第2話 歌帆

 市立柳生(やぎゅう)小学校は、毎朝降りるバス停の目と鼻の先。ここでわたしは、妹の真央と別れる。


 四年生の真央の周りには、すぐに小学校の友達何人かが集まってくる。

「おはよ」「昨日のアニメ見たー?」なんて、わらわら集まって話してる。


 わたしはここから、高校までさらに徒歩十五分だ。


 でも、今はそのひとときが何より至福。


「さくら川」と言われる、春には桜並木が見事な川の橋を渡る。朱塗りの禿げた橋の欄干に寄りかかって、「あの人」が漫画本を読んで立っている。


 周りには他の生徒だっているはずなのに。


 あの人を見た途端、急に体の芯があったまる。おはよ、と声を出そうとするけれど、できない。亜麻色の髪は生まれつきだとあの人は言う。もしそれが本当ならば。こんな気持ちにさせるなんて、どうしたって罪深いことだ。


 目の色も少し青みがかって見える。それでも、お父さんお母さんは外国人じゃないみたい。

 

⭐︎ ⭐︎ ⭐︎


 わたしたちは通りすがりの他人に過ぎなかった。今年の九月までは。


 わたしは夏休みにした「ひどい失恋」から立ち直れなくて、二学期に入ってから毎日、泣きながらこの「さくら川」あたりを通って登校していた。


 朝の神社を掃き清めてる時も、朝ごはんの時も、家を出る時も元気なのに、真央と別れて一人の時間になると、ぽろぽろ涙が出るのだ。教室ではわたしは涙を見せなかったので、橋だけがなにか魔力を持って、わたしの我慢を解いてしまうかのようだった。


 蒼くんはその時、漫画本を見ながら誰かを待っていた。九月中旬の晴れた日だった。今にして思えば、蒼くんの待ち人は多分、親友の光くんだった。けれど、わたしが前を通った時、この人は漫画をパタンと閉じて、まっすぐな目でわたしを見た。


 こわい目だった。問いかける目。責めるでも笑うでもなく。


「なんで、朝から泣いてんの」


 抑揚のない言い方。第一印象は「冷たい人」。


「ナンパするみたいに声かけるなんて、サイテー」


 わたしは小さな声で言って、足を早める。でも、あの人はわたしをどういうわけか、ずっと見ていた。


 溜まりに溜まっていた「他の人に向けるべき怒り」。行き場をなくしていた怒りがうごめきだした。黒い虫みたいだった。

 


 たまたま、この人は亜麻色の綺麗な髪の毛だった。わたしが別れた元カレ氏はもっと汚い色の金髪だったけれど、同じ「髪の毛の色が明るい人」という共通点に、頭が混乱してたんだと思う。


 黒い言葉が溢れ出すのが止まらなかった。自分が怖かった。呪われてしまったんじゃないかと思った。


 一通り言い終わって、わたしは蒼くんの顔をもう見られない。うつむいてしまったわたしに、蒼くんは耳元でささやいた。


「毎朝、ここで待ってる。明日もその話、聴かせてくれよな」


 さらりとした言葉で蒼くんは言うと、ひとりで歩き出してしまった。


 蒼くんは次の日も、約束通り、さくら川で待っていてくれた。その次の日も。


 わたしは「別れた元カレ」の話はもうしなかった。そのかわり、頭の中が猛烈に沸騰して、「この人の前にいると恥ずかしい」という思いで胸がいっぱいで。


 なんの罰ゲームなんだろう。毎朝、一緒に何分かだけでも歩くなんて。


 そんなふうに思って縮こまってた。


 さくら川はその五日間で刻一刻と色を変えていた。もともと、澄んだ水の美しい川だ。地元の人が大切にしているので、ゴミも落ちていない。


 五日間が過ぎて、その間に、わたしの元カレへの気持ちの整理もついた。でも、それどころでない事態が起きていた。


 五日目の金曜日。さくら川の橋を渡り終えた蒼くんは静かに聞く。


「元カレのこと、もう言わないんだ。てゆーか、名前も聞いてなかったな」


 わたしはそう言われて、少し臆病な表情で笑う。


「森嶋歌帆。山の上の森嶋神社の子です」


「敬語使うなよ!」


 蒼くんはくすぐったそうにわたしを見る。


 いつもこの時間に登校している、蒼くんの親友の光くんが、わたしたちを冷やかす。冷やかされるのにわたしは慣れていなくて臆病な表情で立ち尽くす。蒼くんはそんなわたしを中庭に連れていった。


