出会い

 シールの最初の1枚を剥がしたあとのような、何かが欠けてしまって、そして何もかもが何枚ものそれで覆われた季節が春だとぼくは感じる。失くしては貼り合わせ、失くしては途方に暮れて。でもぼくはそのどちらでもなかった。父をなくしたあの日、ぼくは遠くへと光差す渡り鳥に予感を手渡したから。春の校舎へ向かうぼくにチューリップやスイセンがまばらにいくつも重なって、あの白からかけ離れていった時間を告げている。それが悲しいことなのか、それとも大切なことなのか、ぼくにはわからないままだった。まだここが肌寒いのは声がしないからだと思う。ぼくはどうしても朝から他の生徒に会うことが苦手だった。ぼくにとって朝は特別だったからだと思う。それなのにぼくは朝を手放した。両手で包むように抱えていた小さな鳥が歌うのをやめてしまったように、冷たい土の中へと還して、もう二度と飼わないと誓って。もしかしたらずっとそうしたかったのかもしれない。そうなってほしくて、そしてその日はやってきた。そこまで考えて、追うように校舎がどうしようもなく大きな影を落としてくる。ぼくの足元のそれを消した影に向かって、できるだけゆっくりと歩いて行く。走りだしてしまったら、朝焼けに振り向いてしまいそうだった。

 ジャズ調のマーチに人工水草が踊ることはない。昇降口でぼくは吹奏楽が漂う水中にいるオランダ獅子頭を見つめてしまう。頭痛を振り払うような泳ぎ方の魚が、両腕を広げたくらいの本当に大きな水槽の中、目の色を変えることなくいる様は、足元が不安定になる心地がした。重力に逆らっているのだ。けれどもぼくは見たことがある。この子の調子がおかしかったとき、死相が現れていたことを。私はもうおしまいです。というような顔に、どうしてだか同情した。そんなことを言いながら、物理の先生の姿を見つけると、水面へとあがる。まだ生きたがるのだ。でも、それは仕方のないことだとも思う。どうしてだろう、最近はこういうことが多い。ぼくはクラス表のプリントをカバンから取り出して、聞こえるテンポに乗せて広げた。乾いた紙の音に中低音が一瞬消えて、その中でぼくは教室の場所に安心する。3年生の教室はこの水槽から少し遠いところ。

 「自分でもわからないうちに、その日はやってくるんだよ」

 ぼくは微笑むと、同意も何もないまま、その場で名札をつける。

 ミロシュ。父親のいないかわいそうな子。みんなが言う。テンポ120をよそに、1人分のローファーが青の気配を帯びて、鳴った。


 息を殺す。誰もいないはずの教室に、その子は幽霊みたいに少しうつむいて生成りと向き合っていた。ノートをたたく音がしない代わりに、黒のインクがぼくの足元まで言葉に化けてやってくる。この子は言葉を重ねている。

 「おはよう」

 これが1枚目だと思った。ぼくは台紙からそっと剥がして、彼にそれを差し出したくなる。ずっと誰にも自慢しないで隠していた完全なそれを。ぼくは台無しにした。そう気がついて、ぼくはどうして黙って教室に入らなかっただろうと思う。どうしてそのことが心地いいだろうと思う。

 「おはよう」

 幽霊が笑う。通り過ぎてくれと。ノートと数枚のメモ用紙を伏せると、彼は青い万年筆を胸に差す。

 「ぼく、ミロシュ」

 そんな青、どうだってよかった。

 「隣に座ってもいいかな」

 終わらせるものか。あの日回りだした世界を、今再び照らしだされた足元を手放したくない。君がどんな思いかなんて知らないのに、ぼくは意地になる。結局ぼくは朝の中に立ちすくむ。連れ戻される。

 「どうぞ」

 ずっと遠い時間の中にこの子はいる。薄暗い彼の手が隣の椅子を引いて、ぼくに座るように促す。ぼくは手放してしまったものを数えながら席に着いた。父が焼いた半分生のパンケーキ、妹の背中を押したブランコ。過ぎてしまったものはみんな冷たくかたい。それなのにぼくの中でその歌声は鳴り止まずにいる。ぼくはスケッチブックを広げた。描こう。けれども、鉛筆のある缶ペンを開けるより重たい音が画面に重なる。振り向けば、彼があてもないように瞳を揺らしていた。ああ、と思う。彼はきっときれいなのだ。だからほんの一瞬人から離れて見えてしまう。本当はこんなにも優しそうな男の子なのに。

