Boys Be Bunny Boys
庚乃アラヤ(コウノアラヤ)
Boys Be Bunny Boys(約11,000字)
偶然。それは、事の必然性を考えようともしない愚者の言葉です。
テレビの向こうで、なにやら偉そうな感じの青年がそんなことを言っていた。
いけ好かねえ野郎だなあ、とおれは思った。テロップを見てみると〈デネット社 稲葉社長、宇宙開発事業報告会でまさかの流血騒ぎに〉となにやら不穏な文言が記されている。
「あれ? この人、どっかで見たことあるような」
気持ち大きめな声で話を振ると、部屋の隅から声が返って来る。
「この人と言われても、私には見えないわけだけど」
「ああ、すまん。カバーを掛けたままだったな」
檻を覆っていたキルト生地を剥ぐと、リエがこちらを見上げている。雪のように白い肢体と
「ナギト、テレビ見えないんだけど」
「おう、わりいな」
脇に退くと、おれはまたテレビに視線を戻した。画面の中では、騒動が起きたという宇宙開発報告会の映像が流されている。
〈――わたくし、デネット・インダストリ社代表の稲葉モロオキと申します。この度は、我が社の宇宙開発事業の報告会にご参加いただき、誠にありがとうございます。今日こちらにいらっしゃっている方々は、報道関係者に支援者の皆さま。いずれも非常に幸運な方たちです。この場で直接、世紀の発見を目の当たりにするわけですから〉
稲葉がそう言って指を鳴らすと、画面の端からワゴンが運ばれてくる。載せられているのは、暗幕で覆われた箱状の何かだ。
〈これからご覧に入れますのは、我が社の無人探査機が月面にて採取した貴重なサンプルです。言っておきますが、月の石だとかレゴリスだとか、そんなチャチなものじゃありません。もっと衝撃的なものです〉
〈アメリカ国旗とか?〉
会場内から上がった声に稲葉は薄い笑みを浮かべて、
〈ナイロン製の星条旗が、半世紀を経てなおも元の色を留めていたなら、それは確かに衝撃的なことですね。強烈な紫外線で白旗みたいになっているはずですから。まあしかし、我々はなにも先人たちの“忘れ物”を回収に行ったわけではありません。さ、勿体ぶるのはこれくらいにして早速お見せしましょう。こちらです〉
暗幕が取り去られると、まず目に入ったのはボロ雑巾みたいな灰色だ。質感は、布というよりも毛皮に近いだろうか。なんにせよ、それには脚のようなものが四本備わっていて、頭部と思しきパーツには長い耳のようなものが生えている。
ぴくりとも動かないところを見るに、恐らく死骸だろう。
背後でリエが呻く声がする。
〈月面にウサギ、というのは出来すぎた偶然だと思うでしょう。しかしね、本当にいたのだから仕方ありません。そう、月には生命の痕跡があったのです!〉
恐らく、稲葉は一同が歓声を上げることを期待していたのだろう。大層芝居がかった動作で保護容器内の生物を指さした。しかし哀れなことに、会場に溢れたのは怒号だった。
〈どう見たって、ただのウサギじゃないか! バカにしているのか!〉
〈あんたのプロジェクトに幾ら出資したと思ってるんだ!〉
〈どうして動物を殺すのよ。くたばりなさい!〉
稲葉の表情はどう見ても、ジョークが滑った人間のそれには見えなかった。心の底から、オーディエンスの反応に混乱している様子だった。少なくとも彼自身は、あのウサギの死骸が月面で採取されたものと確信しているのだろう。
程なくして彼は、激しい口調で抗論に転じた。
〈よろしいですか、皆さん。よろしいですか。この死骸は数千年以上も前の地層に埋まっていたんですよ。寒暖差が二百八十度もある極限環境で! お分かりですか、普通のウサギだったら埋まっている間にフリーズドライです。こいつがミイラに見えますか? 見えませんね? まるで、ついさっきまで生きていたようでしょう!〉