 普段は通らない高校の中庭はひっそりしていて、家庭科室の前にはハーブが植えてある。蒼くんはペパーミントの葉を軽く手でもんで、匂いをかいでみせる。わたしもおずおずと真似をした。蒼くんはぱっと笑顔になる。


「俺とさ、毎朝、一緒に登校しようよ。森嶋」


 蒼くんの目は妙に真剣だった。


 名字を呼び捨てられたわたしは思わずうなずいてしまった。


 そして、毎朝、毎朝、甘やかで居心地悪い時間が繰り返される。


 その間に、わたしの「朝のお勤め」の話を聞いた蒼くんは、


「まじか。毎朝、ほんとえらいな。じゃあ、同じ時間に、うちの母さんのやってる産婦人科の前の掃除、俺もする」と言ってくれた。


⭐︎ ⭐︎ ⭐︎


 朝の空気が冷えてきた。トレーナーの上に羽織ったカーディガンだけじゃ、風邪を引いてしまうかもしれない。


 わたしは十月中旬の朝、玄関を出た後、そんなわけで、自分の部屋に一旦引き返した。ギイギイ言う廊下(鶯貼りなわけではないけれど、そういう感じの音がする)を忍足で渡り、真央とわたしの和室。


 和室のタンスの中にある、紺色の温かいフリース。これを着て、「朝の掃除」を始めよう。


 真央は、障子を突き破りそうなくらいに足を布団からはみ出して、すやすやと寝息を立てている。


「お団子おいしい」って寝言を言っていた。くすりと笑ってしまう。



 もう一度、玄関を出る。



 朝はどんな時間よりも好き。この太陽が好き。こんな山間まで、平等に照らしてくれて好き。


 毎朝六時に起きて、我が家から徒歩五分の神社に行く。


 神社へと続く急な坂道には、つかの間、海が見られる場所がある。朝の光を浴びた神々しい海。そして、わたしのお父さんとお母さんを呑み込んだ海。


 フェリー事故の夢を見ることは最近は少なくなったけれど。それでも、自分がかつて「海でおぼれ、父と母を亡くした」という事実は、わたしの中に重くのしかかっていた。



 おばあちゃんはおそらくそのことをわかっていた。



 神職は亡くなったお母さんからおばあちゃんに一旦戻ってはいたけれど。


「毎朝のお勤めをしな」と、十五歳の誕生日に渡された一本の箒。使い古されていて、魔法で空が飛べそうな箒。


「森嶋神社はうちの家系の管轄なんよ。わしとお前と、妹の真央で守っていかなきゃなんない。この地方の神様をお祭りしとる。その神様へのご奉仕じゃ」


 小学生の時の海難事故から抜け出せなかったわたしは、十五歳から「森嶋神社の境内を掃き清める」お役目をいただいた。


 実は、この神事は、わたしの苦しい心を癒すのに多少なりとも効果があった。朝のすっきりした空気。冬はしんと底冷えした空気。そんな中、お日様が海から顔を出す。


 初めは、海を正視できなかった。お父さんとお母さんを呑み込んだ場所だから。


 でも、毎朝、同じ道を通って同じ時間の海を眺めるひとときの積み重ねで、わたしは海を「穏やかな気持ち」で見ることができるようになっていた。


 そして、今この瞬間、日本中で、少なくとも「あの人」は、同じ時間に「清掃」をしている。


⭐︎ ⭐︎ ⭐︎

 

