最後に立ち去る者

 1945年8月14日。終わりと始まりの夏。

日本政府がポツダム宣言を受諾したことをラジオが告げる。

四方の壁が書物と掛図で埋められた書斎で、一人の老人が肘掛椅子に身を沈め、目を閉じ、ラジオに耳を傾けていた。

長身痩躯、銀髪、骨ばった長い指を胸の前で組んでいる。一瞬開かれた瞳は深い緑色だった。薄い唇が呟きを洩らす。

「やっと終わったか。日本の人々は、カツマとジーンは、無事だろうか……?」


 1945年12月4日、カリフォルニア州パサデナ。

トーマス・ハント・モーガンは帰らぬ人となった。享年79歳。

ケンタッキー生まれの男は若い頃からずっと頑健だったが、入院してから容態が悪化するまでは短かった。

彼の死までにモーガン・チームによって、遺伝子が染色体の一部として実在すること、メンデルの法則の有効性とその例外(雌雄一方の性に限って遺伝する形質など)が発見され、遺伝子間の乗換えやその距離、個体の性の決定が染色体に因るものであることなど、数々の事実が解明され、体系づけられた。

研究が始まった頃の顕微鏡の性能を考えれば、なおさら驚異的な業績だった。

一つ一つの発見はモーガン自身より弟子によるものの方が多かったが、この遺伝学の偉業が成し遂げられたのは、間違いなく「ボス」モーガンの熱意と求心力によるものだった。


 白眼、触覚退化、黒体色、歪翅……

ヴィクターは書斎で染色体地図を机の上に広げ、そらんじるほど見慣れた文字列を微動だにせず見つめていた。モーガンの声が耳に蘇る。

「卵はどのようにして成体になるのか?細胞は何に調節され、支配されているのか?」

「私は三種類の実験をしたーーばかげたものと、非常にばかげたものと、もっと悪いものの三つだ」

「それでもあなたは、実験することも問うことも止めなかった。ずっとあなたの背中は目の前にあったのに。ボス。モーガン博士。あなたがこの世界からいなくなることなど想像さえ……」

地図にぽつりと水滴が落ちた。



 12月中旬、ウッズホールの後輩、コステロ博士がヴィクターの家を訪れた。

「ブリッジス博士、先週の『TIME』はご覧になりましたか?」

「いや。ボス……モーガン博士の死去で色々混乱していて」

「すみません、そうですよね……。ちょっとこちらを見ていただけますか?」

週刊誌の開かれた頁に載っているのは手紙の写真だった。


 ――ここは60年以上の歴史をもつ臨海実験所である。

貴官らがもしアメリカ東部からきた部隊であるなら、ウッズホールやマウント・デザート、またはトルチュガスといった臨海実験所の名前を耳にしたことがあるだろう。西部の出身ならば、パシフィック・グローヴやピュゼット・サウンドのような臨海実験所をご存知と思う。ここもまたそのような実験所の一つである。……(中略)……われわれがこの学問の家に帰ることができるよう処置されたい。 

              最後に立ち去る者(The last one to go)より――


 「記事によると、この手紙は終戦後間もなくカナガワの海の側、ミサキ・ラボの扉に貼ってあったそうです。わが友、カツマ・ダンの筆と思えてなりません」

「『最後に立ち去る者』。……カツマは無事です。きっと、ジーンも」

「そうか……無事だったのか。海の実験所に、その手紙が。世界のどこでも海は海だと、ジーンはあの時言っていたな。良かった、本当に良かった。彼の、彼女の、勇気と意志は報われたのか」

ヴィクターは掌で目を覆う。低く深みのある声が震えていた。

「長く痛ましい戦争の後で、良いニュースだ。実にいいニュースだ。教えてくれてありがとう」

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