洗礼
忌子の間の重厚なドアが開いている。
部屋に誰もいない、と騒ぎ立て、にわかに教会が慌ただしく動き始める。
「忌子が逃げたかも知れない! 洗礼の禊まで時間がない! 急いで探し出せ!」
「おい、忌子の世話係はどうした!?」
「マリアなら、本日付けで退職いたしましたが?」
「なにぃっ!? 」
星読の塔から外に出ようとするならば、長い階段をおりなければならない。その後も人通りがある場所を何度も通らなければ、外に出ることは出来ない。
窓から抜け出そうにも、忌子の部屋には結界が張ってある。となれば、逃げたか、まだ教会に残っているか、のどちらかということになる。逃げた可能性は低い、として、修道士たちは教会中を探し回った。
禊の儀は、満月の夜、月の光で浄化されて、聖水で身体を浄める事で、穢れを浄化するというものである。
満月まであと数刻。それを逃せば次の満月まで待たなければならない。
時間はない。
コチ、コチ、コチ、コチ、時は一歩づつ、されど確実に前に進む。ただの一度も振り返ることと無い。
ノートは、そんな時の足音を聞きながら、ひたすら、ドアの木目を数えていた。
星読の塔、その最上階、忌子の間、そのドア、と、壁の隙間。そこにノートは居た。
逃げたとて、行き先がない。
ノートは教会しか知らないのだ。教会から出れば、独りでは生きていけない。せめてマリアが連れ出してくれるなら、尻尾を振ってついて行ったものを。マリアは、自分を誘ってくれなかった。
確かに、自分がマリアだったとしても、自分みたいな人間に尻尾を振ってついて来られても困る。それもそうか、と納得した。
それにしても、そろそろ脚が疲れてきた。今すぐにでも座りたい。出来ることならば、トイレも行きたい。そろそろ限界が近かった。
あれ? 人気もないし、今がチャンスじゃね?
魔が差した。
そろり、そろり、と足を出した、次の瞬間。
「……」
ドアの横に立っていた修道士と目が合った。合ってしまった。
「居ました! 忌子です!」
ひょい、とつまみ上げられて、そのまま、月読の塔へと移動を始めた。
「……アノ、オロシテクダサイ。セメテ、トイレニイカセテクダサイ、オネガイシマス、コノヤロー」
精一杯の抵抗も虚しく、ノートは強制的に、月読の塔へと、移動させられてゆく。
月読の塔は、教会の一番奥、湖に突き出した、教会で一番高い建物だ。洗礼の間はその最上階にあり、空中庭園のようになっている。
スタ、スタ、と無駄に長い階段を、一歩づつ登ってゆく修道士。額に汗が滲み始めている。そんなに重かったら、下ろせば良いのに、と思っていても、ノートは口に出さない。歩くのが嫌だから。
ノートはつまみ上げられた猫のように運ばれて、ついに月読の塔の最上階、洗礼の間に放り込まれた。
「イッソマドカラステテホシカッタヨ……モウシニタイ、コロシテクダサイ、オネガイシマス」
入ると空中庭園に出る前室があり、修道士見習いの女性が二人、ノートの服を脱がしてゆく。腰紐を解き、ボタンを外しワンピース、下着を脱がそうとした時、さすがに恥ずかしくなって、しゃがみ込む。
「ジ……ジブンデヌギマス、アッチイッテクダサイ、ソシテキエテクダサイ」
修道士見習いの女性二人は、脱がした衣服を拾い上げて、少し後ろへ下がった。当然出てゆくことはない。
ノートはパーテーションの後ろで履いてるモノを大きな籠に入れた。
ひとつだけ、身体から外せないものがある。
『忌子の首輪』
これを付けている限り、忌子は聖女になる為の制約を受ける。聖女になって初めて外されるもので、無理に外そうとすると、外した者を呪い殺すのだとか。
なんて恐ろしいものつけるんだ、なんて思ったことはない。それが、当たり前だったからだ。
「ハアアアア……ヤダナァ……」
ごそごそ、とノートは大きな籠に入って、三角座りをした。
「ワタシハパンツ、ケガレタパンツ、フジョウノモノ。セイジョニナンテ、ナレマセン。イッソノコト、コノママステテクダサイ。オネガイシマス、コノヤロー」
近くにいた女性二人は、ひょい、と籠を持ち上げて、洗礼の間・空中庭園へと放り込んだ。
そのまま二人は、恭しく頭を下げて、そこを後にした。
ガチャリ、無情にもそんな音がした。
ぽつん、とひとり。
空には大きな月が、
