002

 悠紀さんはやはりぐったりしている様子だった。たとえるなら二十メートルシャトルランで五十回近く走ったあとの様だった。息は切れているし、汗もかいている。私は悠紀さんに肩を貸してエレベーターに乗る。推しの汗……幸せだ。


「すみません、突然こんな事になってしまって。怪しいものではありませんから」


「あ、え、大丈夫です……えっと声優の悠紀翠華さんですよね?わ、私大ファンなんです!」


「本当?嬉しいな」


 推しとほぼゼロ距離で話をしている。昔、握手会とかにも参加したけれど、その時よりも心臓がバクバクする。当たり前の話だけれど。悠紀さんに聞こえてないよね。


「今日は学校の帰り?」


「は、はい。『朝倉さんは素通りする』を見るために、は、早く帰宅を……」


「わぁ見てくれてるんだ。ありがとう」


 そんな会話もそこそこに、マンションの部屋の前についた。私は鍵を取り出し、玄関を開ける。まさか、悠紀翠華と玄関を跨ぐ日がくるとは。


「す、すぐに何か飲み物を用意しますね」


「ごめんね、気をつかわせちゃって」


 悠紀さんはやはりぐったりした様子で、玄関に座り込んでしまった。思えば、なにがあったのだろう。そんなことを考えながら、冷蔵庫から麦茶を取り出し、私が普段使っているコップ……ではなく来客用のコップを用意した。ギリギリまで迷って。


「むむむ、麦茶です」


 私が麦茶を持って行くころには、悠紀さんはやや落ち着きを取り戻している様子だった。


「ありがとう。そんなに緊張しなくてもいいんだよ」


 悠紀さんは額の汗をぬぐいながら、私に優しく語りかける。「緊張しなくてもいい」と言われても無理ってものだ。推しが目の前にいて緊張しないオタクはいない。私はここまで、まだろくに目を合わせることもできていないのだ。


 悠紀さんが左手につけた腕時計を見て「もう少しで五時だけど」と私に言った。

「あ、『朝倉さん』が始まっちゃう」

「僕のことは気にしなくていいから」

 私の心臓は、今にも破裂しそうだった。しかし、気がつくとある言葉が口をついて出ていた。

「あ、あの、もしよろしければ一緒に見ませんか?」

「僕も一緒に?」



 悠紀さんと一緒にアニメを見るにあたって、私は一つの懸案事項を抱えていた。それは自室を悠紀さんに見られていいものかというものだ。


 いや、リビングのテレビで見ればいい話なのだが、私の目の前にいるのは推しである。せっかくなら私の部屋で、私のベッドに一緒に座ってアニメを見たいという願望が私の中で芽を出していた。しかし、絶対に部屋を見られたらドン引きされる。どうするか……。


「ど、どうぞ……」


 私は自室の扉を開けた。願望が花開いてしまったわけだ。

 悠紀さんの顔を見れない……見るのが恥ずかしい。


「うわぁすごい部屋だね。あ、僕のライブのポスターもある」


 恥ずかしい。実に恥ずかしい。


「ごめんなさい、お粗末な部屋で……」

「お粗末だなんて。素敵な部屋だと思うよ。本当に好きでいてくれてるんだね」


 悠紀さんの優しさが身に染みる。もう一生推しますよ、私は。


「テ、テレビがこちらにあるのでベッドにどうぞ」


 我ながらなんて自然な誘導。


「そんな申し訳ないよ。僕は床に……」

「いえいえいえいえ、申し訳なくなんてないです。むしろご褒美です」

「ご、ご褒美?」

 おっといけない、盛大に口がすべった。

「そういう事なら、お言葉に甘えてベッドに座らせてもらおうかな」


 ――勝った。

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故にオタクは恋をする 伊吹 藍(いぶき あおい) @Aoi_ibuki

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