繋がりを持っています。ですので、レオナルドクマバチが『飛ぶぞ』と思っていると、自身が発した粒子だけがその意思に反応して励起し、斥力を生じるのです。別個体の粒子は呼応しませんから、そのまま地面に落ちていったと。つまりはそういうことです」


 台本通りであれば、このあとは飛行装置の実演だった。

 だが、それではあまりに説明が不十分に思えた。


「ハチと粒子の間で発せられている伝送波についてはまだまだ未解明の部分が多いですが、この仕組みをヒントに生体同士が直接通信する技術――いわゆるテレパシーの実現が可能ではないかという説も唱えられています。オグマ粒子関連技術は、飛行以外の分野にも活用の可能性があるということです」

「あー、フウカくん。補足説明どうもありがとう」


 喋りすぎだ、と言いたげな表情でカーマンが割って入る。セールスポイントは多いに越したことはないが、隠しておいた方が良い手札もある。そう思っているのだろう。出し惜しみをして資金が尽きたら、本末転倒だろうに。


「まあ、まだ研究の余地が多分にあるものですから、そういった期待もあるという話です。今は特に、オグマ粒子を利用した飛行装置の研究開発がメインの活動になっています。今日は最後に、その成果物をお見せしようと思います」


 そう言い残して、カーマンは舞台を降りて袖へと引っ込む。そして、十秒足らずほどで戻ってきた。背中にカーボン製のバックパックを背負って。


「これが“オグマ・サーキュラー”。我々が開発した飛行ユニットです」


 その場でクルリと回って、サーキュラーを見せ付ける様はさながらランドセルを自慢する子どものようだ。カーマンは、ユニット側面から伸びている後退翼を撫でながら、観客に問いかける。


「さて、ここでおさらいです。このオグマ・サーキュラー。翼が生えていますが、これはどういった機能があるでしょうか。分かる方、いらっしゃいますか?」

「カッコいいから!」

「ようし、そこの少年。満点をあげましょう。その通り、これはカッコいいから付いています。単なる背嚢じゃ、ムードが出ませんからね。使用者に『飛べる』と信じさせるためだけに生えているものです。だから、エルロンもないしエンジンも懸架されていない。まあ、コッソリ着けてやりたかったんですけどもね。怒られたのでやめました」


 カーマンが肩をすくめると、クスクスと笑う声が場内に響いた。

 一同が静まるのを待ってから、彼は再び解説を始める。


「では、どうやって飛行姿勢や速度を変えるのかという話になりますが、まず側面に空いているこの粒子出入孔もあまり関係ありません。閉鎖弁こそ付いていますが、調整機能などは全くありませんからね。ではどこが担当しているかというと、答えはここです」


 カーマンが指したのは手近のコンソールでも、サーキュラーの構成パーツでもなく、自分の頭だった。人間の脳みそ。そいつが操作系であり、舵であり、エンジンでもある。この点はレオナルドクマバチも同様だ。


 ハチたちのようにヒトが自力でオグマ粒子を生み出せるようになれば、サーキュラーは無用物になる。諸々の安全性を脇に置けば、という話ではあるが。


「“飛翔の力は意志の力”と言った友人がいました。まさにその通りで、サーキュラー自体が飛行能力を有しているのではありません。言うなればこの装置は補助輪で、使い手こそが自転車本体といったところでしょうか。これを履き違えると中々うまく飛べないものです。だって、補助輪が単独で走れるわけはないでしょう?」


 何とはなしといった感じに、カーマンは爪先で地面を軽く三回叩く。

 それは合図だった。


 トトトンと靴音が響いて、彼の身体は音もなくその場で浮き上がる。サーキュラーから吐き出された金色の粒子が、舞台の上で小さな竜巻のように円転している。どこか神秘的な光景に、観客たちは感嘆の声を漏らした。


「最高速度は時速三百三十キロ、限界高度は約四千メートルです。速さでは最新のジェットスーツに少々劣りますが、こちらは内燃機関で飛んでいるわけではないので航続時間が長く、おまけに静音性が高い。両手もフリーになりますしね」


 四肢や胴体に小型ジェットエンジンを着けて飛行する試みは、二十一世紀初頭から現在まで続けられてきた。英国のブラウニング社製ジェットスーツが時速四百キロでの飛行に成功したニュースは記憶に新しいが、カーマンもそれを意識しているのだろう。言葉の端々に、ジェットスーツに対する対抗意識が感じられた。


