【瞳さんと煙】

 翌日。


「かくまって。お願い」


 午前十一時十五分。

 唐突に瞳さんが、病室に駆け込んできた。

 赤いノースリーブのワンピース。

 白いリボンの麦わら帽子。

 背中の真ん中まである真っ黒のロングヘア。

 何から何まで何事も無かったかのように、脳腫瘍患者の男性用病室に入ってきて、何から何まで何事も無かったかのように、博巳のベッドに近づいた。


「瞳さんっ。なんで昨日は……」

「しー」


 博巳の唇に人差し指を当てた瞳さんは、にひひと笑うと、博巳のベッドの下に潜り込んだ。


「……誰も来ませんよ?」

「あれー? おっかしーなー」


 そう言うと、もぞもぞと間抜けな感じで出てきた。


「もう、どうして昨日は来てくれなかったんですか」

「にひひ。めーんご!」


 そう言うと、「開いている」窓に立った。


「じゃあね、ボク」

「あ、ちょっと!」


 慌てて瞳さんの後を追って、綺麗に磨かれた銀のサッシに足をかけ窓から飛び降りた。


「僕も行きますよ」

「えっ? ボクが? どして?」


 予想外のことを言われた博巳は、固まってしまった。


「どうしてって。毎日一緒だったじゃないですか。……昨日以外は」

「あー……はいはい、なるほど。きみ、ひろみくんだ? ね、そでしょ」


 まるで凄いことを思いついたかのように手を叩いて、うんうんと一人で納得している。


「『ひろみくんだ』って……いくら名前で呼んでなかったからって、そりゃあんまりですよ……」


 にひひ。


(あ。この笑顔だ。この笑顔が、見たかったんだ)

「バイちゃ! きーん!」

「あ……!」

(うん。この声だ。この「きーん」が、聞きたかったんだ)


 走った。

 瞳さんと。

 痛い頭を忘れて、笑いながら走った。

 嬉しかった。

 昨日は、一日沈んでいたから。

 もしかしたら瞳さんはもう──もう死んじゃったのかもなんて、なぜだかそう思って、泣いてしまっていたから。


「ききーっ! にひひ、とーちゃくっ」


 瞳さんと走る、二百メートルは、博巳にはハードだ。

 毎日毎日、頭は痛くなるし、息も上がる。

 それでも、辞めたくない。

 瞳さんは、僕の、初恋のひとなんだから。


「はあ、はあ、足、いつもより早くありません?」

「んー? いつも通りだけどナー……身体がね、なんだか軽いの! にひひ!」


 そう言って日傘を差して旅行カバンを持った。


(この残念な感じの笑い方が、瞳さん、なんだよな)


 いつものバスの重い足音が聞こえた。


(そうだ。約束、してたんだ。なんとかバスを止めて、一緒に、乗るんだった……)

「おーい、おーい」


 ぷっぷー。


「止まれー、止まってー!」

(あれ。なんか……変だぞ。瞳……さん……?)


 振り返ると、日傘を差して、旅行カバンを持って、遠くを見て立っている。

 まるでその目には、博巳のことも何もかも、一切のものがが映っていないかのように。


 ぷーっ!

 ぶんっ。


「うわあっ」


 博巳は倒れ込んだ。

 ……危うく轢かれる所だった。

 あと一秒飛び退くのが遅ければぺしゃんこになっていただろう。


「瞳さん……?」


 倒れ込んだ位置からは、日傘を差していて、顔が見えない。

 でも、瞳さんはぴくりとも動かない。


「瞳さん? あの……バスに乗るんじゃ……」

「んー?」


 初めて博巳に気付いたかのように、眠そうな顔で博巳を見た。

 そして、こう言った。


「ボク、そんな所で、何してるのかなー? んー? ……はっ!」


 急に赤面して赤いワンピースの裾を抑えた。


「お姉さんのぱんつを見ようたって、そうは行かないわよっ!」


 いそいそとバス停の脇に日傘と旅行カバンを置くと、走り出した。


「バイちゃ! きーん!」

「ああっ、瞳さぁん!」


 信じられないくらい早く病院の坂を駆け上がって、そして見えなくなった。

 後には、何がなんだか分かっていない、博巳だけが残された。


(はあ。瞳さん、どうしちゃったんだろう)


 ため息を吐きながら、病室の窓の外まで戻ってきた。

 ツタだらけの外壁。

 大戦の機銃掃射の後が、心に空いた穴みたいに残っている。

 その下に。

 小さな花のチャームが付いた白いお洒落なサンダルが、窓の下にちょこんと揃えて置いてあった。


「瞳さん……」


 瞳さんは、ハチャメチャだ。

 笑ったと思ったら、走り出す。

 血を吐いたと思ったら、笑顔で現れる。


(でも、そんな所が、大好きなんだ……)


 そんなことを考えながら白いサンダルの前で微笑んでいたら、後ろを、誰かが通った。


(……え?)


 瞳さんにそっくりな女の人が──髪型がおかっぱで違ったから、違う人だということはわかった──、喪服みたいな白と黒の服を着て、何か……

 白い壺みたいなのを持って歩いていた。

 ふと、匂いがした。

 いつも、瞳さんから香る、ふんわりとしたユリの匂い。

 何処からするんだろう。

 見回すと、病棟の横にある煉瓦の煙突から、煙が出ていた。


 ……


 それは遠く、夏の青空に吸い込まれて、滲んで消えていった。

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