沈澱

 悲哀に満ちた澱み。


 悲哀以外に何も無い。


 こぽぽ……。


 仄暗い澱みの底から泡沫が生まれる。

 

 ぱちん……。


 泡沫のひとつが弾ける。


 弾けた空間に歪みが生じ、声が聞こえる。


「ようやく……」


 ぱちん……。弾ける泡沫。


 「ようやく逢えた……」


 ぱちん……。


「私のルカ……」


 俺の名前を呼ぶ……


 あの女性は……だれ?


 空間の歪みに光が漏れて映像が流れる。


 とても優しい手。


 とても温かい声。


 とても……眩しい……


 眩しくて、顔がよく見えない。


 ぱちん……。


「アルマンド……」


 父ちゃんの名前……父ちゃんを知ってるの?!


 ぱちん……。


「ヘレン様……」


 ヘレン……この人の名前?


 澱みに血が滲み、視界を赤く染め上げる。


 こぽぽ……。


 泡沫が俺の前まで来て。


 ぱちん……、弾けた。


「ルカ……」


 はっきりと、くっきりと、彼女の顔が浮かび上がる。


 母ちゃん!?


 俺の母ちゃんなのか?


 ぱちん……。


 「ルカ……」


 父ちゃん……。


 ぱちん……。


「私の自慢の息子だ……」


 父ちゃん……。行くなよ、行くなよ!! 俺を置いて、行かないでくれ!! もっと俺にいろんなことを教えてくれよ!!


 なあ、父ちゃん!


 なあ、師匠!!


 ぱちん……。


「聖剣はお前のものだ」


 ……聖剣?


 父ちゃんが死んじゃったら、聖剣なんてもう要らないよ! 父ちゃんの病気を治したくて、天帝に会いに行ったのに……。


 ぱちん……。


「聖剣はお前を守ってくれる」


 聖剣が? 俺を?


 ぱちん……。


「聖剣はお前の母の愛だ」


 え、どうゆうこと!?


 母ちゃんと聖剣が何の関係があるのさ!?


 こぽぽ……。


 泡沫の向こう側。


 父ちゃんと母ちゃんが笑っている。


 とても穏やかで


 とても優しい


 そんな笑顔。


 俺も、あんな笑顔で死にたいな……。


 ばちん!


「ルカ!」 


 痛い。


 ばちん!


「バカルカ!」


 痛いよ!


 ぱちっ!


 一気に光が目に飛び込んでくる。


 俺は……森の中で……?


「ルカ!?」


 声の主を見ると、涙でぼろぼろと、顔をくちゃくちゃにしたヴェロニカ姉さんが、俺を覗き込んでいた。


「ニカ姉さん……」

「もう! バカルカ! 助からないかと思ったじゃない!!」

「え……?」

「良かった……良かった! ルカ、生きてて良かった……うぅ……」


 がばっ、とヴェロニカ姉さんが俺を抱きしめてくれる。きつく、きつく、震える身体で、顔を擦り付けてくる。


「そう言えば、ニカ姉さん」

「うん……?」

「無事だったんだなって、思って?」

「あ、ああ。 天帝なんて、あんな俗物、あたいにメロメロなんだから、どうもしないよ?」

「なんだよ、俺、ニカ姉さんがヒドい目に合わされてるんじゃないかって心配してたんだぜ?」

「逆よ? 天帝あいつ後ろに棒突っ込んでりゃ、ヒイヒイって上機嫌なんだから、ただの変態よ?」

「ひっ!?」

「ん、なに? あんたも突っ込んで欲しいクチ?」

「え、遠慮しときます!!」

「わはははははは!」


 大人って怖い。


 ヴェロニカ姉さんの笑顔を見ると、ようやく現実に戻れた気がした。俺の身体、素っ裸なんだけど、綺麗にしてくれたんだよな。


 ベッドの横に洗ったばかりの服が二着、干している。俺とヴェロニカ姉さんの、だよな? ぼろぼろの靴。おそらくは、たくさん探してくれたのだろう。俺と父さんの森の修行場を知っている人は限られている。


 あそこから俺を背負って?


「ここは?」

「ん? マグダラの宿屋? あんた、森で溺れかけてたんだから……」

「森……!? と、父ちゃんは!?」

「……私が見つけた時にはもう……」

「……」


 父ちゃんが死んだ?

 

 死んだ。


 俺はひとりだ。


 ひとりだ。


 ひとりだ。


 俺……ひとり、なんだ。


「うっ……」


 ぽろり、目から水滴が、ひとつ落ち、続けてぽろぽろ、ふたつ、みっつと、いくつもこぼれ落ちた。


「ルー君……」


 すっ、とヴェロニカ姉さんがおもむろに立ち上がり、するるっ、とガウンが落ちた。


 履いてない。


 俺の前に立つ。


 最後、髪留めをはずして、さらり、長い髪が揺れた。


「ルー君……」


 両手を広げる姉さん。


「うん……」


 ひとつ返事をして、俺はその中に身をなげた。


 俺の背中に姉さんの細い指が伝う。肩甲骨から、背骨に、交差して、包み込む。俺の頭は、姉さんに押し当てられて、姉さんが少しづつ、俺に覆い被さり、押し倒された。


 俺の手は、自然と姉さんの腰を抱き寄せ、泣いた。


 姉さんの温もりが、俺を包み込む。


 腕を巻き付け、脚を絡ませ、胸を寄せて、唇をつけ、髪で撫でる。吐息は熱く、速い。姉さんの身体から湯気が昇り、部屋が石鹸の香りに包まれる。


「ルー君……おいで」


 俺は姉さんの優しさに包まれて……


 眠りに落ちた。


 ヴェロニカは……はぁ、とため息をついた。


「もう……この熱くなった身体、どうしてくれるのよ……バカルカ……」


 寝静まったルカの頬を指先でつつく。


「……」


 ヴェロニカは愛おしそうにルカの寝顔を見つめた。


 長いまつ毛、薄い唇、艶のある肌、サラサラの長い髪、ルカは美しい。


 ヴェロニカは、にこり、と笑ってルカの額にキスをした。


「大丈夫。あなたはアルさんに似て、とても強く、優しい子。これから多くの人に愛される……そうなるわ、きっと」


 ルカの角に触れる。


「大丈夫……」




 大丈夫。


 俺は大丈夫。ひとりでも生きて行ける。いざとなれば姉さんたちもいる。街の人たちだって、みんな優しくて、良い人ばかりだ。


 父ちゃんがいないのは淋しい。


 でも父ちゃんは、俺がひとりでも生きて行けるように育ててくれたんだ。腐っている場合じゃない。


 明日は、いつも通り。


 父ちゃんはいないけど、いつも通りの朝が来る。


 俺は生きる。


 運命がなんだ。


 帝国がなんだ。


 天帝がなんだ。


 父ちゃんは強かった。


 俺は強くなる。


 いつか父ちゃんを超えるくらい。


 俺は強くなる!

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