〈実際、さっきシメたばかりなんだろう! この二枚目気取りのタヌキ野郎!〉
〈なんだと!〉
二枚目気取りのくだりでブチキレ始めた稲葉を見て、おれは思わず噴き出した。リエは檻の中で、気の抜けた溜息を吐く。
〈こいつがただのウサギじゃないってことを見せてやる。そうすれば、みんな納得するだろう。見てろ!〉
破れかぶれといった様子で、稲葉は保護容器のロックを解除しようとする。慌てて取り巻きの社員たちが制止しようとしたが、既に手遅れだった。
〈見ろ、こいつはアルミラージだ。一本角の生えた月兎なんだ! 見ろ! まるで神話生物じゃないか。なあ!〉
稲葉が掴み上げたウサギの額には、確かに角らしき器官がある。しかし、稲葉の動きの荒さと画面の不鮮明さのせいでいまいちハッキリ見えない。だが、そんなことはどうでも良かった。あんな風にウサギを振り回す人間は直視に堪えない。
チャンネルを変えるようとリエに言ったが、彼女は食い入るような目つきで画面を見ていた。おれは手に取ったリモコンをテーブルに戻して、彼女に訊ねる。
「同類としては許せないんじゃないか、こういう男は」
「檻に閉じ込める男も好きじゃないけどね」
「ペット禁止なんだよ、このマンション」
おれの答に対し、リエは
リエを――ウサギを飼っていることが知れたら、壁ドンだけじゃ済まないだろう。
「分かった、分かった。いま出してやるから落ち着けよ。ほら、草食うか?」
「ん」
むしゃむしゃと牧草を食みながら、リエはおれの足元に寄って来る。彼女の額にも画面に映る兎と同様、大きな角が備わっている。それも、二本もだ。ジャッカロープという幻獣の一種なのだと彼女は言うが、おれはあまり信じていない。
彼女が口を利いているように見えるのも、おれが孤独をこじらせたが故の幻聴だと思っている。友達がいないのだ、おれは。
「乳頭種ウイルスっていうのがあってな。それに罹ると角状のイボが生えるって言うぜ」
「さすが看護師さん。動物の病気にもお詳しい。この前、散歩と称して病院に連れて行こうとしたのも、イボ取りのためってわけ。親切だこと」
「まだ根に持ってんのかよ」
リエは無言でおれを足蹴にして、視線をまたテレビに戻した。
ちょうど、稲葉が悲鳴を上げるシーンだった。
〈あ、痛っ! 噛んだ、噛んだぞ、この死体! あああっ!〉
危うく取り落としそうになりながら、稲葉はどうにか死骸を保護容器に戻す。彼の手からは指の一本でも齧り取られたのではないか、というくらいの血が流れ出ている。
〈社長!〉
〈なにしてる。救急車だ、救急車!〉
悲鳴とともに画面が暗転する。そして次の瞬間には、放送スタジオに映像が戻り、しかめっ面を作った司会者の顔が映し出される。
〈このあとデネット社は報告会を中断し、参加者は全員、会場外に避難する事態となりました。大変な騒ぎでしたが、やはり気になるのはあの“宇宙ウサギ”ですね。若村さん、どう思われますか?〉
話題を振られた、
〈いやー、捏造でしょう。本物だったらえらいことですよ。容器から取り出して、挙げ句に指齧られて、変なビョーキもらいそうですよね。地球外の未知のウイルス、寄生体Xとかってね。わははは〉
〈では若村さんは、あのウサギは偽物であると?〉
〈当たり前じゃないですか。寒暖差二百八十度で、大気は真空状態、宇宙放射線がガンガン降ってくる世界ですよ。キングギドラとか、ベムラーとか、メフィラスとか怪獣めいたやつしか棲めません〉
〈メフィラスは星人なので怪獣じゃありませんね〉
司会者がピシャリと言うので、若村は露骨にしょげた様子で口をつぐむ。
一丁前に知識人ぶったことを抜かすからだ。
〈――まあ、兎も角ですね。若村さんは一つだけ良いことを言いました。地球外生命がもたらすリスクについてです。放射性物質や病原菌など様々なリスクが考えられますので、採取したサンプルは慎重な扱いが求められます。素手で触り、怪我を負われた稲葉社長が心配なところです。入手した情報によりますと、稲葉社長は現在、都内の病院で治療を受けているとのことです〉