 わたしは今日、十七歳の誕生日。妹とかおばあちゃんには内緒だけれど、今日は蒼くんとカフェで放課後に会う。


 すごく恥ずかしい。けれど、とても楽しみにしてる。


 わたしが境内を掃き清めている三十分くらいの間に、真央はいつも、いつの間にか起きてる。そして、朝ご飯を作ってくれる。メニューは、目玉焼きに納豆、ほかほかのご飯とナスやキュウリの漬物、それから味噌汁。今日は豚汁。出汁が効いていて、ちょっと和がらしまで効いている。


「からだ、カラシであっためてね。姉ちゃん」


 真央は真っ白な歯を見せて笑う。この子の周りだけ、光がパッと差し込んだみたいにいつも明るい。


 そして、食事がおいしい。どんなものよりも、真央のつくる朝ご飯はおいしい。


 わたしたちが食べ終わる頃、おばあちゃんが起き出してくる。先週に痛めた腰をさすりながら、むっつりと不機嫌そう。


「湿布はる? ばあちゃん」


 真央は箸を休めて、おばあちゃんのそばにサッと行く。素早い。さすが小学校四年生。若いなあ。


 おばあちゃんは、腰のあたりのズボンをまくりあげて、真央に湿布を貼ってもらっていた。


 わたしはその間、無言でご飯を食べ終える。


 最近、どうも、おばあちゃんが苦手なんだ。

 遅れてきた「反抗期」ってやつなのかな。

「そろそろ、炬燵を出した方がいいかもね」

 真央が明るく言った。おばあちゃんがにこりと笑った。


⭐︎ ⭐︎ ⭐︎

 バスは七時十分。

「姉ちゃん早くー」


 真央は子ウサギみたいに素早い。


 今日会う「あの人」への手紙なんか書いてたから、遅くなってしまった。桜色の便箋と封筒は、カバンの中にこっそりしまってある。

 通学に使うバスは一時間に一本しかないんだ。


 定刻より二分遅れてバスが来た。


「どうぞー」


 いつもの顔馴染みの運転手さんが挨拶してくれる。確かに、こんな山間で乗るのはわたしたちくらいだもんね。「森嶋神社前」のバス停。


 バスはそれから三十分かけて、山道や海の見える道をずっと走っていく。毎朝見る風景なんだけど、時折、ハッとするくらい美しい。


 あの木に光が当たってること。


 あの海が紺碧なこと。


 自然に恵まれた静岡県河合町。伊豆と河津の中間地点くらいにある、観光地でもない町。


 バスは漁港前で二分くらい停車。市場帰りの人が乗ってくる。でもそれも五人くらい。

 この路線が廃線にならないことを、願ってやまない。


「柳生小学校前。次、止まります」


 真央もわたしも停車ボタンを押してないのに、運転手さんが先に言ってくれた。まあ、毎朝の通学だもんね。

 

⭐︎ ⭐︎ ⭐︎


 蒼くんはなぜ、外国人のような見た目をしてるのだろう。


「自分が知らないだけで、遠い遠い祖先が海の向こうから来たんじゃない?」


 わたしは無邪気に聞いた。二週間前。


 蒼くんはわたしの髪についていたゴミをはらう。いや、そういう名目で、前髪にそっとさわる。女の子の扱いに慣れてるのかな、とは感じるけれど、わたしはそれが嫌いではなかった。


