第5話 未来の知恵理が行く場所

 知恵理ちえりは、しばらくすると、不安そうにしていることが多くなり、しかも、日が沈む時間が近づくと、授業中でもホームルーム中でも頭を押さえたり耳を押さえたりして何かに耐えようとしているという姿を見せるようになった。

 これは、「音」とかではなくて、激しい頭痛でもするんじゃないか。

 もしかすると、保健室に連れて行ったほうがいいかも知れない。

 そう思って、わたしは

「知恵理、最近、夕方いったいどうしたのさ?」

と聞いてみた。

 もし「夕方? 何だって?」というような答えが返ってきたら安心するのだが。

 「あの音、何回も聞こえるようになった!」

 知恵理は、そのとき、腰を曲げて下からわたしの顔をのぞき込むようにし、口を半開きにしていた。

 そんな不安そうな表情も、そんな下手に出る表情も、わたしはそのときまで見たことがなかった。

 「ほらまた!」

 言って、知恵理は耳に手を当てようとする。

 「耳押さえちゃだめだよ」

 わたしは、とっさに言った。

 しかも落ち着いて言った。

 「わたしには、いまの、聞こえなかったけどさ」

 知恵理は、すがるような表情を見せたけど、そのまままたもとの苦痛の表情へと戻って行く。

 わたしは続けた。

 「それは、やっぱり、日が沈む音だよ。わたしは、そう思う」

 「えっ」

 頼りないまま、苦痛に沈む前のところで止まったという知恵理の顔。

 宙ぶらりんの表情、と言うのだろうか。

 「だからさ」

 とっさに思いついた論理をたどって、わたしは言う。

 「地上、場所によって、日が沈む時間が違うじゃない」

 それぐらい、数学系や理系が得意な知恵理にはわかるはず。

 「うん」

 知恵理はうなずいた。でもやっぱり自信なさげだ。

 わたしは、自分が自信たっぷりでいるように装って、続けた。

 「知恵理には、さ。そのいろんな場所の日没の音が聞こえるようになったってことだよ」

 「だって」

 知恵理の顔色は、いつもより青ざめている。

 「わたし、そんなにいろんなところに行ったこと、ないんだよ。どうしてそんな……ああまた聞こえるっ!」

 「だから」

 その、知恵理に聞こえている音に負けないように、しっかりとわたしは言う。

 「これから行くんだ、って」

 わたしは知恵理を安心させようと笑って見せた。

 「未来の知恵理が行く場所から、その音は聞こえてるんだよ。だから、怖がっちゃだめ」

 「そう……?」

 それでも、知恵理は不安そうだった。


 それから知恵理は学校を休みがちになった。

 出て来ても、ぼーっとしていて、魂が抜けたようになっていた。

 あの、必要な量の何倍も早口でしゃべるところなんか、まったく見せなくなった。

 わたしが話しかけても、

「うーん? あ。志麻子しまこ

と反応するだけで、そのまままたぼーっとしてそっぽを向いてしまう。

 そして、次の年が明けるまでに、知恵理はいなくなった。

 どこかに転校した、というのが、教室での先生の説明だったけど。

 入院とか療養とか治療とか、そんなんじゃないだろうか、と、わたしは思った。


 知恵理がいなくなってしばらく、わたしは「心に穴があいたような」という気もちだった。

 楽しい思い出とは言えないけれど、でも、忘れがたい思い出を、知恵理は残して行った。

 しかし、高校二年、高校三年と進んで、わたしは知恵理のことを思い出さなくなった。

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