 「ロラン。さっき名前を伝えていなかったから。ごめん」

 「いいよ、ぼくは気にしていないもの」

 方解石で遊ぶみたいに彼の世界のズレがもどった。ロラン、君は本当は幽霊なんかじゃない。

 「ミロシュ君、それは南国の花の絵だね」

 ロラン、地に足を着けてごらん。

 「うん。ぼくのことはミロシュでいいよ」

 「それじゃあミロシュ、わたしが君の絵を気に入ったと言い出したら、笑うかな」

 途端に、誰か、と思った。どうか、この瞬間をフィルムの中に閉じて、いつだって振り返られる永遠にして、と。けれどもぼくは知っている。本当の尊い時間こそ、目に映らない光の中へと終わっていくのだと。だからぼく達は「かく」。限りなくそれに近くて、遠い形となるものを。

 「笑わないよ。ぼくは君を笑ったりしない」

 「ありがとう」

 ロランが小さく笑う。少しだけそれがさみしいのは、彼がぼくに大切なことを差し出したからだと思った。ぼく達、似ているね。微笑みでそう答える。きっとぼく達はこの空間を忘れない。そして、いつか遠い日にまたここへと手を振るのだとわかる。完璧ではない記憶の景色の中、ここが原風景となって走馬灯の一切れとなるとき、本当の涙を流すだろう。その涙は、限りなく青に近いのだ。

 吹奏楽が静まると、やがて校舎に生徒達の息遣いが満ちていく。ぼく達はケーキにフォークを刺す優しさで、等しく笑いあった。


 いくつになっても、ぼくのお弁当にはウサギがいる。大きな後ろ足をなくしたその子達がこの中庭を飛び跳ねることはないけれど、代わりにロランが手を頭へと持っていき、ウサギの真似をした。不思議だったのは、その仕草がまるで手品のようでいて、それなのにありふれた子供っぽさを矛盾して巡っていたからだと思う。それが何故か少しだけ息苦しかった。ロランはパンとフルーツが一口の大きさに切り分けられた軽食をゆっくりと食べている。視線を遠い時間の中に置き去りにして。

 「ミロシュのお弁当はお母様がつくられているの」

 「うん、時々自分でもやるけれど、大体が母だね」

 「自分でも?君、料理もできるのかい」

 ロランが再び人間らしさを取り戻す。この子は知らず知らず魂を世界に切り渡しているみたいだった。きっとそれがロランという子であって、そしてそうでもしないと彼は彼でいられないのだと気がつく。そうして、自分を何かから守っている。

 「夕食の残りを詰めるだけだよ。ぼくが作った日にはウサギはいないさ」

 「そう。君のお母様、きっと優しいね」

 うん。小さくうなずく。ロランの三つ編みにそっと目をやると、彼のお母さんもそうなのではないかと思う。けれどもぼくは本当のことは知らない、プールの底に腕時計を落としてしまった時みたいに、潜ってはまた息をするためにそこから離れてしまう心細さがやってきた。

 「ロラン、ぼくはラジオが好きなんだ。『こどもたちへ』が」

 ウサギを持ち上げながら、ぼくは本物のウサギの重さを知らないことに気がつく。少し酸化したリンゴのその子が口の中で眠りについた。甘い。

 「おそろいだね。わたしもその番組、必ずというくらい聞いている」

 「うれしいな。ぼく、この番組について話し合ってみたかったんだ。暗闇屋商店の回は聞いた?」 

 リンゴの皮の渋みがあとを追う。おいしいということは多分、純粋なのに手に触れられないような曖昧さを彗星の尾のように引き連れていることだ。

 「何年か前だったね。モリオンさんという方の話しだろう?」

 「そう、そうなんだ。『暗闇とは暗くもあたたかいわずかな安寧』ぼくは忘れられなくて、そこで働くことを頼んだんだ」

 「まって、暗闇屋商店はお店だったかい?わたしは少し忘れているな」

 空っぽになったお弁当箱の隅に食べたものたちの色がわずかに残る。ぼくはそれを洗い流す時間がいつかの今日にやってくることが信じられない気持ちになった。

 「お店であって、暗闇についての研究所でもあるんだ。よかったら今度おいでよ」

 ロランは目を細めて水筒を取り出すと、先にパンの最後の一口を放るように口にして、それを水で流し込んだ。ぼくはさあっと図々しい気持ちに気がついて、足元に目をやる。困らせただろうか。