と司会者が締め括ったところで、ふと昨日のことを思い出した。夕方頃、指に怪我を負ったとかで運び込まれてきて、頭部レントゲン検査やら毒物検査やら色んなところに回されている患者を見た。あれはもしや、稲葉モロオキではなかったか。
「ウイルス云々っていうのも意外と冗談じゃないかも知れないな、リエ。お前も落ちてるもんとか食べるんじゃないぞ……リエ?」
「ナギト、落ち着いて聴いて。あなたは今すぐに、ここを発つ必要がある。人の少ない田舎にでも行って、立て籠もらなきゃいけないの」
「なに言ってんだよ。明日、早番が入ってるんだぞ。遠出なんか――」
できるわけないと言おうとしたが、リエの愛らしくも鋭い表情におれは思わず踏みとどまってしまった。
「あ、可愛い――じゃなかった。とりあえず、お前の言う通りにするよ。師長にシフト交代ができないか訊いてみる。ダメもとでな」
電話帳で目当ての番号を検索していると、テレビが控えめなアラートを鳴らした。
目を向けると、画面の上あたりに速報ニュースが流れている。都内数十か所で原因不明の事故や火災が発生、暴動か、と。
〈お掛けになった電話は現在、電源が入っていないか――〉
耳元で、自動音声の声が聞こえる。
番組が中断されて、速報にあった“暴動”の様子が大写しになる。
〈――電波の届かないところにあります〉
燃え盛る車、車、車。ぞろぞろと車道を闊歩するヒトでない何か。
未知のウイルス。寄生体X。宇宙兎。
狙いすましたように、窓の外で爆発音が響いた。
「逃げるぞ、リエ。来い」
鍵入れに、財布、ケータイ、それに非常用持ち出し袋。あとは何が要るだろう。
思考もまとまらぬまま、おれはリエが潜り込んだキャリーバッグを肩に引っ掛けて玄関に向かった。扉越しに耳を澄ませたが、共用廊下に気配はない。スコープを覗いても、何かが待ち伏せている様子はない。おれはゆっくりと戸外に歩み出て、扉を施錠した。
「もう帰って来れなかったり、なんてな」
俺の言葉にリエは応えなかった。エレベーターホールを抜け、非常階段を駆け下りる間もリエは何も口にしなかった。普段から外にいる間は、おれとリエが会話することはなかったが、それでも今だけは言葉を交わしたかった。心細かったのだ。
「テレビをつけて」
リエが次に口を開いたのは、車のエンジンを始動した時。ETCカードを忘れたな、と気が付いたタイミングだった。おれは言われた通りテレビをつけ、地下駐車場から車を出した。
〈こちら、東京駅八重洲南口から中継です。ご覧ください。街には正体不明の怪物が溢れています。人型をしていますが、大きな耳と巨大な一本角が特徴的です。彼らは警官隊の発砲を物ともせず侵攻を進めています。ここももうじき危ないかも知れません。いったん移動したいと思います〉
おれはチャンネルを変えた。現状を把握すべきだとは思ったが、それ以上に心の余裕がなかった。ひとつくらい、能天気にアニメを放送している局があっても良いはずだ。
〈政府は“彼ら”を
〈レプスロープと呼ばれる獣人、あるいはウサギからヒトに感染するとの情報も――〉
チャンネルを変える。変え続ける。
どこもかしこもチャチなゾンビ映画みたいなことをくっちゃべっていて、頭がおかしくなりそうだった。おれはテレビをオフにして、代わりにCDプレイヤーを起動する。程なくして、クイーンの『Don’t Stop Me Now』が流れ始めた。
「お前は何を知っているんだ、リエ。なぜ、逃げろと言った?」
「“彼ら”が私とよく似た生き物だから。だから、分かるの」
「分かるって、何が……」
「この惑星を支配しようとしていることが」
