【蒼井アキ】

 そのひとは、とても綺麗だった。


 抗がん剤治療で髪の毛が抜けた自分とは違う。

 病気でやせ細った自分とは違う。

 素敵な黒髪はロングで背中の真ん中くらいまであってさらさらだ。

 いつも赤いノースリーブのワンピースを着ていて、外に出る時は白いリボンの付いた麦わら帽子を被っている。

 ベッドの脇には、小さな花のチャームが付いた白いお洒落なサンダルと、アンティークな旅行カバンと、白いレースの日傘が置いてある。

 青い、地味なパジャマを着ている自分とは違った。

 髪が抜けて、水色の医療用帽子を被る自分とは違った。

 何から何まで違った。

 病室は隣だったけど、一目見て憧れになった。

 だからこっそり病室を抜け出して、何度も会いに行った。


「およ、今日も来たのねえ、お嬢ちゃん」


 せっかく美人なのに、オジサンみたいな喋り方が残念なんだけど、そこがまた個性的で、自分には魅力的に写った。

 自分と同じ長女って所にも共感出来た。

 妹が居るみたいで、よくお見舞いに来て、笑い声が聞こえていた。

 寂しそうに覗いていたら、声をかけてくれた。


「■■ちゃん、おいで! 紹介するね、あたしのお友達なんだー!」


 天涯孤独な自分を、まるで家族の一員のように迎えてくれた。

 一緒になって、はしゃいで、笑って……楽しかった。

 その時だけ、嫌な記憶を全部忘れられた。


 ……


 ある時、そのひとが病室の窓から中庭に抜け出すのを見た。


「■■ちゃん、どこいくのー?」


 呑気に声をかけると、しいっと、人差し指を口に当てた。


「看護婦さんに見つかっちゃうから、しー、ね!」

「どこ行くか教えてくれないとチクっちゃうよ」

「にひひ。お嬢ちゃん、やるねえ。いいよ、おいで!」

「あ、待って……」

「ワガハイの辞書に不可能は無いのだー! バイちゃ! きーん!」


 その人は重度の白血病のはずなのに──しかも旅行カバンに日傘まで持っているのに──、まるでアニメのロボットの女の子みたいに、両手を広げて元気よく走った。


「ききーっ」

「わっとっと」


 急に止まるからぶつかりそうになった。


「ど、どうしたの?」


 息をはあはあいわせながら、■■は聞いた。


「もう、目的地に到着、だよん」

「ええ?」


 息を整えて、顔を上げると、そこはバス停だった。


(こんな所にバス停、あったっけ)


 とても古くて、存在すら気づかなかった。

 サビだらけ。

 字も日に焼かてしまって読み取りづらい。

 微かに、「茜坂病院前」と書かれているのが見える。


「バス停が目的地って……その先はどうするの?」

「どうもしないよ。……待ってるんだ。」


 凛と立つその姿はユリみたいで、とても、とても綺麗だと思った。

 ■■もそうなりたい、と強く思った。

 十五分くらい立っていると、重たそうな音を響かせてバスが来た。

 朱色とベージュの、なんて言うかは知らないバスだ。

 八王子駅北口、という行先を掲げている。


(ああ、あのバスを待っていたんだ)


 そう思っていたら、バスはバス停も、■■ちゃんもまるでそこに居ないみたいに通り過ぎた。


「え? バス、なんで素通りしちゃったの? ■■ちゃん待ってたのに」

「……いいのよん。これで、いいの」


 そう言うと、傘を閉じて、旅行カバンと一緒に両手に持った。


「さ、帰ろっか、■■ちゃん」


 それから■■ちゃんは毎日、隣の病室を抜け出てあのバス停に向かった。

 ■■は毎日、馬鹿正直に付いて行った。

 そして、毎回決まって、赤のワンピース、白いリボンの麦わら帽子、白いレースの日傘、古ぼけた旅行カバンという姿になって、バスを待った。

 決して停ることの無い、バスを。


「■■ちゃんは、どうして、バスを待っているの?」

「……好きな人をね、待ってるの」


 ■■ちゃんは、恥ずかしそうにそう言った。

 ■■は思った。

 この人に、好きな人が迎えに来てくれますように。

 必死に祈った。


(この人は、あたしと同じ病気だ。だからお願い。酷い目に遭ってばかりのあたしじゃなくて、幸せが似合う、■■ちゃんに、愛する人が迎えに来ますように……)


 ……


 二ヶ月後、■■ちゃんは死んだ。

 白血病が悪化した。

 バス停で血を吐いて、運び込まれたのだ。

 家族に囲まれたその最期、■■に、こう言った。


「これ、あげる。お嬢ちゃん。あたしの代わりに、生きて」


 にひひ。

 そう笑って、旅立った。

 渡されたのは、スカーフで包まれた……


 あの赤いワンピースとウィッグだった。


 見守っていたお母さんとお父さんが、よければ、と、帽子とサンダルと旅行カバンと日傘までくれた。

 自分の病室で、水色の医療用帽子を取ってウィッグを被った。

 青いパジャマを脱いで赤いワンピースを着た。

 白いリボンの麦わら帽子を被った。

 その姿は■■ちゃんそのものだった。

 そして、心の中で誓った。


(よし。今日からはあたしが……代わりに生きるよ)

(蒼井アキちゃん……)

(にひひ。誰を待とうかなー。……そうだ!)


 瞳は思いついた。

 いや、思い出した。

 自分が待つべき人を。


 ……


 四月の天気の悪い或る日。


「かくまって。お願い」


 午前十一時十五分。

 瞳は、唐突に同い年位の或る男子の元へ、駆け込んだ。

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