【瞳さんとお母さん】
「バイちゃ! きーん!」
瞳さんが走る。
白いコンクリートの坂道を。
八王子駅北口行き西東京バスが通り過ぎて、日傘と旅行カバンを置いて。
「置いてっちゃうよー」
楽しそうに、両手を広げている。
「博巳くん。ちょっといいかな」
博巳は、拝島ぼたんに呼び止められた。
「……なんです?」
反射的に構えてしまう。
それを見て、ため息を吐いた。
「わたしはきみを助けたいんだよ?」
「必要ないです。僕に必要なのは瞳さんただ一人です」
「きみが瞳さんと呼ぶ魔は、確実に純度を濃くしている。そろそろ討伐の時期が近い」
じろり。
博巳が拝島ぼたんを睨んだ。
「まさか。また瞳さんに残酷な仕打ちをしようってわけじゃないでしょうね」
「そのまさかさ。そうしないと七星剣・魔断が抜けない。きみをあの魔から開放出来ない」
がっ。
拝島ぼたんのチャイナドレスの胸ぐらを掴んだ。
「瞳さんを、魔と言うな! あの人は、僕の、大切な人なんだっ!」
百七十はありそうな拝島ぼたん──二十後半くらいの赤毛の綺麗な女性──が、自分より小さい博巳の腕を胸元から外した。
「きみを大切だと思うニンゲンがいる。その人のため、わたしはここに来た」
そして、あくまで冷静に、博巳の手を納めさせた。
「七星剣・魔断の抜刀に協力してくれ。これから、瞳さんのお母さんに会いに行く」
「瞳さんの……お母さんに……?」
予想外の言葉に、さすがの博巳も困惑を隠せなかった。
……
「まさか本当に乗れるとは……」
いつもは素通りし、どんなに頑張っても停められないバスを、拝島ぼたんが片手を上げるだけであっさり止めたのには驚愕した。
「そもそも、今乗ってるこれは、現実のバスじゃない。あの魔が……瞳さんが作った精神世界の一部だ。我々退魔師は、そういったモノには干渉できる」
ききっ。
唐突にバスは止まった。
「さ、目的地に着いたようだ」
博巳と拝島ぼたんは降りた。
さっきまで八王子の山の中に居たのに、東京の二十三区内のような街の裏路地の、古い木造アパートの前に立っていた。
昼間だったのに、空は黄昏時。
曇っていて、空気が湿っぽい。
「ここ」は梅雨時のようだ。
「ひああああっ!」
二階の一室から悲鳴が聞こえた。
拝島ぼたんと目を合わせて、外付けの階段を駆け上がった。
がちゃ。
拝島ぼたんが躊躇無くドアを開けた。
「ちょっと、やばくないですかっ」
慌てて博巳が止めに入る。
「大丈夫、ここは瞳さんの記憶の中だ。我々は感知されない」
1DKの、和室が二つの小さな部屋。
そこら中お酒の缶が散乱していて足の踏み場もない。
そこに、お好み焼きが落ちている。
ソースとマヨネーズが掛かっている方を、下にして。
「お母さん、食べなきゃダメだよう」
瞳さんだ。
今より少し幼く見える。
「お母さん」は生気のない目でテレビをぼんやり見ている。
「ねえ、お母さん……お酒は、あんまり飲んじゃダメ。……ダメだったら」
そう言って、母親の手から銀色のビールの缶を取ると……
「返して! 返してよっ!」
「お酒ばっかり、体に悪いよ」
「返しなさいよっ! この……殺人鬼!」
そう言って、大事なはずの娘を突き飛ばした。
がんっ。
瞳さんがゴミだらけの台所に頭をぶつけた。
「痛っ」
「この殺人鬼! あの人を、あの人を返しなさいよっ」
「いたた……お母さん……お酒飲みすぎだよう」
頭を抑える瞳さんにお母さんはのしかかった。
「このふしだらな女っ! あたしからあの人を盗って! この泥棒猫! 泥棒猫!」
「いた、いたいよ、お母さんっ」