なんだ、それ。呆れたような、困惑したような、よく分からない笑いがおれの口から漏れた。だって、そうだろう。こんなのはバカげてる。兎人間がヒトを噛んで、そいつがまた兎人間になってヒトを襲って、それでまたそいつが兎人間になって。
そんなことが繰り返される間に、人類は滅んで、地球は奴らに支配される。そんなのはお笑いだ。B級サメ映画でも、もう少しマシな脚本をしている。
だのに、地球を支配するだなんて。そんな、まさかだろ。
「おれはごめんだぜ、あんな珍妙な姿になるのは。ありゃ獣人っていうより、鳥獣戯画のバッタモンだ。あの世で
「聴いて、ナギト。こうなったらもう、王が死ぬまで逃げ延びるしかないの」
「なんだ、その王ってのは。兎人間の親玉か。そいつはどこにいる?」
「訊いてどうするの」
「決まってんだろ。そいつ締め上げて、こんな騒ぎは止めさせるんだ」
ここに至って、おれの中には確信があった。リエが人語を介するのも、騒動を予期したのも、おれの思い込みや妄想などではない。リエの言うことは全て真実だ。そう思えばこそ、彼女が頑なに沈黙を守ることが焦れったかった。
彼女は知っているはずだ。レプスロープの親玉がどこにいるか。
「おれは今から病院に行く。病院に行って、できることをする。このまま逃げたら、余計に多くの人間が死ぬんだ。それが分かってて逃げられるかよ」
「駄目だよ、ナギト。病院が感染源なんだから」
「お前が場所を言わないなら、おれは病院に行く。おれの仕事が何か、知ってるだろ」
再び、車内に沈黙が満ちる。聞こえるのはエンジン音とフレディ・マーキュリーの歌声だけ。車は高速道路へのルートを外れて、職場に向かう馴染みの道路に戻り始める。
するとその時、車線の先で黒っぽい何かが跳ねているのが見えた。
それは急速に速度を上げて、距離を詰めてくる。慌ててハンドルを切ったが、時すでに遅く後部座席にその“何か”が衝突するのを感じた。一人でしか乗らないのに、見栄を張ってワゴンタイプなど買うから避けきれないんだ。スピンする車の中で、おれは強烈な後悔に襲われていた。中央分離帯に衝突して、ワゴンはようやく停止する。
ひしゃげたフロントドアを押しのけ、リエとともに車外へ出ると、そこには小さな身体が転がっている。小型のレプスロープ――いや、感染者の子ども。五、六才くらいの少年だ。
「なんてこった……」
おれは一瞬の逡巡ののち、少年の傍に駆け寄っていた。見たところ外傷はないようだが、呼吸をしている様子がない。そういえばさっき、テレビではなんと言っていたか。
「離れて、ナギト!」
リエの叫び声に、おれは反射的に後ずさった。おれの頭があった空間を、少年の脚が横切ったのはちょうどその時だった。そうだ、感染者は死ぬことでレプスロープになる。この少年は既に息絶えているということだ。
「なんちゅう脚力だ。逃げ切れんのか、コレ」
「言ってる場合じゃないでしょ。早く逃げて」
「そうは言うが」
おれは知っている。ウサギの速力は時速四十キロから七十キロ、身長比で十二倍の高さまで飛び上がる。人間大でどの程度の再現率があるのかは知らないが、さっきの衝突事故の様から考えて、パワーが衰えているとは思えない。つまるところ、詰みだ。
おれはキャリーバッグを開けて、リエを外に出した。
「おれの馬鹿に付き合わせて悪かったな。あとは好きにしろ」
「なにを……」
「ここはおれが何とかするから、どっかに逃げろって言ってんだ。行け!」
叫ぶとともに、おれはレプスロープに向かって駆け出した。手にあるのは中身のないキャリーバッグのみと、かなり心もとない。それでも目くらましくらいには使えるはずだ、と思っていた。甘かった。
レプスロープが地を蹴った瞬間、そいつはもうおれの懐に突っ込んでいて、ドリルを思わせる一本角が胸部に潜り込んでいる。発作的に呼吸が乱れ、肺の中に異物が侵入するのを感じる。血が流れ込んだのだと、すぐに分かった。
