壱 紅玉 その三
夏季休暇も半ばを過ぎた頃、私の研究室では問題が発生しました。
研究室で保管していた純メタノールの量が、例年に比べて、かなり減っていることが発覚したのです。
実験に使用する有機溶媒は、可燃性で危険物として取り扱われますので、その数量は厳密に管理されていました。
ただ純メタノールは、フラスコなどの実験器具の最終洗浄に使用されるため、一斗缶単位で購入されていましたので、管理がやや緩かったのは事実です。
しかしその時の使用量が、例年よりも遥かに多いことに、購買担当の助手の先生が気づいたのでした。
もちろん過去にも、学生が必要以上に使い過ぎるということはあったのですが、その時の減り具合は異常でした。
純メタノールは、可燃性であると同時に、人体にも有害なものです。
その結果、事態を重く見た研究室の教授が、全員を集めて事情を聞くという状況にまで、なってしまったのでした。
しかし集まった学生からは、身に覚えがないという回答が返ってきました。
もちろん私も含めてです。
その状況に激怒した教授は、今後すべての有機溶媒を、助教授(現在の准教授)と助手の先生方の管理下に置いて、学生の使用量を管理することを決定しました。
それを聞いて、研究室の皆は仕方がないと諦めましたが、雰囲気が暗くなったのは否めませんでした。
そしてその頃、大学の周辺でも異常事態が進行していました。
火事が頻発していたのです。
火事の規模は、いずれも
警察では連続放火事件として、地域の警戒に当たっていたようですが、今のように防犯カメラも設置されていない時代でしたので、犯人はなかなか捕まらなかったのです。
そんなある日のことでした。
私が夜、実験を終えて帰宅する途中で、小火騒ぎが起こったのです。
場所は大学近くの団地の自転車置き場で、私が通りかかった時には、まだ屋根が燃えている最中でした。
現場の周辺は、消火に当たっている人や野次馬で、ごった返していました。
その野次馬の中に、ヤマノさんがいたのです。
彼女の顔に浮かんでいたのは、学生実習で火を見た時の表情、そのままでした。
私が彼女に声を掛けようとすると、気づいた彼女は、そそくさと立ち去っていきました。
その不審な挙動が、私の中に疑念を呼び起こしました。
――まさか彼女が放火したのか?
私はその考えを、急いで打ち消そうとしましたが、疑念はなかなか消えません。
――もしかして、研究室のメタノールを持ち出したのも、彼女なのか?
私の中で、疑念はどんどん膨らんでいきました。
翌日、研究室にいくと、ヤマノさんはいつもと変わらない様子で、その日の実験を始めていました。
私は彼女に、「おはよう」と声を掛けた後、思い切って前日の夜のことを訊くことにしました。
「ヤマノさん。昨日、近くの団地で小火があったの知ってる」
「はい、知ってますよ。ちょうど夜ご飯を食べた帰りに、前を通りかかったんですよ。まだ火が燃えている時でした」
「僕も丁度その時現場を通り掛かってね。ヤマノさんを見かけて声を掛けようとしたんだよ」
「そうなんですか?全然気づきませんでした。私、途中から怖くなってマンションに帰ったんですけど、あの後どうなったんですか?」
「ああ、近所の人が消火してたから、消防車が来た時には鎮火してたよ。大事にはならなかったみたい」
「よかったです。でも、最近怖いですよね」
彼女の様子があまりにも、あっけらかんとしていたので、私は返って疑念を深めました。
そして、ある決心をしたのです。
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