ぱんっ、ぱんっ。
馬乗りに何度も引っぱたいた。
「どうせ喜んでたんだろっ! 股を濡らして、このド変態がっ」
「やめてよっ、やめてぇっ!」
「やめてくださいっ!」
博巳が耐えきれず駆け出すが、伸ばしたその手は宙を舞うだけだった。
「ダメだよ博巳くん。ここは記憶の中。きみでは干渉できない」
拝島ぼたんが冷たくそう告げる。
その時。
びくんっ。
急にお母さんが電撃が走ったみたいに固まって動かなくなった。
「……あー……」
「……お母さん?」
短く声を吐くと、どさりと倒れて、動かなくなった。
「お母さん? お母さんっ、お母さんっ!」
必死に揺すって呼びかけるが、意識が無い。
「どうしよう……どうしよう……」
叩かれて赤くなった頬のまま、古いピンクのロータリー式の電話機で百十九に電話をかけた。
「あの、お母さんが……母が意識がなくなって……練馬区上石神井の〇〇の〇〇の二〇三号室です……息は……してないです……あの、あの、あたし……あ……あ……ああ……」
そう言った時……
瞳さんも、ぷつりと意識が無くなったように倒れた。
真っ白な顔だ。
血の気がない。
「この時か。白血病が顕在化したのは」
拝島ぼたんが呟いた。
散らかりきった部屋に、倒れる母娘。
電話機からは、「もしもし、聞こえますか」と叫ぶ救急隊の声が聞こえる。
がちゃりっ。
また七星剣・魔断の歯車が回った。
剣の柄の「
「また、真実がわかったね。逢沢瞳の母親は、夫が瞳のことを性的虐待していたこと、その夫を娘が殺したことで心のバランスを崩して……廃人になっていた。わたし達が見たのは、その母親が亡くなった日だろう。お見舞いに行く人が居なかったのは……そういう理由だろうね」
博巳は、何も言えなかった。
「さあ、戻ろう。茜坂病院へ」
……
ぎゅん。
七月二十日。午前十一時三十分。
気がつくと、茜坂病院前のバス停──もう書いてある字も読めない──に、拝島ぼたんと二人で立っていた。
みーんみんみん。
「あら、ボク。こんな暑い日に、こんな所でなにやってるの?」
隣に、いつの間に瞳さんが立っている。
優しい笑顔。
でも、今の博巳には、それがとても痛くて苦しいモノに見えた。
「瞳さん、瞳さんは何を待ってるの?」
いつもの凛とした姿で、通過するバスを見送った瞳さんに聞いてみた。
「お父さん。お母さん。待ってるの」
博巳は、心臓が止まりそうになる。
「え、でもお父さんもお母さんも……もう」
悲しくて、辛くて、愛おしくて、切なくて。
胸が潰されそうだ。
「うん、知ってる。でも、いいの。ここで待ってたら、いつか、迎えに来てくれるの。優しかった頃の二人が、いつか……」
がちゃりっ。
また七星剣・魔断の歯車が回った。
剣の柄の「
ぴきぴきぴきぴき。
病院へと続く坂道の、白くて綺麗だったコンクリートが、ぼろぼろになっていく。
「じゃあね。バイちゃ」
きーん。
瞳さんは走っていった。
軽やかに。
幸せそうに。
ぼろぼろの道なんて気にも留めずに。
「わたしはね、この七星剣・魔断と契約している。あと千八十の魔を、喰わせないと、わたしが剣に喰われる。あなたを助けることは、わたしの為でも、あるんだ」
「それはぼたんさんの都合でしょ。お願いです。そのまま剣に喰われてください。瞳さんを斬るなんて、僕には……出来ませんから」
そう言うと、博巳は独り、病院へと続く坂を登った。
七星剣・魔断の抜刀まで──のこり四回。
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