「ナギト!」
地面にぶっ倒れていると、リエがしがみついてくるのが見える。
逃げろと言ったのに馬鹿な子だ。いったい誰に似たんだろう。
「選んで。ここで死ぬか、ヒトをやめて永らえるか」
リエの張り詰めた声が途切れ途切れに聞こえる。もしかしたら、幻覚ではないのかもしれない。おれはリエの頭を撫でて、声を振り絞った。
「生きたい」
答えるや否や、首筋に鋭い痛みが走った。リエが咬みついたのだと、ぼんやりする頭で状況を理解した。いいさ、噛み癖のない良い子だった。いまわの際くらい、存分に噛めば良い。そんなことを思っていた時だった。
まず感じたのは、急激な体温の上昇。次いで、四肢の鈍痛だった。
痛みは急激に強さを増して、身体中のあらゆる器官へと波及していく。全身が巨大な爆弾にでも置き換わったような気分だ。自爆シークエンスみたいに、心臓の拍動が速い。どくんとひと際大きな脈動があって、おれの意識はスイッチでも切るみたいに落ちた。
そして瞼を開くと、おれは二本の足で地面を踏みしめていた。倒れていたはずなのに。
「なんじゃこりゃ……」
衣服の類が足下に散らばっている。そして、その代わりとでも言うように、真っ白くてフワフワとした体毛が全身の大半を覆っていた。地肌が剥き出しになっている腹部や胸部といった部位はそれ以外の部位とは対照的に、マッスル・キュイラス的な筋肉の鎧で固められている。胸に穿たれていたはずの傷は、夢のように消えている。
「何をしたんだ、リエ」
「あなたを
言われておれは、左の胸郭に手をやってみる。心臓の鼓動は感じられなかった。
おれはもう死んでいる、ということらしい。
「でも、おれは自分を保っている。意識が残っている」
「その気があれば、あなたを操ることもできた。でも、できなかった。だから、あなたはあなたのままその姿に……」
「いや、良い。男のバニー姿なんて見れたもんじゃないが、死んだ方がマシってほどでもねえ。感謝してるぜ」
おれは再び拳を握って、こちらを睨んでいるレプスロープに向き直った。
どうやら向こうは、今もおれのことを敵と見做しているらしい。
「これでイーブンだ。子どもだからって容赦しないぞ、ゾンビウサギめ!」
おれが叫ぶと、呼応するようにレプスロープが吠える。突っ込んでくることもなく、ただ空を見上げてキーッと声高に叫んだのだ。なんだか嫌な予感がして周りを見ると、また別の影が二つ三つ近付いてくるのが見える。仲間を呼んだのだ。
「困ったらすぐ他人に頼るなんて、ろくな大人にならねえかんな! わかったか、畜生!」
おれはリエを抱き上げて、一目散に駆け出した。
疲労でヘトヘトだったはずの身体は、重さを忘れたかのように身軽で力強かった。生身では経験したことのない速度で、周りの景色が後ろに流れていく。
「リエ、こうなったら何が何でも王とやらの居場所に案内してもらうぞ!」
「分かってる。私は、こうならないためにあなたを逃がそうとした。もう逃げるのは終わり」
リエは感覚的に目的地がどこか分かっているらしく、時折、進行方向を指示しては目を閉じ、神経を研ぎ澄ましているようだった。カーナビに住所を打ち込めば一発なのだが、贅沢は言わない。障害物まみれの車道においては、自身の脚が最速の移動手段だからだ。
「……あれ?」
神田橋インターチェンジを折れた辺りで、また身体に異変を感じた。急速な疲労感に襲われたのだ。言うことを聞かなくなった下半身に目をやると、そこには薄汚い脛毛まみれの両脚が生えている。見間違えようがない。これは、おれの本来の脚だ。
「リエ。なんかおれ人間に戻り始めているみたいなんだけど、これは……」
「たぶん、私がウサギ化をセーブし過ぎたんだと思う。身体が菌株を代謝し始めて、元の身体に戻ろうとしているんじゃないかな」
「なるほどなあ、道理でさっきから筋肉痛がえぐいと思ったんだ」