「質問よろしいでしょうか、カーマン教授」


 興奮に沸く観客たちの中で誰が手を挙げる。聞こえたのは、男性の声だった。

 人の波がさっと開けると、身なりの良い青年がそこに立っている。

 カーマンが促すと、青年は丁寧な口調で質問を始めた。


「オグマ・サーキュラーの研究は非常に魅力的なものだと思うのですが、それゆえに分からないのです。なぜ、オグマ・サーキュラーが普及しないのか。量産にあたって何か課題があるのでしょうか……申し訳ございません。不躾な質問かとは思いますが、どうしても気になったので」

「いやいや、こちらこそ上から失礼します。それにしても、あなた。今とても良い質問をされましたね」


 ふわふわと壇上の数メートル上を漂いながらカーマンは微笑み、


「確かにご指摘の通り、オグマ・サーキュラーは一般に出回ってはいません。学内でちょっとしたレースを開催したり、研究員が借り出すことはありますが、今のところはそれだけです。理由は幾つかありますが……特に大きな要因と言えば、やはりオグマ粒子の安定生産が難しいという点でしょう。化石燃料で飛ぶジェットスーツと違って粒子の調達は容易でなく、市場に出した場合は価格が不安定になると推測されます」

「養蜂場の敷地は広かったと思うのですが、あれでも見通しが立たないものですか?」

「採取量と言うより、粒子の調整過程に課題がある状況ですね。人間の脳とリンクできるものを作り出すのはなかなか難しいのです。この辺りの話題は説明すると長くなりますから、この場でのご説明は差し控えたいと思います。興味があれば個別にお話ししましょう」

「分かりました。有難うございます。安全面の課題、というお話ではなくて何だか安心しました。ぼくもいつか、サーキュラーで空を飛んでみたいものです」

「そう、ですね。質問をありがとうございました」


 安全面の課題、というワードが飛び出した時。カーマンの表情が僅かに翳って見えたのは、私自身に思い当たる節があったからだろう。


 数か月前、アーニェ・クロムが死んだ。

 レオナルドクマバチ研究の権威であり、父とカーマンの同僚であった女が死んだ。

サーキュラーでの飛行中に事故死したことになっているが、本当は違うことを私だけは知っている。あの女は事故に見せかけて殺されたのだ。この私の手によって。


     ◆◇◆


 私の父、番場ヒデオからアーニェ・クロムを紹介されたのは、九年前。母の一周忌の日だった。サーキュラーの試験飛行に初成功した父は、その夜、有頂天で家に帰ってきた。親戚たちはとうに解散し、家の中が余計に寂しく感じられたのを今でも覚えている。


「父さん、まだあの人と仕事の相談があるからな。お前は先に寝てなさい」


 会話もそこそこに、父はそう言って私を寝室に連れて行った。

 今日くらい休めなかったのか、とか。そもそも今日が何の日か分かっていたのか、とか。訊きたいことがたくさんあったけど、父さんは仕事のことで頭が一杯な様子だった。クマバチの研究は確かにワクワクするものだけど、それでも、それが家族より大事なものだとは私には思えなかった。


「やはり問題なのは、粒子と人のマッチングね」


 眠るに眠れず聞き耳を立てていると、リビングからクロムとかいうひとの声が聞こえた。酔っぱらっているのか、苛立ちを隠そうともしていない。宥めるように、父さんの声がそれに応じた。


「マッチングの件なら、ひとまず手段を確立したろう。十分じゃないか」

「人間の脳にハチの伝送波を学ばせるなんて非効率的でしょ。丸三日も機械に繋がれて、粒子制御の神経パターンを刷り込まれるなんて私は御免」

「じゃあ、君がダグザと進めているプランの方がベストだと言いたいわけか?」


 そうよ、とクロムは自信ありげに答える。

 後になって知ったことだが、このとき彼女らが実証を進めていた手法こそ、現在、粒子精製でスダンダードとされている“カーマン・クロム式調整法”であった。ダグザ・カーマン、アーニェ・クロムの両名から名を取ったこの手法は、父さんが当時多用していた脳波デバイスによる学習法と違って確かに効率的で手軽だった。まず、人間の側で努力をする必要がない。レオナルドクマバチが全ての負担を背負うことになる。


