君の魔法が解けるまで

mk*

1.短夜と月下美人

⑴不気味なメッセージ

 風も絶えた夏の夜の闇、蒸した熱気が包み込む。

 低く唄う油蝉、遠く響くクラクション。古びた団地群の規則的に並んだ窓々からは、疎に明かりが漏れていた。そして今、街は死を迎えるかのように静かに眠りにつこうとしている。


 月待壮琉つきまち たけるは、ベランダに面した窓枠に座り込んでいた。街から明かりが消えると、夜空には星が輝いて見えた。


 ハーキュリーズ座、ライラ座、スコーピオ座、オフィウクス座。夏の大四辺形を指先で辿り、壮琉は静かに視線を落とした。暗く沈んだベランダに、白いプランターが一つ置かれている。


 太く直立した茎から濃い緑色をした扁平な葉が生え、株元からは細長い鞭状の茎が伸びている。茎の先端には幾つかの白い円錐形の蕾があり、今にも弾けそうに膨らんでいた。


 大切に育てて来た月下美人は、今夜にも開花しそうだった。壮琉はその瞬間を目に収めるべく、今か今かと待ち侘びていた。


 その時、ポケットに入れていた携帯電話が震えた。

 取り出してみると、ChatGPTーーOracleProwオラクルプロウからメッセージ受信の通知が届いていた。壮琉は携帯電話を左手に、右手の指先ですいすいと操作しながら新着メッセージを流し見た。


 オラクルプロウは、日本の若者を中心に人気のある人口知能チャットボットである。自然な会話を行うことができ、ユーザーの質問やリクエストに対して様々な情報を提供してくれる。また、言語理解や対話生成の技術を用いており、幅広いトピックについて会話することができる。


 ChatGPTの中でもオラクルプロウが取り分け人気なのは、膨大な情報を元にした正確な未来予測である。この機能により、個人や企業は意思決定を行う際に有益な情報を得ることが出来るようになった。ビジネスの場では、戦略立案や投資の意思決定で有効活用された。


 また、オラクルプロウは人々の娯楽やコミニュケーションツールとしても人気がある。チャットやゲームの形式で友人や知人との交流を楽しんだり、新しい情報や話題を共有することが出来る。


 もちろん、オラクルプロウは学習や教育の場面でも活躍している。人々はオラクルプロウを通じて簡単に情報を入手し、学習やスキル向上に役立てている。


 オラクルプロウは様々なテクノロジーとも統合している。スマートホームや自動運転車などのデバイスやシステムは、オラクルプロウの予測や情報を活用して自己学習や最適化を行っているという。


 つまり、オラクルプロウは自分達の生活にとって、なくてはならないものになりつつある。


 壮琉はオラクルプロウに送られて来た通知を開いた。一件は月下美人の開花時期の予測、もう一件は幼馴染である松本遥歩まつもと あゆむからのメッセージだった。




『月下美人、咲いた?』




 人の良さそうな顔をした遥歩の顔が浮かび、壮琉の頬は自然と緩んだ。遥歩は壮琉の高校のクラスメイトであり、幼馴染であり、何でも言い合える親友のような存在だった。


 壮琉が返信を打ち込もうとした時、ベランダの柵の向こうにバイクが一台停まっていることに気付く。壮琉が欄干から覗き込むと、其処には茶髪の青年が背中を向けて立っていた。


 凛と伸ばされた背筋、黒いアメリカンバイク。銀色のピアスが街灯を反射し、鋭く輝いている。壮琉はその青年に見覚えがあった。彼が振り返る刹那、壮琉は身を引っ込めて、姿を隠した。


 隠れる必要なんて無いのに。

 自分が酷く惨めな存在に感じられる。けれど、の前に立つとどうしても、自分の弱さを突き付けられているような、惨めで情けなく思えてしまうのだ。


 時々、自分が夜の湖面を揺蕩っているような不安な気持ちになる。他人からの評価で成り立っている今の自分、誰かから認識されることで実在する自己。自分の存在意義を他者に明け渡している現在は、蝋燭の灯火のように危うく儚い。