大手町にあるデネット・インダストリ本社ビルに辿り着くころには、おれはレプスロープなんかメじゃないくらい死に体だった。再開した拍動が痛いくらいに胸を叩く。身体は完全にヒトのそれに戻り、おれは全裸で皇居前を走る羽目にあった。まったく、とんだ経験だ。
開きっぱなしの自動ドアを抜けて、おれは業務用エレベータに向かう。リエが言うには、このビルの屋上に“レプスロープの王”がいるという。「R」と記された行き先階ボタンを押すと、エレベータは危なげなく上昇を始める。
「ナギト、これ」
壁にもたれて息を整えていると、リエがおれを小突いてくる。何かと思って見てみると、警備用の制帽を口にくわえていた。
「使った方が良い」
「大丈夫だ。変装の必要なんか――」
「頭隠してなんとやら」
おれは今まで、『走れメロス』のラストに納得がいっていなかった。王様が改心するくだりのことではない。しきりに諦めろと口にする、セリヌンティウスの弟子のことでもない。自分が真っ裸だと自覚できないメロスのことだ。
いくら必死でも気が付くだろう、と思っていた。しかし、それは誤りだった。
認めよう。人は長いこと裸でいると、被服という観念をも忘れる。それに裸の方が心地よい。違う意味で、人間社会に戻れない気がしてきた。
「……俺に恥じるべきところなどない」
「恥じなさい」
「はい」
おれは恥部に帽子をかぶせて、取り敢えずの着衣とした。
おりしも、それはエレベータが行き先階に到着した時だった。扉が開くと強烈なビル風が吹寄せて、おれの帽子を攫おうとする。
「これはまた、変わったお客様だな」
テレビで聞いた声だった。
ヘリポートに視線を向けると、そこにはレプスロープと化した稲葉の姿がある。耳は長く垂れ下がり、額には巨大な一本角、そして眼球は眼窩ごと顔の外側に移動している。ヒトとしての人相がハンパに残っているせいで、なんだか気味が悪かった。
「数千年ぶりだな、我が同胞よ」
稲葉が声を掛けたのはおれでなく、リエだった。
リエも見知った様子で、稲葉に答える。
「大人しく月で暮らしていれば良いのに。どうして今さらやってきたの」
「人手が足りなくなってな。こっちは随分と余っているようだから、有効活用してやろうってわけだ。良いだろう? 人間だってウサギに支配されるなら喜ぶはずだ。この身体の主も、俺様に身体を譲ったことを光栄に思っている」
「おい」
おれは二人の会話を遮って、前に出る。長い話を聞かされるのが苦手なのだ。
「用件だけ言うぞ。今すぐ、下で暴れてるレプスロープたちを止めろ。でないとお前を、ウサギのリエットにしてやる!」
「リエットってなに」
良い感じに啖呵を切ったところで、リエが小声で訊ねてくる。スパムみたいなものだよと教えてやってから、さらに「お前の名前も、実はリエットから取ったんだ。非常食だと思って拾ったから」と付け足すと強めに脛を蹴られた。
本当は、食べたいくらい可愛かったから付けた名前だ。
「人間に命令される筋合いはない。お前も、俺様の奴隷にしてやる」
「上下の関係しか築けないとは、哀れなエイリアンめ。おれが性根を叩き直してやる」
手のひらを差し出すと、リエが飛びついてガブリと前歯を突き立てる。
瞬間、おれの身体は変貌を始めた。全身を覆う真っ白な体毛に、野獣のように引き締まった筋肉の鎧。股間を覆っていた制帽がどこかへ飛んでいく。
「かかってこい、人間!」
「応!」
おれはリエに目配せして、前方に跳躍した。稲葉は避ける素振りすらなく、おれの体当たりを真正面から受け止める。
「軽すぎる。地球の重力下で育っておきながら、この程度の膂力とは」
「んだと、てめえ!」
組み合った手をほどいて殴ろうとした時、稲葉が視界から消えたことに気が付く。
