【逢沢瞳 ─秋─】

 りー。りー。

 ヒメコオロギが鳴いている。

 茜坂病院前バス停にて。

 十月。

 東京は西、八王子市の丘陵地帯にある茜坂病院前バス停。

 まだまだ紅葉の季節では無いが、徐々に色づいている葉もちらほら見える頃。

 鬱蒼と生い茂る木々の葉の間から見える空は、蒼く、高い。

 白いひこうき雲が見える。

 立川の基地からだろうか。

 横田の基地からだろうか。

 それとも、羽田から?

 蒼のキャンバスに白い線を引くその飛行機は遠くでごおっと音を立てて進む。


 ふと、爽やかな、葉っぱの匂いのする風がバス停を撫でる。

 隣に立つひとつ上の想い人の髪が、ふわりと舞う。

 想い人は、自分が被った白いリボンの麦わら帽子が飛ばされないように、日傘を持つ手で押さえた。

 おっとっと。

 日傘が風に押され、少しバランスを崩す。

 誰かが見ていると思っていないその想い人は、ひとり、はにかんだような顔をした後、また凛として立つ。

 十五分だ。

 博巳と瞳さんがバス停で並んでいる時間の長さである。

 この想い人は、博巳が声を掛けなければ、その存在に気付かない。

 一人で立っていると思い込んでいる。

 博巳は、それを、知っている。

 だから、たまにそれを利用する。

 となりで、何も言わず、何もせず、ただ隣で座っている。


 ……


 時々、こんな時間が欲しくなる。

 いつものドタバタした時間ではなく、静かにバスを待つ十五分。

 初秋の、爽やかな、恐らく一年でいちばん居心地がいいこの季節。

 大好きな人は、静止してバス停の横で立つ。

 真っ赤なワンピースを着て、白い日傘を持って。

 安っぽい表現かもしれないけれど……

 絵画みたいだった。

 水彩画じゃない。

 幾重にも絵の具を重ねて厚く塗った油絵だ。

 そんな確かな存在感を持って、瞳さんは確かにそこに居る。

 そしてその目は、どこを見てるんだろう。

 薄めの茶色の澄んだ瞳は、何を映しているんだろう。

 小さな花のチャームが付いた白いお洒落なサンダルは、誰を待っているんだろう。

 聞きたいけど、聞かなくてもいい。

 聞いたら、瞳さんは気付いてしまう。

 今は……大好きなこの人を、見ていたいから、声はかけない。

 今日はそう決めたから、ユリのいい匂いを纏うその人の隣に座っている。


 ……


 りー。りー。

 相変わらずヒメコオロギは鳴いている。

 腕時計を見る。

 十一時二十九分。

 もう、間もなくだ。


 ぶろろろろ。


 遠くからバスの音が聞こえてくる。

 お馴染みの西東京バスだ。

 朱色とクリーム色の車体が、秋の山に映える。

 八王子駅北口。

 いつもの行先が読める距離まで近付くと、ディーゼルエンジンの臭いがしてくる。


 ごおっ。


 バスは、いつものように瞳さんと博巳とバス停を無視して通過する。

 一層排ガスの臭いが鼻の奥を刺す。

 でも、赤いワンピースの想い人は、顔色一つ変えない。

 おおおん。

 坂道を登るバスは、エンジン音を大きく響かせながら、遠ざかって行った。

 ぱちん。

 瞳さんが日傘を閉じた。

 するすると慣れた手つきで傘を留め紐で巻いて、旅行カバンと一緒にバス停の横に置いた。


「きーん!」


 誰も見ていないはずなのに、瞳さんは両手を広げて、アニメの女の子のように走り出した。


(相変わらず、元気だなあ)


 りー。りー。

 相変わらずヒメコオロギの鳴き声だけが残されている。

 先が黄色くなった葉っぱを纏う木の枝達が、さらさらと風に揺られている。


(もう、秋なんだなあ)


 ふと、気になった。


(何回目の、秋なんだっけ)


 瞳さんとは四月に会ったばかりだ。

 七月に、確か一回……

 ……倒れなかったっけ。

 それから。……それから?


(なんで。なんでそんなこと。考えてるんだろう。だって、だって僕は。……僕は?)


(いつから、ここにいるんだっけ)


 ……


 ざっ。


 博巳の頭の中に映像が唐突に浮かんだ。

 目の前のバス停が、土砂に半分埋もれている映像だ。

 茜坂病院は完全に土砂に飲まれてしまっている。


「倉敷くん。……倉敷くん」


 誰かが自分を呼んでいる。

 聞いたことのあるような、無いような。

 そんな、声だ。


(なんだ、これ。なにが起こった? これは……なんだ……?)


 ……


 ざっ。


 また、もとの茜坂病院前のバス停に戻った。


「はっ!」


 はあっ、はあっ。

 息を止めていた博巳は、肩で息をした。


(今のは、一体……?)


 りー。りー。

 りー。りー。

 ……ヒメコオロギは鳴いているまま。

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