遠い日を抱きしめる

「……とりあえず、あんよをキレイにしましょうね」


 ベンチにマットを敷いて、その上にわたあめを乗せる。


 みっしりと生えた芝生の上を走り回ったから、ほとんど土は付着していない。でも、目に見えない汚れがあるだろうから、念入りにシートで拭く。


 ふきふきタイムが完了し、わたあめの水分補給も済ませる。


 ごきゅっごきゅっと音がする。夢中で飲んでいる。喉が渇いていたのだろう。あれだけ遊びまわったのだから当然だ。


 ようやく満足したかと思ったら、ぶんっぶんっと尻尾を振り回し始めた。


 こちらをじっと見ている。これは、何かを要求しているときの顔だ。


「んーー、でも。ごはんも食べたし、いっぱい遊んだし……」


 何を欲しがってるんだろう。


 考え込んでいると、前脚で私の膝をガリガリとやさしくタッチする。


「もしかして、膝に乗りたいの?」


 わすかに舌をのぞかせながら、つぶらな瞳がきゅるんと光る。「うん!」と言われた気がして、思わず頬がゆるむ。


「いいよ。おいで?」


 ポンポンと自分の膝を叩くと、うれしそうな顔で膝の上によじのぼってきた。ふわふわの体を抱きしめる。


 私の肘に顔を乗せ、満足そうにスンッと鼻を鳴らす。どうやら、膝の上でベストなポジションを確保できたらしい。


 ゆるやかな風が心地良い。わたあめのアフロ部が、そよそよと風に揺られている。


 お腹がいっぱいになった気持ち良さと、わたあめのあたたかい体温との相乗効果だろうか。急にまぶたが重くなってきた。


 郡司は今日、午前中のみのシフトらしく、一緒に帰る予定になっている。


 仕事、終わるのまだかな……?


 わたあめを撫でながら、そう思ったところまでは覚えている。


 気づくと、真っ暗闇の中にいた。何も聞こえない。無音だ。


 しばらくすると、目の前に小さなぼんやりとした光が見えた。少しずつ鮮明になっていくそれは、小さな子どもの後ろ姿だった。


 幼い子が背伸びをしている。


 キッチンに立ったその子は、つま先立ちでフライ返しを手にしていた。たどたどしい手つきと、いっしょうけんめいに背伸びをする姿を見ていると、胸が苦しくなった。


 自分で自分を抱きしめると決めた。


 それなのに、体が動かない。金縛りにあったみたいに、指一本動かせなかった。


 夢中でもがいていると、小さな背中の傍らに、人影が見えた。すらりと背の高い男。


 郡司だった。


 そっとしゃがんで、郡司は遠い日の私と視線を合わせる。とても、やさしい顔をしている。そして、いつだったか私に言ってくれたのと同じセリフを口にした。


『えらかったね』





 肘の部分にやわらかな感触があって、目が覚めた。


 わたあめが、かすかな寝息を立てながら膝の上で眠っている。左肘には、わたあめの後頭部が乗ったままだ。


 この感触だったのか、と考えたところで、隣に郡司がいることに気づいた。


 自分の右手が、彼の手に繋がれている。


 郡司は、ついさっき、夢の中で見たのと同じ顔をしていた。


 とても、やさしい顔。


 急に胸が苦しくなった。息が出来ないくらいに。無意識に、強く手を握っていたらしい。


「どうしたの」


 郡司が心配そうにのぞき込んでくる。


「……夢、見てた」


「どんな夢?」


 少しだけ悲しかったけど、とても幸せな夢だった。あの日、遠い昔の私を抱きしめてくれたこと、私は一生わすれないと思う。


「幸せな夢だったよ」


 私は、郡司の手をゆっくりと握り返した。顔を上げて、郡司の顔を見る。きれいで、気だるげで、やさしい表情だった。




<了>


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気だるげ男子のいたわりごはん 水縞しま @htr_ms

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