 調整法の中身はこうだ。はじめに、羽のないレオナルドクマバチの群れを生み出す。彼らは羽ばたくことができないため飛行する意思を欠いていき、やがて粒子を生み出すことも止めようとする。それを防ぐために、飼育者たちは粒子検出器付きの自動給餌器を養蜂箱に据え付ける。するとハチたちは、粒子を生み出した分だけ餌が増えていくことを学習する。空を飛ぶためではなく、餌を得るためだけに粒子を生成するのだ。


 こうなった場合、オグマ粒子は伝送波を浴びることなく生み出されるため、不安定な状態になる。同調すべき対象を見失った状態になるわけだ。だから、そこへ人間の脳波を変換した伝送波を浴びせてやれば、人間の脳とのリンクを構築することができる。雛鳥が初めに視たものを親と思い込むのと同じように、オグマ粒子もまた初めに繋がったものを自らの主人とするのだ。


 父さんは、この手法に反対する立場を取っていた。アーニェ・クロムを家に連れてきたあの日も、二人は激しく口論していた。


「君の手法はハチたちに与える苦痛が大きすぎる」


 子どもを叱るような口調で、父さんが話し始める。


「動物実験指針の三原則を知っているだろう? 苦痛の軽減Refinement代替手段の活用Replacement使用数の減少Reduction。こういう傾向は年々加速している。先天的だろうと後天的だろうと、翼のないハチを作り出す行為は時代に拒絶されることになるだろう」

「『ハチたちの苦痛』と言うけど、そもそも昆虫が侵害刺激を感じるかなんて分からないでしょう? それに飛ばずに餌を得られるのだから、ハチたちにとっても悪いことばかりじゃない」

「随分な言い様だな。空を奪われたハチがどうなるか、考えたことはないのか?」

「実験が嫌なら養蜂家にでもなったらどうなの?」


 敵意を剥き出しにしたクロムの声に、私は身じろぎもできなくなる。

 それは父も同じだったのか、やや沈黙があった後にやっと父は言葉を返した。


「羽なしが生む粒子は、時を追うごとに伝送波との同調性能を落とす可能性がある。ダグザもそう言っていたが」

「今のところ、有意な結果は出ていない。誤差の範疇よ。あなた、もしかして妬みでそういうことを言ってるの?」

「もういい」


 ばんっと机を叩く音がした。足音が廊下を通って急速に近付いてくる。慌てて、布団の中に滑り込むと、玄関扉が開く音がした。


「帰ってくれ」

「ええ、言われずとも」


 クロムのせわしない足音が、部屋の前を過ぎ去っていくのを私は耳にした。

 これ以降、父が彼女を家に招いたことは一度もなかった。それは、そう日が経たない内に父が亡くなったせいでもあった。


     ◆◇◆


「――ここに居たんですね、フウカくん」


 養蜂箱の前で古い記憶に浸っていると、ダグザ・カーマンが空から降りてきた。彼は日頃から移動手段としてオグマ・サーキュラーを多用している、と講演会の前から聞き知っていたので特に驚きはなかった。

 養蜂箱に視線を戻すと、カーマンがなおも声をかけてくる。


「楽しいですか?」


 この研究施設にいることが、という意味だろうか。あるいは、羽のないハチを眺めていることがという意味だろうか。いずれにせよ、愉快な気分になるものではない。このハチたちは羽ばたくことができない。どこへも行くことができない。彼らはこの研究の犠牲者なのだ、私と同様に。


「先生の目にはどう映りますか?」

「少々くたびれているように見えますね。やはり、いきなり講演会の手伝いというのは負担が大きかったのでは」

「いいえ。博論も既にまとまっていますから余裕はあります。大丈夫です」

「君は確か、粒子発生器官の人工形成について書いていましたね。テーマ的には私よりもアーニェのところの方が相応しいと思っていましたが……彼女と最近会ったことは?」

「いえ、葬儀には参列させていただきましたが」


 アーニェ・クロムは、サーキュラーの飛行中に死んだ。原因はいわゆる過労運転と判断されているが、この状況こそ私が仕組んだものだった。


 殺しの道具はオグマ粒子だ。オグマ粒子は脳との直接リンクによって、その挙動を変化させる。さらに言えば、粒子を介して脳と脳とを連絡させることも可能だ。たとえばレオナルドクマバチの群れとアーニェ・クロム、双方の伝送波に感応するよう調整すれば、二つの主がオグマ粒子を巡って綱引きを演じることになる。そういった支配権の争奪戦はサーキュラーの設計上も想定されておらず、セーフティなども働かない。結果、過剰な負荷が使用者の脳を襲い、正常な飛行が困難となり墜落する。