 「ぜひお邪魔したいな。君が次に行くときに行きたいね」

 小さな花を持った草がなんでも知っているみたいに、ぼくに微笑む。白いそれは、いつかに見たあの白に似ていた。

 「ねえミロシュ。今日のこの後はどうかな、都合とか......よかったら、わたしがよく行くカフェがあってね。そこで続きの話しをしないかい?」

 「大丈夫だよ。ぜひ行きたいな」

 ぼくはお弁当に蓋をすると、食べ終えたリンゴのウサギがどこか遠くで嬉しくなって跳ねている気持ちがする。そっとランチボックスをクロスで包みなおして、ロランの方を見やれば、新緑がぼくに笑みを向けていた。少しだけ金色の光を散らす彼の瞳の奥に、涙が絶えず息を潜めていることをぼくは感じる。ロラン、君は何をそんなに悲しんでいるの......それとも、それとも。春の霞むような雲が、淡い影を僕たちの足元に落とした。チャイムが終わってしまったように次を告げる。ロランの瞳に映るぼくは、鏡で見るよりも澄んでいて、けれども彼からぼくが何色に見えるのかは、きっとわからないままなのだと、そっと視線を影へと向けた。

 ぼく達は小さな声で笑い合うと、立ち上がり、教室に続く渡り廊下へと向かう。いくつかの無機質な足音の中、2人分の靴が歩むそこに世界がある。それはずっと、この時を待っていたみたいに、回りはじめた。  


 空を見上げると、この星が本当に球体の形をしていることに気がついて、何度も驚く。最初にそのことを口にした人は、一体どんな返答をもらったのか、午後の雲の流れは教えてくれない。あんまり上を見てばかりいたから、つま先を階段にこすった。しまった、と思う。離れた場所にある花屋でいつだって季節ばかりを集めて小さく束ねている母の姿が見えて、涙ぐみそうになる。けれどもそれは貝がらみたいにきれいなロランの手がぼくの片手を支えて、落ちることはなかった。

 「転ばなくてよかった。わたし達、こんなにも歩みがそろっていたのだから」

 「ありがとう。ぼくったら、空ばかり......この先はゴンドラ乗り場だね、乗るのかい?」

 「ああ。とても細い水路まで行くよ。行き先を伝えないと停まらない所なんだ」

 小運河の水はすくい上げたくなる青と透明をもって日差しに微笑んでいる。石畳の隙間に勿忘草が水面の影を踏もうと水色にそよぎ、それを人々は踏まないようにとしたり、気がつかないままだったりした。もし誰も彼もの息遣いをぼくの心に留められたらならと思う。ぼくだけが一身に悲しみを背負い、皆が幸せだったらと。けれどもそれは隣で手を引くロランの少し冷たい体温によって、不思議にそんなふうにならなくてもいいのだとささやかれた。大丈夫、君はもう充分にやさしい。黒塗りのゴンドラは、景色の中に鉛で線を描いてその境界線に子守唄を歌っていた。本物よりも本当を知っている造花で飾られた船の前にロランが伝えた行き先は、霞む空へ飛び去る魔法となり、もう一度ぼくに手を差し出す。片足分の魂に沈み、再び浮き上がる船が、肩を並べて座るぼく達にファンファーレを鳴らした。

 それは確かに、祝福の音色となって、船は白い波を砕いた。


 それは幼い頃父の部屋で初めて稲光を見た一瞬の文字で書かれていた。父はぼくに自身の持つ世界中の本を好きに読ませてくれ、読めないものはいつのときも天文学者の語る淡い空気をあたためる声音で話してくれた。ぼくはそのとても遠い時の中で記され、口にされてはいつしか姿を夕日みたいに隠した文字をひたむきに覚えた。それは、今もやさしいものならば読めてしまうものだから、懐かしくて、気持ちの置き場がわからなくなる。『土の犬』そう書かれた銅の色に光を放つケアンテリアを抱いた女の子の周りには、サフィニアやビオラのハンギングがさまよい歩くシャボン玉に手を伸ばしていた。振り返れば、対岸の家の子が窓を少しだけ開けて、隙間から空へと息を吹き込んでいる。