上だ。手が離れた瞬間、やつは一息に頭上数メートルの高さまで飛び上がったのだ。蹴りが降り注ぐ寸前に、おれは顔面をガードする。衝撃が両の腕を強かに打った。
「前脚で戦おうとする辺り、おつむが足りないんだよ。なあ、現生生物くん」
転がったおれを見下ろしながら、稲葉は哄笑する。
と、その時。手に軽く何かが当たる感触があった。おれはそれを横目で見て、思わず笑う。
「なあ。ひとつ良いことを教えてやるよ、稲葉」
「なんだ」
「偶然ってのは、事の必然性を考えようともしないバカの言葉――らしいぜ」
運命的におれの手に戻ってきた制帽を、稲葉の顔面に向けてぶん投げる。うわ汚っ、と仰け反る奴の胸におれはドロップキックを放った。
「小癪なっ」
「頭を使ったと言ってもらおう!」
仰向け様に倒れる稲葉に、すかさずおれは圧し掛かる。
身体構造上、ウサギは仰向けで寝ることに苦痛を感じるというが、レプスロープはどうなのだろう。確かめている余裕はない。
「これで勝ったつもりか。俺様が音を上げるまで寝技でもするってのか!」
「そんなことはしねえよ」
なあ、とおれは歩み寄って来るリエに呼びかける。
それで稲葉は、これから自分の身に起こることを予感したらしい。一層強く抵抗を始めた。
「やめろ、俺様はこの星を支配する王者になるんだぞ。こんなところで!」
「なんだ、お前。王様気取りで注射が怖いのか」
ぷうぷう、と力なく鳴き声を漏らす稲葉に若干の罪悪感すら覚えながらも、おれはリエにゴーサインを送った。
「はあい、ちょっとチクッとしますよ」
「やだあーっ!」
リエの前歯が、腕の表皮を突き破る。瞬間、稲葉はビクッと大きくひとつ身じろぎをして、それから眠るように意識を失った。終わったのだ。そう思ったら何だか急に力が抜けてきて、おれは大の字になってヘリポートに転がった。
身体が元に戻り始めたらしく、また例の筋肉痛がぶり返してくる。
「疲れたなあ、リエ。帰るのはちょっと休んでからでも――って、どうした?」
「ナギト、そのことだけど」
「なんだよ」
なかなか言葉の先を口にしようとしないリエを見て、おれはイヤな予感がした。
これで万事解決のはずなのに。
「あなたとは一緒に行けない。この人も、他のレプスロープも元の人間には戻れない。だから、ごめんなさい」
「なに言ってんだよ。あいつら、もう暴れたりしないんだろ?」
「私が制御している限りは、ね。もし私が捕まったり、殺されたりでもしたら、レプスロープたちはまた人間を襲うようになる。この地球をウサギの星にするまで、ずっとね。人間たちの側にしたって、もうウサギを傍には置けないでしょう」
でも、何か方法があるはずだ。
おれとリエが一緒にいられる道があるはずだ。
「だったら、おれを連れて行ってくれ。おれだって同類だろうが」
「あなたは、レプスロープからヒトに戻った貴重な個体。それだけ言えば、もう分かるでしょ。あなたが何をするべきか、ヒトとウサギが共存するには何が必要か」
彼らをヒトに戻すヒントは、おれの中にある。
おれは人間として生きていかなければならない。
そんなことは言われなくても分かる。分かっているんだ、そんなことは。
「ここで、さようならってことか」
「でも、今生の別れと決まったわけじゃない。あなた次第だけど」
リエが角でつつくと、稲葉の身体がよろよろと起き上がる。そして、ゆっくりと跪いてリエの身体を抱え上げる。止めようと身体を動かしたが、少し這っただけで動悸が痛いほど激しくなる。
「早く私を迎えに来てね、ナギト」
気を失う直前、そんな声が聞こえた気がした。
これが、おれがたった一人の友達と別れた時の記憶。リエとの最後の記憶。
いまのところは、だが。
〈了〉
Boys Be Bunny Boys 庚乃アラヤ(コウノアラヤ) @araya11
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