 私がやったことと言えば、クロムのサーキュラーに私が精製した粒子を混入させたこと、レオナルドクマバチを彼女にけしかけたことくらいだ。バレるはずはない。複数個体とリンクするオグマ粒子の精製は父さんの夢だった。私以外の誰も、この技術の完成を知らない。


「過労で操作を誤るとは、彼女らしくもない」

「私の父も、死因はサーキュラーの操縦ミスでした」

「ああ、そうでしたね」


 うそつき、と私は心の中でカーマンをなじった。

 父が死んだ試験飛行の日。あの日、その場にいたスタッフを特定するのはそう大変なことではなかった。父が個人用サーバーに遺した記録には粒子精製や制御に関するアイデアに、実験スケジュール、同僚との議論やトラブルについて事細かに記されていた。


 父が死んだのは、操縦ミスのせいじゃない。あの日、試験に使用したサーキュラーはあらゆる操作を拒絶して、急旋回と乱高下を繰り返し、最後には父の身体を地面に叩きつけた。しかし、父の脳波に異常は見られなかった。まるで何者かにサーキュラーの制御を奪われたようだった、とスタッフたちは話した。みな初めは真相を話すことを躊躇ったが、私が番場ヒデオの一人娘であることを知ると正直に話してくれた。


 そして私は、口止めを指示したのがカーマンとクロムであることを知った。

 あの二人が父さんを殺したに違いない。研究を追いかけるほどに、父さんを騙しおおせる人間は彼ら以外にないと確信するようになった。復讐が私の生きる理由になった。


「――ところで、アーニェのことですが。ひとつ面白いことが分かりましてね」

「なんでしょうか」


 面白いこと、と言いながらカーマンの表情には愉快さの欠片も感じられなかった。同じ粒子で繋がれば彼の心模様も覗けただろうが、生憎とそのつもりはない。そんなことをすれば、私の敵意も彼に筒抜けになってしまうだろうから。


「彼女のラボは富士見市にありましてね。うちの学生も乗馬やらアーチェリーやらで使う場所なんですが、これがなかなか過ごしやすい場所で」

「聞いたことがあります。サーキュラーを飛ばすにはうってつけでしょうね」

「そうなんですよ。スペースも広いし、静かだし、管理も行き届いているから野生のハチに襲われる心配もない。だから、不思議だったんですよね」


 カーマンは懐から、小さな保管ケースを取り出して見せる。アクリル製の覗き窓から見えた“それ”を見て、私は舌打ちしたい気分になった。


「アーニェの死体が握っていたそうです。調べたところ、レオナルドクマバチで間違いありませんでした。あの辺りは生息地ではないはずなんですがね」

「それは……興味深いですね」

「でしょう。アナフィラキシーで亡くなったわけではないので、警察の皆さんもそれほど注目されてはいませんでしたが、どうにも気になりましてね。追加で調査をさせていただいたんですよ」

「それで?」


 私は話の先を促しながら、養蜂箱にさり気なく右手を差し込んだ。飛べないハチが放つ無垢な粒子が、ゆらゆらと無軌道に立ち昇っているのが分かる。検出器に頼るまでもなく、それを肌身で感じることができる。体内に粒子発生器官を植え付けた、私には。


「そのハチに付着していた粒子は、二種類の伝送波に反応することが分かったんですよ。ひとつはそのハチ自身の伝送波。もうひとつは人間の脳波をもとにした伝送波。さて、さっきの質問に戻ろうか。君、アーニェ・クロムと最近会ったかい?」


 今しかないと思った。ここを逃せば、追い詰められるのは自分と分かっていたから。私は勢いよく右手を振り抜いた。養蜂箱から、粒子検出器から、貯蔵タンクから、一斉にオグマ粒子が噴出した。黄金色の奔流が一瞬のうちに、カーマンと私を覆いつくす。


「これは――」


 カーマンが何事かを叫んでいる。私は構わず、粒子の回転運動を速めた。

 私たちは瞬きの内に、研究センターの上空五百フィートまで飛び上がる。サーキュラーに搭載された警報装置が、飛行禁止空域に突入したことを警告し始めた。私はさらに上昇を続け、高度計が二万フィートを指すまで飛び続けた。