 「土の犬」

 それはため息だった。こんなところにいただなんて、お父さん。いや、父はいつもそばにいる。雲雀の姿が見えないまま降り注ぐ彼らの鳴き声の中、街路樹が落とす花の名前の中。全てみんな、知ったかぶりのような父の形見たち。

 「ミロシュ、この文字は100年以上前のものなのに知っているんだね。言葉にも興味があるのかい?もしそうだったら、嬉しいな」 

 「本で見て、小さい頃夢中だったんだ。でも、もう少ししかわからないよ」

 やっぱりだと思う。幸福だとか、不幸は過去に眠った冷たい小鳥の一雫から、思いがけず目を覚まし、その時がやってくることは知らされないまま、再びさえずりだす。ロランが喜んだことが、ぼくの形見を幸いにしてくれる。やっと、泣いても罪ではないのだと気がつかされる。だからこそぼくは、彼方に青を願って、笑ってみせた。


 むき出しの爪が力強く後ろ足で蹴りながらかけて来る音がする。長い舌に黒のあざがひとつある毛むくじゃらは、天井までもとどくフェンス越しに、はじめましてと笑っていた。犬は寂しい生き物。第二の笑う生き物。彼らがいつから笑うようになったのか、それは遠い昔の中に置き去りにされている。フレスコ画は世界中の憂いを忘れきった眼差しで、こちらにその視界をわけ与えてはくれない。多肉植物の寄せ植えがそんな環境にも対応しようと、窓のないここで鮮やかに、うす闇に光を求めていた。

 「ロザリィさん、いらっしゃいますか?ロランです」

 「まあロラン君、今手がふさがっているの、開けていいわよ」

 失礼。ロランが伸ばした腕は、ぼくの髪に少し触れて過ぎていくと、小さい頃から変わらない場所を懐かしむ指先でゲートを開けた。おふざけのような形の前足でずっと足踏みをしていた子は、風に手放してしまった風船を取り戻す勢いで飛び跳ね始める。

 「ほら、君はもう13歳になるのだろう。足を悪くするよ」

 13歳が刻む4拍子に長調のピアノが重なった。少しずつ調子がずれてくると、照明の輪郭を消す床の光に、ハートの形へ整えられたヒールが鳴って、こちらへ微笑む。その両手は銀のトレーにあって、お願いごとをする佇まいでサボテンがいくつか乗っていた。

 「ペモちゃん、おしまい。おしまいよ。ロラン君、今日はお友達とかしら?」

 「友達になれたらと願っています。個室は空いていますか?」

 ロランが片方の踵でもう片方のつま先を潰す。シャンパンゴールドのステッチがかすかに悲鳴をあげて泣いた。許されることを思うそれは、どこかロランの声音に似ている。友達になれたのならば。それはぼくも同じような気持ちだった。

 「ご覧のとおりの店内よ。もちろん空いてる」

 足元でペモちゃんは、主人かお客さんか、どちらを見ればいいのかわからなくなって、また足踏みを始める。ガラス張りの絵画の中の人々は小鳥や花へと楽器の旋律を贈り物をするやわらかさで奏でていた。

 「まだ観光ガイドの取材、断っているのですね」

 「だって、遠くからまで沢山のお客様がいらっしゃるんでしょう。そんなのいやよ」

 ロザリィさんの目が棘に指先をかざしてしまった痛みに、仕方なさそうな、それでいてその痛みを取り除くことを譲らない強さをもって細められる。ぼくはすっかり名乗る機会がわからなくなって、落し物を拾う目線の落とし方でしゃがんだ。

 「触ってもいいですか?ペモちゃん。ぼく、ミロシュです」

 彼女が何かを告げようとする前に、13歳のペモちゃんはロザリィさんのリボンが沢山重なったパンプスの後ろからよくできたおもちゃの愛らしい走り方で躍り出る。ぼくを少しだけ突き飛ばすと、最初は鼻を鳴らし、次第に何かを言葉にしたいと声音で訴える。その口元は、犬を知らない人が見たらきっと怖く思うくらいに歪んで、笑っていた。