見渡す。ミズガル湖と、その向こうに聳えるアスガルド山脈。大聖堂の屋根、キラキラと夜の明かりが灯る、マグダラの街。
庭園に柵などの障害物はなく、パノラマで見渡せるのだ。
小さな忌子の部屋しか知らなかったノートには、目の中に飛び込んで来た世界は、あまりに大きすぎた。ぶるっ、と身震いがして、途端にその大きさに圧倒されて、怖くなる。
ひゅっ、と風が吹いて、眼の前の聖水を湛えた泉に目を遣った。ゆらゆらと、水面に揺れる月明かりが、四方八方に乱反射して、立ち昇る湯気を彩る。
ちゃぽん、と聖水の温度を確かめる。どうやら、禊の聖水が温かいと言うのは本当らしい。
ノートは、聖水の泉に、少しずつ、少しずつ、その小さな身体を沈めてゆく。
ふう、と息をついた、その時。
「良く来たな、ノート」
びくっ、と心臓が跳ねた。
「素晴らしい……天帝の側仕えにやるなど勿体ない。奴にやるまでに、このワシが存分に可愛がってやるとしようではないか、グププ……」
恐る恐る、声の主へと目を遣る。
「……ば、バケモノ!?」
そこには泉に浸かり、ダブンダブンに伸びきった皮が、水面に浮かんで
「……ジューダス・マグダラ・クライスト、私が教皇である。バケモノなどではない、不敬であるな、ノートよ? グププ……」
ザザッ、と肉塊が水面を引っ張り、迫り上がり始めた。水面に浮かんでいた贅肉は重力の支配には逆らえず、だらしなく身体の下へと垂れ下がってゆく。
おそらくは立ち上がったであろう教皇は、布切れひとつ身につけていないが、大事なところは、お腹周りから垂れ下がったスカートでシッカリと隠れている。
一度教皇の身体に持ち上げられた水面が、引き返し、波となって、ノートの足元まで及んだ。波はそのまま庭園の端まで広がり、落ちて、二度と返って来ることはなかった。つまり、庭園に逃げ場はない、と言うことだ。
「教皇さまが禊を受けて、聖女?になられるなら、私はもういいですよね!?」
「グパッ……私は教皇だ。聖女ではない。そして、禊をし、洗礼を受けるのはお前だ、ノートよ。さあ、こちらに来なさい」
「気持ち悪いのでイヤです」
「グヌププ……これは教皇の命令だ! さあ、来なさい」
「ヤダ、気持ち悪い……ゲー吐きそうだもん! トマトの方がずっと良い!」
「プ、不敬だぞ!? ……よい、時間はたっぷりあるからな?」
「もう満月だよ!?」
「グパパパパパパ! それがどうしたと言うのだ? どのみち禊も洗礼も受けさせるつもりなどないのだからな、満月などどうでも良いのだ!」
ひっ、とノートは青褪める。
「さあ、追いかけっこをしようか……逃げれるものなら逃げてみるがいい!」
ザザン、大量の聖水を押し出すように、教皇が歩き始めた。泉から溢れた聖水が、ノートに迫る。が、汚そうなので避けた。
「ぐぷぷぷぷ、観念したほうがいいぞ? すぐに楽にしてやるからな?」
「キモい」
「グヌップ、気持ちよくしてやると言っておるのだ、まあ、直に解るだろうて。グパパパパパパ!」
教皇は歩みを止めず、泉の縁から外へ踏み出し、ノートへと迫る。
ノートの顔色がどんどん青褪めてゆく。
「ク……クルナ!」
ノートは、もう我慢できないところまで来ていたのだ。
おしっこを!
かと言って、教皇の前で致したくはない。それくらいなら死んだほうがマシだと考える。
覚悟は決めた。あとは行動に移すのみなのだ。
だが、やはり怖いものは怖い。ノートは足元ががくがくと震え始めていた。
「グププ、そんなに怖がらずとも良い。言うことを聞けば優しくしてやるのだ。さあ、もう後はないぞ?」
ノートは空中庭園の端も端まで追い詰められ、塔の下には真っ黒なミズガル湖が見えた。
飛び降りたら助かるだろう? そんなことはない。湖にはヌシがいて、教会から廃棄された人はヌシの餌になるのだ。そもそも、ノートは泳いだことすらないのだ。眼の前のバケモノか、湖のバケモノか、どちらか二択を迫られていたのだ。
だが、ココで漏らすのはイヤだ!
「も……」
「も? グプゥ……?」
ノートは股間を抑えつつ、塔から湖へと、飛んだ!
「もれるううううぅぅ……」
と、叫びながら……。
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