壱 紅玉 その一
私ですか。
名はハシモトシュウジと申します。
数年前に会社を定年退職し、悠々自適とまではいきませんが、のんびりとした老後の生活を始めたばかりです。
そんな折に、この
さて、前置きが長くなりました。
これからお話しするのは、今から三十年以上も前。
年号が昭和から平成に変わる直前の出来事です。
当時私は、薬学部の大学院に通っておりました。
博士課程後期の1年目に進級したての頃でした。
私の所属していたのは、薬学部の中でも有機化学系の研究室でしたので、実験室の中には有機溶媒の匂いが溢れていました。
苦手な人も多いのですが、私はむしろその匂いが好きだったので、結構快適な学生生活を送っていたのです。
同じ研究室に4月から配属された、4年生6人の中に、ヤマノミドリという女学生がいました。
明るくて、とても元気のいい娘でした。
欠点があるとすれば、酒好きなところでしたね。
クラスのコンパでも、飲み過ぎて羽目を外すことが、ちょくちょくあったそうです。
ただそのことが、彼女にとって後の悲劇を招く結果になったことは、今でも
本当に残念なことになってしまいました。
ことの発端は、研究室の学生が集まった飲み会でした。
当時研究室には院生と4年生を合わせて、20名近くの学生が所属していたので、飲み会も結構賑やかなものでした。
ヤマノさんは、偶々私の向かいの席に座ったのですが、その豪快な飲みっぷりと、明るい笑い声に、私は完全に圧倒されてしまったのです。
――この娘、大丈夫かな。
「ヤマノさん。ちょっとペース早すぎるんじゃないの?」
かなりのハイペースでお酒を飲む彼女に、私は苦笑を交えて注意しましたが、あっさりと笑い飛ばされてしまいました。
「ハシモト先輩。これくらい大丈夫ですって。それより、先輩も飲んで下さいよ」
そんなヤマノさんを、同級生たちは笑いながら見ていました。
いつものことだったのでしょう。
「ハシモトさん、これ見て下さいよ」
その時修士1年の男子学生が、僕たちの席に割り込んできました。
彼が手に持っていたのは、紅い玉でした。
大きさは丁度ビー玉くらいで、つやつやとした光沢のある綺麗な玉でした。
多分、酒席の座興にと、軽い気持ちで持ち込んだのだと思います。
周囲にいた学生たちの注目が、その玉に集まります。
「それ何なの?」
私が尋ねると、彼は自慢げに話し始めました。
「この間、東北の方に旅行に行ったんですよ。気儘な1人旅というやつでね。その時、三陸海岸沿いの町で、偶々入った地元の居酒屋さんで、隣に座った人からもらったんですよ」
いつの間にか、酒席にいた全員が、彼の話に注目していました。
「その人、地元の役所に勤めている方らしいんですけどね。僕にこの玉を見せて言ったんですよ。『これをお持ちなさい。必ず主の元に辿り着くから』って。妖し過ぎません?」
そう言って彼は笑いました。
「その人も、その土地を訪れた旅行者から、同じことを言われて譲り受けたそうなんですけど、何か嘘っぽいですよね。今思えば、
彼の言葉に、何人かが同意して頷きました。
「で、結局押し付けられて、持って帰ってきたのが、この玉なんですよね。綺麗は綺麗なんですけど、ちょっと気味悪いっていうか。こんなのって、どうしたらいいんですかね」
彼はその紅い玉をテーブルに置いて、皆の顔を見回しました。
その場にいた学生たちは、お寺に持っていった方がよいとか、神社でお祓いをしてもらった方がよいとか、挙句の果てには捨ててしまえというような暴論まで出て、ワイワイと盛り上がりました。
その中で、ヤマノさんだけが不審な行動を取っていました。
その玉を手に取って、しげしげと眺めていたのです。
普段なら真っ先に騒ぎに参加しそうなヤマノさんが、黙って玉を見ているのを不審に思った私は、それとなく彼女のその様子を見ていました。
すると彼女は、男子学生に向かって言ったのです。
「先輩。この玉、要らないんだったら、私がもらってもいいですか?」
それを聞いて院生の子はちょっと、面食らったようです。
「いいけど。こんなのもらって、どうするの?」
「えへへ。何となく気に入っちゃって。駄目ですか?」
ヤマノさんの口調がやや強引だったので、男子学生は嫌とも言えず、結局玉を彼女に譲ることになりました。
「ミナミがその玉の主だったりして」
それを見ていたヤマノさんの同級生の娘が、
皆が普段と違う、彼女のその態度を不審に思ったのですが、誰かが別の話題を振ったので、皆の関心はそちらに移って行きました。
そしてその日の飲み会は、何事もなく解散になったのです。
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