 「ごめんなさいね。この子ったらそのとおりで......はじめまして、ミロシュ君。ロザリィです、よろしくね」

 歩み始める3人の靴はAの音で音程を揃えていく。1人だけ素足のその子はメトロノームにはなれず、不規則なリズムで、好きな歩幅でかけて行った。


 世界が緑青に沈んで、ぼくはその中に何も見出せなくなる。呼吸、ささやき合う声。それがやっとセピアから100年前の金色に戻り始めて輝きだすと、ぼくはフラッシュバックに見た人々のまぼろしに、瞬きをした。揺りかごになれないシャンデリアが待ち伏せをしていた2脚だけの椅子を照らしている。猫足の、光にすかしたら透き通ってしまいそうな背の高い背もたれ。

 「好きな方にかけて、ミロシュ」

 「ありがとう」

 六角形の部屋の壁一面一面には救いの手を差し出す人々が笑顔と涙を両手からこぼして、ぼく達を見つめていた。少し奥の方に座ると、家路も朝日も本当のことだったのかがわからなくなる。きっとだけれど、ここは世界中からペーパーナイフが手紙だけを傷つけないように切り取る在り方で隔離されている。棺みたいだ、と思った。お別れの準備をさせるために、花をひとつひとつ敷き詰めさせる棺。

 「勝手に17時に迎えのゴンドラを頼んでしまったのだけど、問題ないかな」

 ロラン、もしも君と親友であれたのならば、どこまでもいけるよね。

 「大丈夫だよ。ここから1時間かからないくらいで帰れると思う」

 ぼく達が別れるとき、それはお互いの髪に花を飾ることなのかな。

 「よかった。ああ、それから、ここは基本的にコーヒーか紅茶だけなんだ。苦手ではないかい?」

 「どっちも好き。おすすめを教えてほしいな」

 「紅茶もこだわりの産地なのだけど、コーヒーはかすかにオレンジの香りがするんだ。面白いと思う」

 思い出話しをしている感覚に、ぼくはずっとロランとこの場所を親しんでいた空想を見る。そんなこと、あるはずないのに。ぼくだけだ、きっとぼくの思い込みだ。言い聞かせればそうするほど、瞼に季節外れの雪が降って、その冷たさをもってぼくを焼き尽くそうとした。

 「それなら、コーヒーにするよ」

 顔をうつむかせたままにしてしまう。こんなにも不安でいて、砂浜の白い砂つぶを靴底から流し落とすときの一粒の水晶が光る嬉しさをぼくはまだ受け入れ方がわからない。

 「ミロシュ、どうしたんだい。嫌でなければ、話してごらん」

 手荒い追い風が背中をぶつ。変わらずバラードは長調なのに、そのオブリガードの短すぎた一生が拳を上げた。

 「嬉しいんだ、きっと。嬉しくて、かえってわからないんだ」

 「ふふ、ははは。それはわたしもだよ。君は友人は多い方かい?わたしはね、尾ひれをつけるようだけど、心を許せる人だなんて、いなかったんだ」

 ロランの瞳が、星が球体であるのと同じ仕草で手元からぼくの方へと自転する。その光は、この日を見つけるその瞬間まで青白く燃えていた。ロランの星と出会う天文学者の名前は、本当にぼくでいいのだろうか。

 「ハリ・カムパニーは知っているかな。わたしがそこの......世間が御曹司だと呼んでいることを」

 彼はジャボタイへ指先を伸ばすと、毒ヘビの頭を掴む時の悲しさをもってブローチを外し、ぼくの手の中に引き抜いた牙を安心させようとひそませた。ぼくはそれがトパーズであることをずっと気がついている。

 「鉱山の会社だよね。トパーズと水晶が有名な。そこが君の家なの?」

 「そうさ」

 「これはそのトパーズだね。図鑑と博物館で見るよ。ぼくはいつも1人で行く。想像しても嫌でないならば、君の言いたいことはわかった」

 手の中の牙にはまだ毒がある。ぼくはロランの胸元に佇む万年筆を、残る毒を生きたまま引き抜いてみせた。小さな彼らの悲鳴。

 「そんな青、どうだっていい。誰だって心のうちに悲しみをひそめている。けど、今の君は、ロランじゃないと思う」

 瞼に降り積もった雪が春にかけて行く。ぼくはとうとう泣いていた。

 「ミロシュ、ごめん......わたしは、こんなつもりじゃ、なかったんだ。わからないまま、わたしは......わからないんだ、わたしも。嬉しくて、それなのに不安なんだ」