 オグマ粒子による保護が無ければ、急減圧と衝撃で命を落とすところだ。


「――人工発生器、完成していたのですね」


 身じろぎもせず、カーマンは私を見詰めていた。私は彼の言葉に頷いて、


「父の研究成果です。貴方たちに殺されなければ、自分で完成させていたことでしょう」

「殺したって? 私が、君のお父さんを?」


 この期に及んでとぼけるのか。怒りが粒子制御に綻びを生んで、私は空中浮揚を維持できなくなった。自由落下の最中、カーマンがサーキュラーを再始動させようとするが、上限高度を超えているためか、あるいは私が展開している力場のせいかうまくいかない。


〈Sink Rate! Sink Rate!〉


 対地接近警報装置GPWSが降下率過大を警告する。

 私はそれを打ち消すように言った。


「正直に言えば命だけは助けてあげる」

「神に誓って、私は殺人など犯していない。それはアーニェも同じことだ」

「まだ、そんなことを言う!」


 私は落下方向に向けて、速度を上げた。

 プルアップを命じる自動音声が煩わしい。


「君の父さんは事故で死んだ。誰にも罪はない。もうこんなこと止めなさい」

「なぜ嘘を吐くの? あの日、父さんは誰かに操縦を奪われたんだって、みんなが言っている。なのに、どうして操縦ミスだなんて見え透いたことを!」


 八千フィート、七千フィート。風切り音が五月蠅い。


「言って、本当のことを」

「断る」

「話さなければ、このまま墜ちる。貴方も、私も!」


 地表接近のアラートが響く。

 恫喝のつもりで放った言葉は、ついぞカーマンに恐怖を覚えさせることができなかった。彼の表情にはむしろ、憐れみと憂いの色さえ現れている。


「君を守るためだったんだ」


 私たちは、もはや落下してはいなかった。

 高度二千五百フィート。私とカーマンは縫い付けられたように、中空で静止していた。音は凪ぎ、オグマ粒子は天に向かって静かに逆巻いていた。止まった世界の中で、カーマンの声だけが明瞭に聞こえる。


 私を守るため、だなんて。それでは、まるで私が。私が。


「アーニェと違い、君の父さんはハチを作り変えずに済む方法を模索していた。彼はまず、別人用に調整された粒子で飛ぶことから始めた。粒子を個人最適化パーソナライズする必要がなくなれば、精製効率を格段に向上できると考えたからだ。あの日、彼が試験飛行に使ったのはね――」


 耳にはまぶたがない、と誰かが言っていた。それは重大な欠陥に思えた。翼も粒子発生器官も持たないこと以上に、大きな問題に感じられた。


「君の粒子だったんだよ、番場フウカくん」


 カーマンの言葉で、私は平衡感覚を失った。地上であれば、今ごろ地面に這いつくばっていたことだろう。肩を掴むカーマンの腕が、私の落下を食い止めていた。


「試験飛行場は君たちの自宅から数十キロも離れていた。本来であれば、オグマ粒子が君と呼応するリスクはないはずだった。にも拘わらず、お父さんが制御権を失ったのは、君が並々ならぬ念を彼に対して抱いていたからだろう」

「飛翔の力は、意志の力」


 父さんがよく口にしていた言葉が口を衝いて出た。

 飛翔の力は意志の力。その通りだ。私は当時、父を恨んでいた。慕えば慕うほどに、家に戻らぬ父への厭悪の念は強まった。あの日、病に臥せっていた私は確かに父を呪った。


 父さんを殺したのは、私の殺意だった。

 私は思い込みのままに、見当違いの復讐に手を染めたのだ。


「娘には言うな、と君の父さんに頼まれた。それで、私とアーニェは沈黙を守ることにした。それがこんなことになってしまうとは」


 地上に降下する途中、カーマンは一緒に警察に行こうと言ってくれた。さっきまで自分を殺そうとしていた娘に対して、だ。そんなことはあってはならない。

私は父とその友人を死に至らしめ、さらにもう一人を殺す寸前まで追い詰めた。父の研究を復讐の道具とし、父が愛した空を穢した。


 私は惨たらしく死ぬべきだ。父さんよりも、クロムよりも、誰よりも。


「先生、ありがとう。ごめんなさい」


 カーマンを降ろすと、私の身体は独りでに空へと昇り始めた。

 サーキュラーで行ける限界高度の先の先。対流圏も、成層圏も越えて私は上昇を続ける。頬の上で涙が泡立つのを感じた。


 きっと私は父さんの元へは逝けないだろう。

 誰の元へも辿り着かないだろう。

 粒子は回転を強めていく。私の意志が擦り切れて、なくなる瞬間まで。

                                   〈了〉

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