壱 紅玉 その二

その後は暫く平穏な日々が続きました。

博士課程後期になると、授業はなく、ひたすら実験と文献読みの毎日です。


そんな中で4年生の6人も、各々の卒論テーマが決まり、院生の先輩の下で実験を開始しました。

私の下には、ヤマノさんが付くことになりました。


まずは彼女が行う実験のプロトコールや進め方について話し合い、毎週末に進捗状況を確認して、問題があれば、その時に検討してくことになりました。


ヤマノさんは、実験には非常にまじめに取り組んでいて、きちんと成果も出していたのですが、ただ、実験中に時々ぼうっとしていることが多くみられたのです。

特に火で加熱して化合物を生成する実験を行っている時に、その傾向が多かったのです。


ご存じかも知れませんが、有機溶媒というのは可燃物で、不注意で引火すると爆発の危険性があります。

ですので、加熱している際には、細心の注意が必要なのです。


ヤマノさんの状況を危なっかしく思った私は、再三にわたって彼女に注意しました。

すると彼女は素直に非を認めて謝るので、私としてはそれ以上のことはせず、教員の先生方にも報告せずに済ませていたのです。


そんなある日、3年生の実習が行われていた時でした。

私の大学では、当時2年の後期から3年に掛けてが専門課程で、4年になると学生たちが研究室に配属され、卒業研究に取り組むというカリキュラムになっていました。


そして専門課程の1年半の間に、各研究室が持ち回りで、1、2週間程度の学生実習を行うことになっていたのです。

私が所属していた研究室の担当は夏季休暇の直前、今程ではないですが、そろそろ真夏の日差しが厳しくなる季節でした。


毎年学生たちには、各人に簡単な化合物の合成実験を行わせていましたが、なにしろ人数が80人以上いましたので、結構管理が大変だったのです。

特に私の研究室では可燃性の有機溶媒を使用しますので、実習期間には院生と4年生が総動員されて、先生方のサポートに当たっていたのです。


例年のことでしたが、実習を受ける学生の中には、必ずと言っていい程、誤って火を出す者がいました。

その年も、1人の男子学生がフラスコの中の溶媒を加熱し過ぎて、発火させたのです。


その学生の周辺で実習を受けていた数人は騒然としましたが、助手(現在の助教)の先生や、私たちにとっては見慣れた光景です。

フラスコの口から、青白い火が結構な高さまで上がりましたが、先生と院生の連携で、すぐに消し止められました。


ただその時、立ち上った炎を、恍惚とした表情で見つめる山野さんの姿が、私の目に飛び込んできたのです。

それは、その場の状況にまったくそぐわない、とても異様な表情でした。


火が収まって騒ぎが終息すると、彼女もすぐ元に戻って実習室の見回りを始めましたが、私はその日の実習時間中、彼女から目が離せませんでした。

結局、学生による事故はその1件だけで、その年の実習は無事終了し、学校は夏季休暇期間に入りました。


夏季休暇といっても、研究室に所属する学生にとっては休みではなく、研究室で自分のテーマの実験を行う日々が続きます。

お盆前後は帰省する学生もいましたが、基本は日曜日以外、毎日研究室に通う毎日でした。


そしてその頃から、ヤマノさんの様子が、急激に変わっていったのです。

間近で見ていた私には、彼女が変わっていく様子が手に取るように分かりました。


以前にも増して、実験中にぼうっと火を眺めていることが多くなったのですが、何よりも私が気になったのは、その時のヤマノさんの表情でした。

それは学生実習で事故があった時に、じっと立ち上る火を見ていた時と、同じ表情だったのです。


何度か注意しても、彼女の態度は一向に改まらず、以前のように謝ることもしません。

私の言葉を、ただ聞き流している風だったのです。


そんなある日、私が図書館から実験室に戻ると、大変なことが起きていました。

ヤマノさんが実験台に置かれたフラスコから、火が吹いていたのです。


慌てた私がすぐに火を消し止めたので、大事には至りませんでしたが、周囲の有機溶媒に引火していたら、大変なことになるところでした。

さすがに事態を重く見た私は、ヤマノさんを厳しく叱りました。


しかし彼女からは、予想外の反応が返ってきたのです。

「余計なことしないでよ。せっかく綺麗な花が咲いたのに」


私に罵声を浴びせたヤマノさんは、そのまま実験室を飛び出して行きました。

後に残された私は、呆然とするしかありませんでした。


彼女に逆切れされたのも驚きだったのですが、それよりも驚いたのは、彼女の右眼でした。

一瞬ですが、眼球が真っ赤になったように見えたからです。


結局ヤマノさんは、暫く経った後実験室に戻ってきて、私に対して涙ながらに詫びを入れたので、その日はそれで収まりました。

しかし事態は、どんどんと悪化していたのです。

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