 「ぼくもだよ。でもこれだけはわかる。君にも、ぼくにも、大人しくしているのに毒針を刺す人々はいるんだ。このトパーズが、万年筆がその一部だ」

 八分休符。そして35連符がつまずくことを知らないまま生涯を終える。

 「ぼくはいつか、そんなものを、どうしようもない理不尽を解毒したい。そんな絵を、描きたいんだ」

 「わたしは......悲しいことばかりの中にある小さな美しさや幸いを、世界中を旅して見つけたい。そして、それを言葉で伝えたい」

 涙が落ちるテンポが、かすかに痛みを忘れて、優しいフェルマータを手招きした。どうしてだかそれに、ぼく達は笑顔を、犬も首をかしげるような微笑みを手渡す。

 「コーヒーにしよう。ぼくはホットで」

 ロランがロザリィさんを呼ぶ。少し赤い彼の鼻先はもう、ぼくに許しを請うことはない。曲と曲の変わり目、ぼく達はお互いの顔に小さく手を叩いて笑うと、ワルツに揺れる心地になった。


 ぼく達がお互いのハンカチの模様を目尻に装飾する間も、あの水路では水面を揺らす小魚達がいる。部屋に真っ先に飛び込んできたテリア犬の影に、それらは散り散りになった。あわてて彼女はおなかを見せる、けれどももう、魚の群は消えて、代わりにぼく達が笑う。

 「コーヒーのホットをふたつお願いします」 

 「あら、ロラン君、紅茶は美味しくないって教えたのかしら」

 「まさか」

 ロザリィさんが薄桃色の花を咲かせたサボテンをテーブルの真ん中に乗せた。要塞の誰一人受け付けないかたさを語り出すそれには、空から降り注ぐ数ある光の中に消えていってしまいそうな花で、むかし話のことだと親しさを見せる。

 「ギムノカリキウムのうちの一種よ。サボテンは地味かもしれないけれど、素晴らしい生き方をするの」

 「ぼく、サハロというサボテンを知っています。高さが20mにもなって、その2倍もある根を持っていると。『巨人』という意味だったような......」

 赤みを持った月光の色のネイルがその光をはじかせた。やさしい拍手にギムノカリキウムはたのしく踊りだす。

 「よく知っているのねミロシュ君。本当にその通りよ。なんだか嬉しい」

 「ミロシュは色々と博識みたいです。石にも詳しかったですよ」

 知っているだけで、サボテンやトパーズにはなれないことを、彼らの幸いや不幸を知らないままおわることが、ぼくはいつも悲しかった。けれども門出の祝福の響きで喜ばれると、少しだけ父の形見が息を吹き返した気持ちになる。風邪が治った心地だった。

 「それじゃ、コーヒーのホットふたつね。少々お待ちを」

 ペモちゃんが狂ってしまった時計になって、数分早く回りながら走って行く。ロザリィさんは、ウインクができる人だった。


 白く、日差しに溶けていく星の輪郭をした水滴がぼく達の間をお辞儀をしながら宙へと上っている。空色のソーサーには、極東の国の花がうつむきがちに咲いていた。きっとだけれど、これは春の花。春の雨と共に花びらをはがしていく、薄くなってしまった命の花。

 「いただきます」

 丸いカップに痩せたハンドルは、富と輝きを行進曲に乗せる。管楽器を奏でる人の唇を添えるさじ加減でぼくはコーヒーを一口通した。あたたかなその呼吸はよく鳴る低音となって、高々と歌うぼくの胸元を支えた。

 「本当だ。オレンジの香りがしたよ。不思議だね、清々しいのに、手品の仕組みみたいに一瞬の魔法だ」 

 「気に入ってもらえてよかった。やわらかな風味だから、私も好きなんだ」

 コケに溢れた水槽のメダカがその隙間から顔を覗かせた時の嬉しさに思わず微笑む。ぼくはロランの夢の続きが聞きたくて、けれどもメダカは自分の卵をつついてしまうものだから、カップに添えられたビスケットに指先を伸ばした。

