【待ち時間】
瞳さんが立っている。
大好きな瞳さんが、バス停の横で白いレースの日傘を差して、旅行カバンを片手に立っている。
ユリの花のいい匂いを身に纏って。
蝉が鳴いている。
みーんみんみん。
とってもうるさいのに、何故かとても静かに感じる。
……
この時間が、とても好きだ。
二人でバスを待つ、この時間が。
瞳さんは、こちらが話しかけないと、気付かない。
一人で立っていると思っているみたいだ。
このまま十五分経つと、八王子駅北口行き西東京バスが通り過ぎて、傘を畳んで旅行カバンを置いて、走り出す。
「きーん」と、一人で叫びながら。
(変な人だなあ。でも、そこも含めて好きなんだよなあ)
ふと、気になった。
瞳さんは、待ってる時、毎回動かない。
(ほんとに毎回、何にもしないのかな)
……確かめたくなった。
……
季節は、八月、夏。
茹だるように暑い。
関東地方は八王子、八王子の夏は山でも暑い。
瞳さんはどんなに暑くても汗ひとつかいていないみたいだ。
果たしてこんなに暑い季節でも、そうなのかな?
瞳さんに先回りしてバス停に行き──病室にいると、かくまってくれと駆け込んできて見つかってしまう──、そこで何も言わずに待つと、バスを待つ瞳さんの行動観察が出来る……という算段だ。
「きーん!」
来た。
(きーんって、一人の時も言ってるんだ)
「ききーっ」
ブレーキ音の再現付きだ。
「はっはっ」
息を切らしている。
まあ、病気だし?
仕方がない。
日傘を拾って差して。
旅行カバンを拾って。
(さあ、瞳さん! 物凄く暑い十五分、あなたはどう過ごす!)
ぱたぱた。
開始二十秒で旅行カバンを置いて手で扇ぎ始めた。
(ええっ。初っ端からもう凛としてない……)
「あちー……」
みーんみんみん。
みーんみんみん。
よく見ると額に玉の汗が浮かんでいる。
見るからに暑そうだ。
(てかもう、汗、かいてんじゃんか)
「バス、早く来ないかなあ……」
みーんみんみん。
みーんみんみん。
蒸し暑すぎて、日傘が全く意味を成していない。
ぱたぱた。
今日子さんみたいに扇子もないただの手で扇いでも、焼け石に水だ。
「あたし、なんでこんなことしてるんだろ……」
(おいおい、それを言っちゃダメだろ)
これだけ蒸し暑いと、お決まりの麦わら帽子ですら被るのが負担になってそうだ。
「あっ、こら!」
ぱしん。
脛辺りを叩いた。
蚊に刺されたらしい。
この辺りの山の蚊は獰猛だ。
若い、それも女の子を見かけると、一斉攻撃をする。
「ちょ、もう!」
ガニ股になって、太ももを叩いている。
(あ、もう少しでぱんつが見えそう)
と、その時。
「はくしゅんっ」
博巳がくしゃみをした。
しまった。
ゆっくり、瞳さんの方を振り返る。
瞳さんが、ガニ股で、スカートを捲って、固まっている。
「……えっちー!」
びたーん。
思いっきり左頬をはたかれた。
「もー、ボクぅ! いつから見てたのよー! ほんと、えっちねえ、そんなにスカートの中が好きなの?」
「いえ、そんなつもりじゃあ……」
「じゃあどんなつもりなのよお!」
ぶろろろろ。
瞳さんが詰め寄っている間に、八王子駅北口行き西東京バスは走り去ってしまった。
「ちょっと、今日の日課がこなせなかったじゃない! ぷんすかぷんだ!」
そう言って、歩いてバス停を去っていってしまった。
(……きーん、じゃなかった。相当、怒ってたんだなあ)
「くすくす。若いっていいわねえ」
振り返ると、黒い日傘を差した、紫の和服を着た今日子さんが立っていた。
「瞳ちゃん、可愛いものね?」
「……見てたんですか」
「もちろん! 瞳ちゃん、可愛いでしょ?」
「ま、まあ。そうですね」
博巳は赤くなって同意した。
「そうでしょう、そうでしょう! 私のイチオシの子なのよぉ……おいし……可愛いのよねえ、本当に。そこで、博巳クンにいいものあげる」
「いいもの?」
「これ、なんだけど」
香水のアトマイザーだ。
「なんですか、これ」
「これねえ、瞳ちゃんみたいな子の動きを封じられるのよ」
博巳はハッとした。
「身体だけ止めたければワンプッシュで。もうワンプッシュで意識も奪えるわ」
「身体だけって……僕に何をさせたいんですか」
「さあねー? でも、あの子、忘れやすいでしょ? 好都合じゃない? ……じゃあ、それ、あげるから。イイコトに使ってねー」
それだけ言うと、手をふりふりして、ニコニコ笑いながら去っていった。
……
翌日。
「きーん! ききーっ」
何も知らない瞳さんが両手を広げて走ってきた。
博巳は一言も喋らないから、気が付かれない。
「あちー」
ぱたぱたと瞳さんが手で扇いでいる。
女の子の、汗の匂いがした。
瞳さんはスレンダーだ。
だから、胸もとっても控えめだ。
でも、赤のノースリーブのワンピースは、汗で張り付いてその形をとても綺麗に見せている。
そして、博巳は見てしまう。
ノースリーブからはみ出た水色のブラ紐を。
……博巳の心に、火がついた。
しゅっ。
貰った香水をふりかけた。
「ん? ……あれれ?」
どうやら、身体が動かないことに気がついた様だ。
「あ、あれー、あれー?」
そして博巳は後ろから抱きついた。
「ちょっ、ちょっと? ボク? ボクだよねえ?」
瞳さんはとても柔らかくて……とても暖かだった。
「あのっ、なんか、体動かないんだけどぉ? ちょっとっ、ねえっ」
思わず頬にキスをした。
「あ、いやっ、やだよぉ、いやあ!」
(構うもんか、大好きなんだから!)
「やだっ! いやだ! いやだぁっ!」
『いやっ、やめてっ、いだっ、いだいよお、やめてよお!』
『おとうさん、やめてよう!』
ハッ。
博巳は我に返った。
「瞳さん? 瞳さんっ?」
「……っく。ひっく……」
瞳さんは……泣いていた。
「やだよう、ひどいことしないでよう……うえーん」
香水は、いつの間にか解けていた。
うえーん。うえーん。
博巳は、泣き続ける瞳さんを抱きしめた。
八王子駅北口行き西東京バスは、少し遅れて通り過ぎた。
いつもと、違って。
その日は、二人で、手を繋いで帰った。
いつもと、違って。
鼻を啜りながら泣く瞳さんは、小学生のようで。
瞳さんの時は止まっているのだ。
「おとうさん」に傷付けられてから。
ずっと、ずっと。
博巳は心が締め付けられた。
(ごめんなさい)
何度も心の中で謝った。
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