 少ししてバイクの排気音が夜の街に轟き、彼は消えて行った。壮琉はほっと胸を撫で下ろし、月下美人の植えられたプランターへ目を向けた。


 白い円錐状の蕾は、解けるようにして次々に花弁を広げ始めていた。壮琉は慌てて携帯電話を取り出して動画を撮った。遥歩と、遅くまで仕事をしている父へ送るつもりだった。


 月下美人は月明かりの下で、独特な甘い匂いを放ちながら浮彫のように美しく鮮やかに咲き誇った。たった一晩の開花をこの目で見届けることが出来たのは、オラクルプロウの予測と、丁寧な手入れをして来た自分の成果だった。


 満足感と達成感を噛み締めながら、壮琉は遥歩へメッセージを送った。自分のことのように喜び、称賛してくれる遥歩の存在が壮琉には眩しかった。


 月下美人はやがて、項垂れるようにして萎んで行った。散り際の花というものは、どうしてこうも哀しく目を惹くのだろう。壮琉は花への憐れみを振り払うようにして携帯電話をポケットへ戻し、就寝の為に部屋へと踵を返した。


 その時、再び携帯電話が震えた。

 遥歩からのメッセージだろうと気に留めなかった。


 ベッドへ入り、携帯電話を充電器に差し込む。手癖で携帯電話のロック画面を開くと、オラクルプロウからメッセージが届いていた。




『Change before you have to』




 差出人不明のメッセージ。セキュリティの厳重なオラクルプロウに迷惑メールが送られることは無い。では、これはシステムのエラーだろうか。


 変革せよ。変革を迫られる前に。

 アメリカの実業家、ジャック・ウェルチの言葉だ。意識の高い学生が気取って送り付けたのだろうか。壮琉は鼻で笑い、携帯電話を投げ出した。


 変革なんて望んでいない。俺は安泰がほしいんだ。

 そんなことをぼんやりと考えながら、壮琉は枕に頭を預けた。やがて意識は沈むように眠りの底に落ちて行った。







 1.短夜と月下美人

 ⑴不気味なメッセージ







 予鈴のチャイムが鳴り渡り、廊下を歩いていた生徒達が吸い込まれるかのように教室へ戻って行く。壮琉は学生鞄を肩に担ぎ、早足に教室へ向かった。


 教壇の上には既に担任の教師がいて、遅刻寸前の壮琉を見て呆れたように笑った。クラスメイトが軽口を叩いて囃し立てる中、壮琉は軽く応えながら自分の席を目指した。窓際の最後尾、その一つ手前。


 一番後ろの席には、一人の男子生徒が座っている。

 茶色の短い髪、猫のような切れ長の目に、ヘーゼルの瞳。通った鼻梁は異国の雰囲気を持ち、彼の周囲は何処か神秘的な空気が漂っている。


 ヘーゼルの瞳をした男子生徒ーー藤崎実可ふじさき みかは此方を見上げると子供っぽく笑った。その邪気のない笑顔に安心すると同時に、壮琉は足元が抜けるような恐怖を覚えた。


 その理由も分かっている。きっと、他の誰も覚えてはいない。ただ、自分だけが忘れられなくて、何度も繰り返し思い出しては、その度に打ちのめされる。これは自傷行為の一種なのかも知れない。


 壮琉が席に座ると、タイミングを見計らったかのように後ろの席の女子生徒が実可に話しかけ始めた。




「オラクルプロウから変なメッセージが来たの知ってる?」




 ああ、そういえば。

 壮琉は彼女の言葉に思い出し、机の下で携帯電話を見た。其処には確かに、差出人不明の気味の悪いメッセージが届いている。




『Change before you have to』




 壮琉は鼻で笑った。こんなものはシステムのエラーに過ぎない。それとも、夏を盛り上げる為のサービスだろうか。


 壮琉がそんなことを思いながら携帯電話をポケットに入れると、後ろの席で実可が言った。




「俺、オラクルプロウやってないんだよね」




 あっけらかんと実可が言うと、女子生徒は大袈裟に驚いた。

 そうそう、実可はそういう奴だ。大海原に帆を張った船のように、流行も他人の評価も気にしない。幼い頃から変わらない実可の正確に安心すると同時に、胸がじくりと痛みを持つ。