 「そうだ、ラジオの話しの続き。君は暗闇屋商店さんの回を聞いて、働いているって」

 上手に包装を破けなくて、そんなぼくの手先にコーヒーの湯気はお辞儀をすることを忘れてしまう。

 「うん。旧市街にあるんだ。働くといっても、オーダーは滅多にないから、自分でぼくにとっての暗闇を......安寧を見つけるために、ぼうっと思い込むことばかりだよ」

 「暗闇をオーダーするのかい?一体どんな品物なのだろう」

 それがね。一口、いつかの日に枝先に佇んでいたオレンジの香りを胸に添えた。あたたかい。

 「本当はこんな商売をしなくても、誰も彼もが持っているんだって」

 みんな忘れてしまっているだけで。それがモリオンさんの言葉だった。暗くともあたたかな安寧。ぼくとロランの心とされる、泉の淵に腰をかけて、銅貨を水底へと投げ入れる時の沈んだ場所にも、それはあるのだろうか。

 「もし、胸の中に心があるのならば、わたしはそういうことを安寧と考えたい。心はとても不安定だけど、少なからず脳のうちのひとつの機能と片付けられてしまうより、その方が安心できる。そういうことなのかな」

 包装紙の中でビスケットの破片がうまれることがわかる。

 「ああ、君ったら。貸して、わたしが開けてあげる」

 コットン紙の白地に手を伸ばす。けれどもそれは絵筆がひとりで絶滅を呼ぶ彗星を演じるものではなかった。ぼくの手は今、上手に投げられて弧を描くやわらかなボールになって、ロランへと手渡す。

 「心のあるところか......ロランは胸のうちにあってほしいんだね。ぼくも似ている答えを見つけたり、道草をしたりだよ。寄り道をすると、意外な場所にそれはあるんだ」

 彼がハサミを使ってもいいか、人差し指と中指を動かす。頷けば、籠の中から何にでも似合う色に染められてしまった革のカバンを持ち上げて、そっとなでると、金の金具を開けた。

 「意外って、どんな」

 ハサミは飾り気のない物だった。小さく切れ込みを入れることだけをその命とするそれは、ロランの手に馴染みきれていない。大人用だと思った。ロランの視線は、瞳孔をガラス片で引っ掻いた風に、痛みに耐えている。ぼくは何か言葉にしたくて、それなのにそれがあんまり子供っぽいから、やはり痛くて我慢した。

 「開いたよ、お食べ。ねえ、どんな場所にあるの?」

 泣いてはいけない、そう思った。せめて子供であることに意地を張る。気がついたみたいに、ロランがぼくに手渡すふりをした。このくらい、平気。そう茶目になって、今度こそビスケットはぼくの手の中に落ち着く。ぼくも平気な風にした。そうあり続ける限り、ぼく達はいつまでだって、子供なのかもしれない。子猫が尾を追いかけることを書いた曲が回りだす。少しだけ砕けたそれを口にすると、ぼくはどうしてだか、笑う。

 「海だと思った。ぼくにとってその音や呼吸は、眠りなんだ。それってきっと、安寧だと思って」

 「海と、眠り......ぼくの家は海から離れているから、あまり行かなかったな。でも、川の流れはいつか海へと辿り着く。それは、眠りかもしれない」

 海のそこから、太陽の光は見えない。その乱反射する光だけが逃げていく。魚が横切り、ぼく達の繋がれた手と手はほどけてしまった。息苦しくて、生きたくて波を蹴る。そんな、打ち上げられた先に君がいない、白昼夢。

 「待ってミロシュ。眠りはいつか覚めてしまう。海はもっと違う、言葉に表せないけれど、途方もないものに感じてきたよ」

 「そうかもしれない」

 ならばぼくは、海に何を見たのだろう。

 遊び疲れた子猫はやがて眠り、ソナタ第一番が子守唄を口ずさんでいった。


 秒針の音がする。太陽の光を歯車とする腕時計が途端に重力を持ち始めて、ぼくは水の中を蹴る魚のヒレが病気を告白する動きをもってそれを見た。透明な水の、透明なグラスに指を添えていたロランも、クォーツに閉じ込められた時刻を見つめて、小さく口笛を吹いた。

 「そろそろお会計にしようか、ミロシュ。ペモちゃんにお別れを告げる時間も考えてね」

 「そうしよう。銅貨はあったかな......よかった、ちょうど4枚だよ」

 呼吸の拍の取り方でだけで、ロランが少し笑う。再び革のカバンを手に取ると、やはりそれは何にでも似合うみたいで、彼の青白い手に血を通わせた。並ぶ調子で立ち上がる。つと部屋を振り返れば、ぼく達はアンティークゴールドの中で生かされていたことを、古く長い時間の一辺になってしまったことを、また緑青の底に見た。それからぼくは、後ろを見つめることをやめて、外は暗くなっただろうかと、ロランの夕暮れに沈む光の色をした背中に、目を細める。黒い爪が、情けをかけることを知らない無邪気な心地で床を蹴り、飛んできた。ペモちゃん、ペモちゃん。ふたりでため息がかじかむ手をあたためる優しい気持ちになる。

