肆 白玉 その二
翌朝、浅い眠りから目覚めた私は、パジャマ姿でダイニングに入りました。
キッチンでは、母が朝ごはんの支度をしていました。
「おはよう」
私の声に振り向いた母は、怪訝な表情を浮かべます。
――またなの。いい加減にしてよ。
私は、かなりうんざりして、ダイニングテーブルに座りました。
しかし、その朝の母の様子は、昨日までと全く違っていました。
「ちょっと、あんた誰よ。人の家に勝手に上がり込んで。警察呼ぶわよ」
「お母さん。何言ってるのよ。ミユキよ。あなたの娘のミユキ。いい加減にしてよ」
すぐにまた思い出すだろうと思って、私は投げやりに母に返しました。
しかし、その朝の母の反応は、前日までと全く違っていたのです。
「ミユキって誰よ。うちに娘なんていないわ。あんたこそ、いい加減にしなさいよ。本当に警察呼ぶわよ」
母のその剣幕に、私はたじろいでしまいました。
すると母の声を聞きつけた父と弟のダイスケが、ダイニングに出てきました。
「君は一体誰だ。どうしてパジャマ姿で、他人の家に上がり込んでるんだ」
父は今まで見たことのないような怖い顔で、私を怒鳴りつけました。
「お父さん、お母さん。ミユキよ。分からないの?あなたたちの娘でしょ。ダイスケ、あんたも何か言ってよ。お姉ちゃんでしょ」
私は必死で訴えましたが、両親も弟も、私のことを全く覚えていないのでした。
それどころか、パジャマ姿の私を、外に放り出そうとします。
そのまま放り出されてはまずいと思った私は、父と弟を押しのけて自分の部屋に戻ると、急いで制服に着替え、あるだけの小遣いと、ありったけの服を詰め込んだカバンを持って、家を飛び出したのです。
何故そんな衝動的なことをしてしまったのか、今でも分かりません。
あのままパジャマ姿で外に飛び出して、警察に保護された方がよかったのかも知れないと、時々思うことがあります。
家を飛び出した私は、とにかく学校に行きました。
そしてクラスの自分の席に座ったのです。
ところが、そこでも異変は続いていたのです。
既に登校していた同級生たちが、私を怪訝な目で見て、ひそひそと囁き合っていたのです。
――もしかして、学校の皆も私のこと、忘れちゃったの?
私は益々不安になりました。
その時、親友のチカが登校してきました。
私は一縷の望みを託して、チカに話し掛けました。
「おはよう、チカ」
しかし返ってきたのは、絶望的な応えでした。
「あなた誰?」
「ミユキよ、ミユキ。冗談は止めてよ」
私は必死で言い募りましたが、チカは益々怪訝な顔をしました。
「ミユキって誰?転校生?」
私は、それ以上チカに何も言えませんでした。
すごすごと席に戻る私を、チカはずっと不審な目で見ていました。
そして授業が始まりました。
それは次の絶望の始まりだったのです。
ホームルームで教室に入ってきた担任は、私を見て、皆と同じように不審な顔をしました。
そして私の席まで来ると、「君は誰だ」と、私を問い詰めたのです。
――ああ、やっぱり。
私はそう思いつつ、最後の抵抗を試みました。
「キノシタミユキです。このクラスのキノシタです」
しかし担任の反応は予想通りでした。
「キノシタ?そんな生徒はこのクラスにはおらんぞ。この学校の制服を着ているところを見ると転校生か?しかし、今日転校生が来るという話は聞いていないから、クラスを間違えたんじゃないのか?」
もはや言葉を失ってしまった私に、担任は冷たく宣告しました。
「とにかく、関係ない生徒は、教室から出て行きなさい」
結局私は、学校でも受け入れられず、行く所がなくなってしまいました。
しかしその時思いついたのです。
区役所に行って、戸籍を調べればいいと。
早速私は区役所に行って、戸籍謄本を発行してもらう手続きをしました。
それを見せれば、両親も私の存在を認めてくれると思ったからです。
手続きは大変でした。
何故か区役所の人が、私のことをすぐに忘れてしまうのです。
何度か順番を飛ばされ、繰り返し窓口の人に頼んで発行してもらった謄本を見て、私は次の絶望を味わうことになりました。
戸籍に私の名前が載っていなかったのです。
――どうして、こんなことになってしまったんだろう?
泣きそうになった私は、一つのことに思い至りました。
あの白い玉です。
私は思いました。
あの玉は、失くてしまったのではなく、いつの間にか私の体の中に入り込んでしまったのではないかと。
そしてあの玉は、私の中で、世の中にある私の記憶を、全て食べてしまっているのではないかと。
それからの私は、とにかく生きるのに必死でした。
働くことは出来ませんでした。
何しろ私と会った人は、あっという間に私のことを忘れてしまうからです。
ただそのことは、生きていく上で、便利でもありました。
盗みを行っても、すぐに忘れてもらえるからです。
あれから十年、私はあちこちで必要なものを盗みながら生きています。
食べる物は、主にコンビニですね。
食堂は駄目です。
入ってもすぐに忘れられるので。
寝る場所はネットカフェやラブホテルです。
勝手に入り込んでも、すぐに忘れてもらえるので。
ところで皆さん、不思議に思われませんか?
私の話が事実だったら、今頃皆さんは、私のことも、私が話したことも、忘れている筈ですよね。
実はこの会に招いてもらった時に、親切な執事さんが、私の体から、あの白い玉を取り出してくれたんです。
だから皆さんは、私の話を最後まで忘れずに聴くことが出来たんですよ。
と言うことは、私の家族が、私のことを思い出しているかも知れません。
私の戸籍も、元に戻っているかも知れません。
なので私は今、家に帰ろうか迷っているところなんです。
なにしろ十年経っていますから、ちょっと怖いですよね。
私は自分が経験した不思議なことから、一つだけ学んだんことがあります。
人間同士の関係なんて、記憶に左右されるんだということを。
これで私の話は終わりですが、面白かったですか?
了
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