 担任の教師が先日のテストの返却を始める。

 隣の席のクラスメイトが返された答案を覗き込んで来る。壮琉はその眼前に突き付けて笑ってやった。


 100点満点の75点。感想に困る微妙な点数である。

 クラスメイトがごにょごにょと口籠るので、そいつの答案を覗いて見る。69点。なんだよ、良い勝負じゃないか。


 いつの間にかクラスメイトが集まって、傷の舐め合いが始まった。俺達は夏休みを前にした高校一年生で、全力で馬鹿なことをやるのが楽しかった。けれどその時、壮琉の後ろの席から歓声が上がった。




『すごーい! 実可ちゃん、また満点!』




 その瞬間、クラスメイトの興味は実可へ移った。

 実可はクラスメイトに囲まれながら謙遜し、当たり障りない言葉を並べている。担任教師が一喝すると、クラスメイトは渋々と席へ戻って行った。


 壮琉は半身で振り向いて、実可を見遣った。

 汗の滲む手の平を握り締め、挑発的な笑みを取り繕って、壮琉は言った。




「やるな、実可。次は負けねぇ」




 壮琉が言うと、実可は曖昧に微笑んだ。




「楽しみにしてる」




 何処か寂しげに微笑み、実可は窓の向こうに視線を投げた。壮琉が釣られるように視線を遣った時、クラス中の携帯電話が震え始めた。オラクルプロウからの通知である。


 通知内容、刃物を持った不審者の出現。

 場所はーー……。


 実可が勢いよく立ち上がった。椅子が後方に倒れ込む。構わず走り出す実可に、壮琉は迷った。

 オラクルプロウの通知、場所はこの高校だった。そして、被害内容の予測。死傷者は二名の教諭である。


 教師達が校門の鍵を締め、校内に非常アナウンスが響き始める。穏やかな日常は幻のように消えてなくなってしまったのである。


 壮琉は暫し呆然とした。一目散に駆けて行った実可の後ろ姿が目に焼き付いている。苛立ちと焦燥感が腹の底から湧き上がり、壮琉は頭を掻き毟り、大きく溜め息を吐いた。


 壮琉は緊張感に包まれる教室から駆け出し、実可の後を追った。昇降口は教師達によって厳重に施錠されているが、実可の姿はない。壮琉ははっとして、窓に額を当てた。


 白く焼けたグラウンドに、刃物を持った不審な男が一人。そいつは煤けたスーツを来て、血の気のない顔色で俯いている。


 その側に、一人の青年がやって来る。

 ヘーゼルの瞳は太陽の下で宝石のように輝いている。教師達が驚きの声を上げる。警察の到着はまだかと叫ぶ。不審者は実可の姿を認めると、虚な眼差しで鈍色のナイフを振り翳した。


 女教師が悲鳴を上げる。男教室が昇降口を飛び出す。

 けれど、実可は振り翳されたナイフを腕ごと掴むと、あっという間にその体を地面に投げ飛ばしてしまっていた。その洗練した一挙手一投足に、誰もが息を呑んだ。


 それは柔道の投げ技の一つ、浮落と呼ばれる相手の体重移動の瞬間を利用してかける手技である。


 実可は倒れたまま動かない男からナイフを取り上げると、此方を見て微笑んだ。勢い良く駆けて行く教師達、其処から放たれる叱責と称賛を聞きながら、壮琉は静かにクラスへ戻った。


 道すがら、携帯電話にオラクルプロウからメッセージが届いていた。メッセージ内容は、高校に現れた不審者は、高校生のお蔭で無事に確保されたというものだった。




『Change before you have to』




 あれは、一体どういう意味なんだろう?

 そして、俺は何をするべきなんだろう。壮琉が考え込んでいると、遥歩からメッセージが届いていた。遥歩は隣のクラスなので、此方の様子は分からない。内容を掻い摘んで話すと、驚いたり、怒ったり、忙しそうにしていた。




「実可はどうしてそんなことをしたのかな……」




 寂しげな言葉だった。

 確かに、実可の行為は叱られて然るべきものだったと思う。けれど、実可が勝算無しにそんな行動をするとも思えない。


 実可はまだクラスに戻って来ない。今頃、説教でも受けているのだろうか?

 壮琉は答えられないまま、静かに机に突っ伏した。その中で、壮琉は酷く懐かしい夢を見た。それは、壮琉にとってトラウマの根源と呼ぶべき悪夢だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

君の魔法が解けるまで mk* @mk-uwu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