 「帰るのかしら?ふたりで銅貨4枚でいいわよ」

 「悪いですよ、ぼく、丁度4枚あります。いいのですか?」

 「ミロシュ、ロザリィさんのお言葉に今回は甘えてもいいと思うな」

 レースの重なった手首が、ぼくの手の中にある4枚の銅貨をハチドリが花の蜜をついばむ正しさで2枚だけつまんだ。指輪の金とぶつかって、2枚の銅貨が笑いだす。

 「ありがとうミロシュ君。あなた達は優しくあろうとしていて、素敵だと思う」

 プレゼントのリボンをほどく時の少しだけ厳かな手つきで、ロランも2枚の銅貨を差し出した。その瞳は鈍く光る銅貨の行方を、辿り着く先を迷路の絵本の中へと置いてきたとっておきの秘密を抱えた時の輝きに満ちている。

 「ごちそうさまでした」

 合図のように、ロザリィさんはペモちゃんの足を痛めないように抱き上げた。初夏を先取りしたロランの緑色が細められると、その視線はゲートへと流れを変える。秒針は明日の光を探して、その日がやってくることを無責任に約束した。手を降れば、テリアの混ざった犬は泣きそうになる。開かれた扉の先、空はまたぼくにこの星が球体であることを告げた。


 繋いだ指の隙間を、夕日がこぼれて、その色に染めていく。水を境に屈折するオールは、すれ違う船のそれとやはり握手した。ぼく達はただ手を繋いで、忘れたくない今日を反芻する。ぼくは帰りたくないわけではなかったけれど、橋の上を行き交う人々の足取りに、もう少しだけここにいたい気持ちだった。誰にも差し出したくないこの時を、今きっと同じみたいに遠くから聞こえる波の音を口ずさむ母の手元が見えて、ああ、と思う。お母さんに話したら、きっと喜ぶ。そう思い浮かぶと、帰りたいと、もう少し、が水面を揺らした。『まっしろの橋』をくぐる為に、船頭がかがむと、水に沈む太陽の光をここだけに集めたみたいに、橋の下は輝く。

 「ロラン、見て、きらきらしてる。お祝いみたいに」

 見上げる彼の目は、また幽霊みたいに触れられない光で遠くを見つめていた。ぼくはロランが本当に遠くまで行こうとしているみたいで、けれどもそれは心ばかりであることに気がついてしまったから、うちにおいでよ、と言えなかった。

 「ロラン......」

 「大丈夫。もう、慣れているはずなんだ。ただ、今日は本当に楽しかったから......」

 船頭が立ち上がると、夕日はいよいよ最後のお別れのシーンを語りだす。その眩しさに、涙がにじむと、川沿いのフェンスに身を乗り出した男の子が、追いかけるみたいに大きく手を振る。さようなら。さようなら。少しだけ大きく、整列する船の中にゴンドラが停まると、ぼくは港を思い出して、あのはじまりを予感させる漁船の白に願った。どうか、ぼくの友達に安らぎを。

 「ミロシュ、ターミナルで別れるまで、こうして行きたいんだ。いいかな」

 そんな場所なんて、ないような心地だった。ぼく達は手を取り合ってどこまでも行ける。それなのに、ぼくを待つ母と妹の声音がもう片方の手を引いた。誰一人悪意のない影を、夜へと伸ばしていく。だからこんなにも、心がどこにあるのか、わからない気持ちになるのかもしれない。

 「いいよ。ぼく達、一緒に行こう」

 そこまで気がついて、ぼくは今日、大切に隠していた1枚をロランに差し出したことを思い出す。はがした後には、何も残らない。そのひとつの空白を、ぼく達はこれから探していく。

 「ロラン、明日がくるね、ぼく達、また会えるんだよ」

 「ありがとう」

 石畳に黒いインクが、言葉が広がる。ロランは泣いていた。

 春の空に月が目を覚ますと、月光はまだぼく達から遠いところにいた。

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銀色遠国からの声 晶沢 志生 @temborock

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