レンズの奥のそのまた向こう

 「カエルの卵細胞の論文は君と私の共著論文として発表しよう。この段落にもう少し加筆してほしい、コメントを入れて今週中に返すから」

初対面から一年近く、モーガン博士の序列でミス・ツダは常にヴィクターの上だった。

「モーガン博士の論文共著者⁉」

苛立ちを周囲に悟られたくなくて、ヴィクターはひたすら手元の顕微鏡を覗き込む。


 数十分後、急な来客で席を外したモーガン博士の机のそばに無造作に置かれた紙の束に目が留まった。清書された原稿で、状況からしてミス・ツダの論文だろう。

「彼女は一体どんなものを書いてるんだ⁉」

ヴィクターは粗探しする気満々で目を皿のようにして読み始めた。そして忽ち内容に没入した。


 カエルの卵の卵割期、胚と原口げんこうの形成。

図と共に記された丹念な観察結果の中で、特に卓抜なのは最初の第一分割の時に生じる分裂面が、後のオタマジャクシの体の左右の中央軸となるべく既に方向付けられているという考察だった。


 ――モーガン博士の評価は正しい。彼女は極めて優秀だ。

実験対象のいくつもの卵の観察すべき点、共通する重要な変化を見逃さず、簡潔に論じている。先行研究に言及しつつも、それに縛られ先入観にとらわれてはいない。実験結果の肝要な点をあやまたない。

科学者の眼、研究者の頭脳だ。モーガン博士と相通じる真理への探究心。


 自分がいかに夜郎自大やろうじだいだったか、忽然と悟った。

いくら母国語同様に英語を解すると言っても、単身異国で勉強を続けることが簡単なはずはない。けれど彼女は黙々と学び、研究し続け、成果を出した。

そう、彼女は自分を遙かに超える知性と能力の持ち主だ。

東洋人であろうが、ミス・ツダが男性だったら、もっと早く事実を認めていただろう。嫉妬や疑念で一年近く無駄にしたりせず……!


 「はは……僕はこんなに愚かだったのか。なんて薄っぺらい奴なんだろう。ただ境遇に胡坐をかいていただけだったとは。男でも女でも、持って生まれた頭脳に驕らず、努力し続ける人間が結果を出す、そんな当たり前のことが……」

落胆と後悔で緑の眼に涙が滲んだ。


 そのまま食事にでも行ったのか、博士は戻って来ない。実験室にいるのはヴィクター唯一人だった。

海面に反射した夕日が窓から実験室の床へ射しこみ、赤く染めている。

次第に薄暗くなっていく部屋の中で、身動きもせず蹲った男の姿が夕闇に溶け込んでいく。



 ヴィクターは読んでいた学術誌からふと顔を上げた。

朗らかな女性の声が外から流れてくる。開いた紙面に指を挟み、雑誌を掴んだまま窓辺に寄り、外を見て息が止まる。

ミス・ツダが笑っていた。木陰で友人女性と立ち話をしている。

アハハッ、と子どものように屈託のない笑い声が響く、それは心底楽しそうに。


 彼は大人の女性がそんな風に笑うのを聞いたことがなかった。

物心ついた時に母は亡く、厳格な祖母に養育された彼は、大人の女性たちの会話で澄ました笑みか愛想笑いか、そんな種類の笑い声しか聞いたことがなかった。


 黒く艶やかな髪に陽光が躍る。

小柄な身体、小さな手、小さな唇、屈託のない笑い声、まるで少女のような。

他でもないその彼女の中に、あの冷静で粘り強い、鋭い知性が同居している……!

ヴィクターは急に動悸が早くなり、全身が熱くなるのを感じた。

自分の身に起きた変化の理由が分からず、機械的な動作で雑誌を棚に戻し、顔を洗いに足早に部屋を出た。

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