ハエを数える(1)
「ボス、気をつけて下さい!!そこにネズミが……」
手遅れだった。ヴィクターは続く叫びを呑み込み、黙々とネズミの死骸を片付ける。
コロンビア大学のモーガンの小さな実験室は、壁と机に所狭しと並んだハエ入りのガラス瓶と悪臭で学内外に「ハエ部屋」の悪名を轟かせていた。
ショウジョウバエは窓辺にバナナを置くだけで簡単に集められ、餌代も安く、10日前後で成体になり旺盛に繁殖する。実験動物として理想的だった。
ハエの常として餌が匂い、ネズミやゴキブリも惹きつけてしまうこと、小さくて変異体を見つけ出し観察するのに骨が折れることを除けば。
コロンビアを訪れたウッズホールの同僚アルフレッドは、長い手足を縮めて(伸ばす空間が残っていないからだが)食事を取るモーガンに呆れ、せっせとハエと上司の世話をするヴィクターに驚いた。
「お前がそんなにマメだったとは。大学の頃は他人に世話してもらうのが当たり前、みたいな顔してたのに」
「……黒歴史を掘り起こすな。どれほど厚顔無恥だったか、思い出すだけで火を噴きそうだ」
「へえ?」
「今日は娘の誕生日だから早く帰らないと。寄ってくれたのに悪いが酒は付き合えないぞ」
「あの子は学校で友達に『お父さんは何の仕事をしてるの?』と聞かれて『コロンビア大学のためにハエを数えているの』と胸を張って答えたらしい。周囲の子はどんな父親を想像したことやら」
ヴィクターは肩をすくめ、手早くゴミをまとめ、手を洗う。
「変われば変わるもんだな。今度は娘自慢か」
「井の中の蛙が大海を知っただけだ。ボスと違って凡人の僕が威張れるはずもない。あまり昔の事を蒸し返さないでくれ」
「そうは言ってもウッズホールの合同実習で、レベッカ嬢もヘンリエッタ嬢もお前ばかり見てたからさ~」
「おいアル、それは逆恨みと言わないか?理不尽過ぎるだろう。それに……全ての女学生が僕に関心があったわけじゃない」
ヴィクターは銀が混じり始めた金髪をくしゃりと掻きながらほろ苦く笑った。
禁酒法で幕を開けた狂乱の1920年代、モーガンの著書は遺伝学の金字塔となり、ショウジョウバエはメンデルのエンドウ豆と並ぶ不滅のシンボルになった。
あくまで実験発生学者を以て自認するモーガンは、当初ショウジョウバエの形質の世代間伝達を主として染色体上の遺伝子に帰し、伴性の遺伝子(連鎖)で補足するアイデアに気が乗らないようだった。実験結果による立証が少なく、仮説に基づく部分が多すぎる理論だと思ったからだろう。
しかし約18年に及ぶ弟子や学生たちとの苦闘の結果、その妥当性を認めるに至っていた。
後に袂を分かった弟子、ヘルマン・マラーでさえ、新発見の個々の事実を遺伝子の実態の解明へまとめ上げたモーガンの独創性に脱帽していた。
モーガンは彼一流のどこまで本気か分からない言い回しで、弟子夫妻の出産を祝う手紙に「忠告をちょっとさせてもらいたいのですが、お嬢さんをDrosophila(ショウジョウバエの学名)と命名するのはおやめなさい。私は三度もその誘惑を振りきりました」と書いた事があった。モーガンには3人、娘がいた。
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