「そだね。でも、俺の親父とおかんは、俺の見た目が原因八割くらいで、大喧嘩しちまった。俺が小学校四年生の時。外国人の子じゃないのかって思われたんだよ」


 蒼くんはわたしから目を離すと、遠くの電柱にヒヨドリが止まってるのを静かな目で見ていた。


「そして、その次の日の朝、出張で家を出た親父はフェリーに乗って、死んだ。あの事故の起きたフェリーで、横浜に渡ろうとしてたんだ」


 それって。聞こうとしたわたしは、ヒヨドリがはばたいたため、聞く機会を逃してしまう。


 わたしがお父さんとお母さんを失ったフェリー。あの海難事故の記憶がよみがえりそうになって、わたしは首をぶんぶんと振る。


 恐ろしい水は、わたしの眼前に「確かに」存在する。思い出す時は、ありありとしすぎていた。現実と見分けがつかない。わたしは呼吸の仕方を忘れてしまう。このまま、暗い海の底に引きずり込まれる、と思う。


「おはよ、森嶋」


 フラッシュバックの回想ではない、「リアルな蒼くん」が声をかけてきた。わたしの額を軽くさわる。わたしはハッと我に返る。また、過去を思い出してしまってたんだね。悪い癖。


「今日もしたよ。うちのクリニックの前の掃除」


 蒼くんは言って、わたしの隣を自然に歩く。わたしの「過去の呪縛」もとける。


 わたしと歩いてるときの蒼くんはいつも、少し、機嫌が良さそう。鼻歌まで歌ってるときもあった。わたしにしか聞こえないくらいのハミング。


 蒼くんは隣のクラス。進学文系で、将来は英語教師を目指している。亡くなったお父さんも、いま蒼くんと暮らすお母さんも産婦人科医なので、周りからは理系に進まないのがもったいないという声もあったらしい。それをガン無視しての、「英語の先生になる」夢。わたしは結構、応援してる。


 中学時代はモテてたらしいけれど。


 高校に入ってから、浮いた話のひとつもなくて、二年間過ぎて。最近、わたしとこんなふうに話をし始めた。


 蒼くんはスポーツやバラエティ番組を見るのが大好き。サッカーが得意で、休み時間によく友達とボールを蹴っている。


 わたしとは正反対の人。華のある人。


 わたしはおととい、蒼くんに言ったんだ。

「わたしの誕生日を祝ってください」って。


 蒼くんは、わたしの頭をくしゃりとなでると、

「いいプラン、考えておくから。放課後あけとけよ」と言った。


 そして、今日が誕生日。


 蒼くんは、誕生日おめでとう、って言ってくれない。忘れてるのかな? 少し不安になって、蒼くんの顔ばかり見てる。


「そんな目するな。特等席、あるからさ」


 蒼くんは笑う。わたしは一安心する。


⭐︎ ⭐︎ ⭐︎


 昼休み、わたしは一人でお弁当を食べている。

 高校に入って二年間、クラスメイトとの仲は決して良くなかった。


(あの子って、海難事故の生き残りの)


 噂は巡って、いつも、クラスメイトたちはわたしを遠巻きに眺めていた。


 わたしは、小学校四年生の時、今の真央と同じ年齢の時にその海難事故にあった。


 それ以前の自分には、学校で友達もいたはずなのに。


 事故にあう以前と後とで、世界が変わってしまったんだ。


 蒼くんは、そんな毎日に彩りをくれた。


 花にたとえるなら、百合の花。


 そんなことを思いながら、わたしがそぼろ弁当を食べていると。


「森嶋さん、お弁当、自分で手作り?」


 前の席の黒谷千穂さんが、わたしに聞いてきた。

 恥ずかしいけれど、本当のことを言おう。


「妹が料理当番なんです。我が家。朝ごはんもお弁当も。夕飯は祖母が」


「ふーん。料理上手なんだね、妹さん」


 黒谷さんは、お弁当のことを聞いてはきたものの、明らかに別のことを聞こうとしていた。わたしが警戒してるのに気づいたのだろう。真っ直ぐにわたしを見据えた。彼女は浅黒い肌で、とても美人だとわたしは感じる。


