ハエを数える(2)

 1929年の夏、ヴィクターはウッズホールでクロバエの遺伝に関する海外の論文に目を通していた。モーガン・チームの研究成果は遺伝学を確立し、研究者の数を世界中で急増させていた。

「ボス?今日は休みの予定では?」

「ちょっとな」

首を傾げるヴィクターと他の研究員の前で、モーガンは片手を上げ、注目を促した。

「皆、聞いてほしい。面識がある者はもう少ないだろうが……。1891~92年当時、ウッズホールで一緒に研究したブリンマーの日本人学生、ミス・ツダが亡くなった。享年64才。私とカエルの卵細胞分裂に関する共著論文がある」

「彼女は日本へ帰国後、女子の大学を創設し教育に身を捧げた。後継者で、同じくブリンマーで学んだミス・ホシノから訃報が届いた」


 ヴィクターは立ったまま硬直していた。

――今、ボスは何と!?

耳が聞いた音を頭が理解することを拒否する。モーガンの視線を感じた。

黙祷の姿勢で周囲の目を遮断する。

「知ってるか、ミス・ツダって?」「いや」「その論文は読んだことがある」

囁き交わす周囲の声を遠くに聞く。


 夕方になっても夏の戸外は明るい。岸に繋がれたヨットやボートが夕日に染まっている。いつもと同じ、のどかで穏やかな夏の暮れ。

ヴィクターは窓枠に寄り掛かって身動みじろぎもせず海を見つめる。

「ウメ。忘られぬ花の人。最後の最後まで、君は先を行ってしまったんだな。夢を実現して、鮮やかに潔く……」

初老の男は俯き、肩を震わせた。

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