【逢沢瞳 ─春─】
ほーほけきょ。
ほーほけきょ。
八王子の山奥の病院に、都心より遅い春が来た。
なだらかな山のあちこちに桜が咲いているのが見える。
葉っぱが落ちて茶色い山々にぽんぽんと薄桃色の絵の具を落としたみたいで可愛い。
お日様も最近は機嫌がよくて、ぽかぽか暖かい。
空も、薄水色で、雲が目立つ。
ごおおっ。
また飛行機がひこうき雲を引っ張って水色の空に白線を引く。
立川の基地からだろうか。
横田の基地からだろうか。
それとも、羽田から?
どこにいくんだろう。
千歳空港?
那覇空港?
中国?
アメリカ?
遠くへと飛ぶ飛行機に思いを馳せる。
ここを出て遠くへ行きたいのは、隣にいる想い人も同じ。
ぴたりと止まって静止するその目は、今も待っている。
『お父さん。お母さん。待ってるの』
『ここで待ってたら、いつか、迎えに来てくれるの。優しかった頃の二人が、いつか……』
ここで瞳さんと立っていて、わかったことがある。
それは……この想い人は、傷だらけだということ。
拝島ぼたんと一緒に、瞳さんの真実を紐解く度、露になる深い傷跡。
生きているのが苦しくて苦しくて仕方がないはずなのに、それなのにまだ、待っている。
信じて、待っている。
『この剣は魔の真実しか斬れないんだ。一つづつ魔のモノの理を紐解いた先にある真実の前で、ようやく剣を抜くことが出来る。そしてそこにある魔を絶つのが、わたしの使命』
魔を絶つ。
魔。
瞳さん。
瞳さんが、魔。
考えられない。
考えたくない。
こんなにも綺麗で。
こんなにも愛おしくて。
笑顔が残念で。
胸はぺったんこで。
ぱんつを見る度怒って。
(そんな瞳さんを、斬らなきゃいけないなんて。それは、嫌だ。そんなのは、嫌だ)
「倉敷くん、目を覚ましてよ……倉敷くん……」
(まただ。また聞こえてきた。誰だ。誰なんだ、あんたは。僕は知らない。僕は要らない)
瞳さんが、居ればいい。
今もこうして静止している、静かなこの人さえいればいい。
他は、要らない。
(瞳さんとバスを待つ。この毎日が、愛おしいんだ。この毎日が、僕には必要なんだ。この毎日が……この毎日。毎日? いつから……だっけ)
瞳さんとは四月に会ったばかりだ。
七月に、確か一回。
倒れなかったっけ。
それから。それから?
(なんで。なんでそんなこと。考えてるんだろう。だって、だって僕は……僕は? いつから、ここにいるんだっけ。こう考えるの、何回目だっけ)
ぶろろろろ。
遠くからバスの音が聞こえてくる。
お馴染みの西東京バスだ。
朱色とクリーム色の車体に、桜の花びらを沢山付けている。
「八王子駅北口」
いつもの行先が読める距離まで近付くと、ディーゼルエンジンの臭いがしてくる。
ごおっ。
バスは、いつものように瞳さんと博巳とバス停を無視して通過する。
一層排ガスの臭いが鼻の奥を刺す。
でも、赤いワンピースの想い人は、顔色一つ変えない。
おおおん。
坂道を登るバスは、エンジン音を大きく響かせながら、遠ざかって行った。
ぱちん。
瞳さんが日傘を閉じた。
するすると慣れた手つきで傘を留め紐で巻いて、旅行カバンと一緒にバス停の横に置いた。
「きーん!」
誰も見ていないはずなのに、瞳さんは両手を広げて、アニメの女の子のように走り出した。
(まあ、いっか。うん。まあ、いいさ)
いつも通りの日常。
いつも通りの毎日。
終わることの無いバス停での日々。
(もう、やめよう。深く考えるのは、やめにしよう)
瞳さんが居る。
それだけで、十分だ。
それだけで。
「倉敷くん……あのね、わたしね……倉敷くんのこと……」
ほーほけきょ。
ウグイスが、聞こえてくる声を上書きした。
八王子の山奥の病院に、都心より遅い春が来た。
「きーん!」
博巳は、両手を広げて、誰いない白いぼろぼろのコンクリートの道を、病院に向けて、走り出した。
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