「蒼と最近一緒に通学してるじゃん? 好きなの?」


 蒼くんの名前を出されて、咄嗟に身構えた。お弁当のことなんか、黒谷さんははなからどうでも良かったんだ。


「いいえ、友達、です」


 ただの、と言う言葉を飲み込む。 

 カバンの中に入れてあった手紙が、頭の中をかすめた。


「蒼、意外といいやつなんだよねー。今はフリーらしいし。早くつきあっちゃいなよ。って、わたしもおせっかいだなー」


 その時、チャイムが鳴った。


 黒谷さんは素早く、「これ、わたしのスマホ番号。蒼のことだけじゃなく、もっと話したいからさ。気軽に連絡くださいな」と、アヒルのコックさんのメモ用紙をくれた。


 メモ用紙を、そっとペンケースにしまう。


 胸がドキドキしていた。でも、想像してたほど悪い展開じゃなかった。


⭐︎ ⭐︎ ⭐︎


 蒼くんと帰り道、校門のところで待ち合わせる。


 蒼くんは、光くんたちと一緒に来ていたけれど、わたしの姿を確認すると、光くんたちを置き去りにして、わたしの隣に来てくれた。


 穏やかな雲がすっきりした空に流れていて、日差しが暖かい午後。朝の肌寒さが嘘みたいに感じる。


「『青色のレモネード』が飲める店があるんだ」


 蒼くんによると、バス停を一個だけ、わたしの家側に行けば、徒歩十分で着くらしい。


 いつも乗るバス。でも、地元なのに、そのバス停、「ハトの海」ではわたしは降りたことが一度もなかった。


「なんか、冒険っぽい」


 素直に口にしてしまう。


「かもな。宝物が見つかるかも」


 蒼くんは、ちょうど来たバスにわたしを先に乗せてくれた。このバスの運転手さんは、いつもの朝の運転手さんとは違って、低い声で無愛想。


「ハトの海」で降りたのはわたしたちだけ。そこは海辺の岩場のような場所が間近にあって、ハトどころか、トンビが高く高く旋回している、寂しい場所。

 本当にこんなところにあるの、と思うけれど、蒼くんが調べてくれたんだもの。


 確かな足取りで蒼くんは狭い路地を歩く。周辺には、全く知らない住宅街ばかり。妙な不安を感じて、蒼くんの服の袖を引っ張ってしまう。 

 

 蒼くんが、所在なさげなわたしの手の居場所をつくる。すなわち、自分の左手を差し出す。


 そっと、手をつなぐ。慣れた仕草で、蒼くんは自分の制服のズボンのポケットに、自分とわたしの手を入れてしまった。


 朝食べた和がらしの味噌汁でも目がつんとしたけれど。今も、泣きそうだ。鼻水が出てきて、鼻なんて噛んだら今の空気、台無しだし、なんて、情緒も風情もなにもないことを考える。


 蒼くんはわたしの手をさらに強くギュッと掴んで、細い路地のさらにまた曲がり角の路地にわたしを連れ込んだ。


 距離が近い。近すぎる。出ていた鼻水が、びっくりしたせいで引っ込んでしまった。


「な、なに」


「森嶋、さ」


 蒼くんはわたしの髪の毛を本格的になでた。いつもの軽い触り方じゃない。胸がゾワゾワする。すごく苦しい。


「やだよ」


 ようやく、声を絞り出す。蒼くんは冷たい目でわたしを見てた。


「俺とさ、つきあってほしい。俺、幸せにするからさ」

 蒼くんの目が怖くて、あのフェリー事故の時の「溺れた水」の冷たさをふと思い出す。


 いやだ。こわい。


「やだよ」


 蒼くんのことを嫌いになりたくない。告白が「嬉しい」なんてことはなかった。こんな目で言われるなら、それは幸せなんかじゃない。


「俺じゃ、夏に失恋した、大好きな奴の代わりになれなかったかな?」


 ハッと気がつくと、蒼くんが寂しそうに歩き出していた。


「レモネードの店は行こう。約束したもんな。森嶋は俺のこと、嫌うかもしれないけどさ」


 蒼くんは気落ちした声で言う。


「俺は、俺自身を森嶋に捧げてやりたいよ。って、気持ち悪いかもしれないよな。お前が、あの海難事故にあった生き残りだって、お前のクラスメイトの、俺の幼なじみに聞いたよ。黒谷ってわかる?」


 わたしが海難事故にあったこと、蒼くん、知ってたの?


