多層都市
色街アゲハ
多層都市
今や遠い古の時代より始まり、今日に至る迄続いて来た街の建造により、幾重にも折り重なった石組の構築物は、最早世界其の物と言っても過言ではない程に巨大な物として、深い深い大峡谷の様に地を覆い尽し、その底から見上げる空を、鋏で細切れにした様に散り散りの形に切り抜いていた。
僅かに残った空間も様々な角度に伸びる橋や通路が遮って、陽の光も届かなくなった最下層では、何らかの形で上の世界を追われた者達が当ても無く彷徨い、それも生きる術とて無い此の場に遭って、次第に其の数を減らし、ほぼ無人と言って良い程に命の気配を感じさせない虚ろな空間と化す。
遥か上層の世界で営まれている人々の喧騒も此処迄届かず、滴る水滴の音が反響して、路地の隅々まで沁み透って行く。その音が長い間に溜まりに溜まって何時しか層を為し、新たな水滴が辺りの空気を震わせると、一斉に共鳴し、音も無く荒涼とした此の世界に、この時だけは賑わしい反響を轟かすのだった。
再び元の静寂を取り戻す迄の僅かな間、嘗ての賑わいを甦らせ、通りを行き交う人々の姿が、至る所で広がって行く無数の波紋の中に揺らめきながら現れる。
其れも束の間、やがて波紋の薄れ行くのに合わせる様に、彼等の姿も又、暗い路地裏の中に溶け込む様に薄れ、消えて行く。
その間、いや、或いは消え行くその最後の瞬間に至る迄、彼等は自分達がほんの僅かな間だけの仮初の存在である事に終に気付く事は無いだろう。
疾うに過ぎ去って久しい在りし日の情景の中で、彼等は自分達がその瞬間だけの切り取られた刹那の存在である事など思いも寄りもしないで。その胸の内に様々な想いを抱き、今この瞬間がこの先も続いて行くであろう事を信じて疑わず、各々の明日へ向けて歩み続ける。その明日は、遥か昔に既に結果の出てしまった、遠い空、切れ切れの空間の隙間よりほんの僅かに顔を覗かせる青い空の中に吸い込まれて行った後だと云うのに。
空の中に嘗ての自分達の姿が人知れず映し出されているのを、それと気付かず眺め、彼等は何を思うのだろうか。
既に街の敷石に沁み込み、人としての姿形を失って久しい彼等に、思う事など最早無いのかも知れない。
それでも、今や顧みられる事の無い最下層の廃虚から、ほんの一瞬、偶然の重なった末に訪れた、過去の情景に佇む者の誰か一人でも、何らかの気紛れでふと空を見上げ、其処に時や空間を超えた永遠に続く何かを垣間見たのだとしたら、それは空の中に既に歩き終えた自身の姿を、其れと気付かないながらも感じ取ったからなのかも知れない。
では、そう云う事なのだろうか。自分も含め、人が空を見上げた時に覚える、あの何処か遠い処へと連れ去られる様な感覚は。既に終えてしまった事柄の名残を其処に見い出してしまったが故の、諦念にも似た澄み切った感情なのかも知れない。
今と云う時を生きていると思い込んでいるこの現況が、実は疾うに過ぎ去った出来事に過ぎず、何らかの偶然の重なったが故にほんの一瞬、再現された現象に過ぎない。そうでなくとも、所謂現実などと云う物は、見られた瞬間、即座にそれは過ぎ去った夢となってこの世界から消えてしまう物なのだから。
ふとした折に覚える、意識の途切れた瞬間に迷い込んだ虚ろな感覚こそが真実で、自身の実在を信じ切っている今の状況こそがただの思い込みの虚構に過ぎないのかも知れないのだ。仮にもし、この身が紛れも無い現実なのだとしても、この不意に湧いて出た考えを否定する事は、少なくとも今の自分には難しい。
眠りに落ちて、深く深く沈み込んで行く感覚の後に見る夢、時として身に全く覚えの無い場所で、覚えの無い状況で、見知らぬ人々に囲まれて、そして当の自分自身が全くの別人として、その夢の中を生きている。そんな状況を幾度となく経験している身とあっては、よもしたら、夢の中で気付かない内にあの街の下層へと降りて行き、其処に染み付いた記憶の断片を、恰も自身の物の様に体験しているのだ、と云う、途方もない考えに捉われてしまう。
こうして深夜、人気の感じられない、極めて現実感の薄い中で一人物思いに耽っていると、余計に非現実と思われた物が、俄かに存在感を増して迫って来、ほんの戯れ程度に思い浮かべていた筈の街の情景を、妙に現実感を伴って、殆ど当然の如く受け入れてしまっている事に、我ながら驚かずにはいられない。
しかし、今と云う時は、過去の出来事の”上”に築かれていると云う事を思えば、この一見荒唐無稽とも思える想像も、あながち間違っている様には思えない。
今や所々掠れて朧気になってしまった過去から、ずっと歩き続けて来た足をふと止めて、見上げる先に広がる青い空。こうして眺めている裡にも、やがて新たな出来事が次々と積み上げられて行き、始めは遮る物も無く何処迄も広かった空も、見る見る裡に覆われて行き、下へ下へと追い遣られて行ったその末に、何時しか陽の光も差さない程に入り組んだ様々な構築物に埋もれ、こうして過去と云う名の最下層の廃虚から、僅かに覗く空を眺めるだけになってしまう。ほんの刹那、ぼんやりと遣り過ごしていた、ただそれだけで。
上層の区画へと至る道は失われ、ただ今はこの身の代わりにこれからの事はあの切り取られて小さくなった青い空、全ての事柄の流れ着くその空へと託すより他に術がない。数え切れない過去から未来への、様々な出来事を含んでいるにも拘らず、視界を遮られているが為に、より一層遠い物となってしまった様に感じる空の住み切った青は、僅かなりともその色を濁らせる事なく、遠い遠い、あれ程までに手の届かない所に在りながら、今にもその中に吸い込まれて行ってしまいそうな、変わらない姿で直ぐ”其処”に在ったのだ。
過去も未来も全てその内に収めたあの青い空。こうして過去からその先に積み上がった現在に至る世界を見上げている様で、実は、何時しか歩みを進めている裡に、気付かぬ裡に見上げていたのではなく、現在と云う上層から過去を見下ろしていた、と云う事も有り得るのだろう。そして、その先には変わらぬ色であり続けるあの空が。もしかしたら、自分達の内面の世界は、現実の其れと同じく、空に包まれた球体の世界で、その中で気づかぬ裡に過去と現在を絶えず行き来しているのかも知れない。過去と未来を等しく内包するあの空の下で。
終
多層都市 色街アゲハ @iromatiageha
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