「俺たち、理解し合えると思ってる。ここ、段差になってる。この裏路地からじゃないと、本当に、行けないんだ。バス停からはさ」


 蒼くんの表情は、もう冷たくなんかなかった。柔らかい微笑だった。


⭐︎ ⭐︎ ⭐︎


 やがて現れたのは、エメラルドグリーンのドアに白い壁の、おしゃれなカフェ。蒼くんが静かにドアを押す。


 店の中には大きな窓があり、水平線が遠く遠く見渡せた。見かけよりもずっと広くて、十人くらいのお客さんがまばらに店内でお茶を飲んだり、新聞を読んだりしている。高校生はいなそうだ。


 蒼くんとわたしは、小柄なお姉さんに案内されて、窓際の隣同士の椅子に運よく座れた。白い椅子は丸い形で、等間隔におしゃれに並んでた。


 窓を閉めているのに、潮の匂いがするのは気のせいかな。


 蒼くんとわたしは「青いレモネード」だけ頼んで、ふたりで水平線を黙って眺めている。見晴らしが本当にいい。紺碧の海は今日は穏やか。やがて来たレモネード。目の前の海みたいに鮮やかなブルー。見立ててるんだね。味はちゃんと甘酸っぱいレモンで。


「蒼くん、わたしね。思ってた。なんで、わたしだけ生き残って、この世にいるのかなって」


 小さな声で話す。蒼くんがうなずく。


「今は愚痴をこぼせる相手だっている。黒谷とかも心配してるらしいしさ、俺にも頼れよ」


 涙が出て、レモネードが塩辛くなる。


「俺たち、ずっと友達だよな」


 蒼くんはいたずらっ子みたいに笑う。


 わたしは黙って水平線を見る。だんだんと西日が射してきて、海が茜色に反射してる。昔、龍が住んでいたという伝承のある、この土地だけの眺め。


「ずっと見てたいね」


「そうだな」


 店内の照明もちょっと薄暗くなる。バータイムが始まるのが午後五時のはず。今は四時五十分。もうわたしたちは退席しなきゃならない。


 蒼くんがすっと伝票をとった。


「帰り、気をつけろよ。誕生日だから、俺がおごってやる。ここ、いい場所だな。また来ような」


 蒼くんはそう言って、わたしを青みがかったその目で見てた。


 帰りのバスはお互い逆方向に乗る。バス停はひとつしかなくて、バスを待つ場所は同じだった。ふたりきりで、古くて錆びた青色のベンチに座っていた。蒼くんはペットボトルのウーロン茶をぐいぐいと飲み干して、一メートル離れたゴミ箱に器用に放る。


「真似するなよ。歌帆はこういうことしたら、外すから」


 歌帆、と初めて、名前で呼び捨てられた。


 ベンチに座ってるから、いつもよりも距離がずっと近いことに気づく。蒼くんは自分の肩に、わたしの頭を一瞬だけ、軽くもたれさせた。温かみが切なかった。


「いつか、俺のこと好きになってくれるかな、って、ゆっくり待つことにするよ」


 ささやき声に、わたしは、カバンから手紙をようやく取り出した。


「読んで。でも、バスの中とかで読んじゃダメ。家で読んで。読んだら燃やして」


 一気に言ったところで、わたしの乗るバスが来た。

 蒼くんがわたしに満面の笑みを向ける。


「燃やすもんか。俺の気持ちは多少は通じてるかい。大事に読んで、一生、大切にするから」


 少し恥ずかしそうに笑うその表情が、山間の薄い夕日に確かに照らされていた。










  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

揺れるまなざし 瑞葉 @mizuha1208mizu_iro

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