第13話 秋が深まって(5)

 でも、その前に、先生が言った。

 「カナダかぁ」

 目は、その夕焼けでいっぱいになった空を見ている。

 何か懐かしい何かを見ているように。

 それとも、人間は夕焼けを見るときには、こんな表情になるのだろうか。

 「わたしはオーストラリアだったなあ」

 一瞬でわからなくなった。自分がだれに対して何を考えているのか。そんな未融みゆを見て、先生はくすりと笑う。

 ふしぎだった。

 この先生はまちがいなく美人だし、すごい「チャーミング」って感じだ。

 でも、あの瑠璃るりといっしょにいたときみたいに、いちいち「なんでこの子こんなにきれいなんだろう?」と考えさせてしまうような圧力がない。

 この先生のほうがずっと友だちっぽい。

 未融のそんな思いには、たぶん先生は気づいていない。

 「でも、案外、会えるかもよ」

 先生はいたずらそうに言った。

 「離れてるって言ったって、同じ地球の上なんだし、行ってもまた戻って来ることってできるんだから」

 ああ、地学なんかやってるひとは、そんなスケール感か。

 未融も、だから、笑ってみる。

 先生は続けて言った。

 「でも、たしかにおんなじひとに会えても、たしかに、高校生のときのあの子と、高校生としてもういちど、っていうのは絶対にできないよね。それは、残念」

 橋を渡る。

 もう少しで、瑠璃が走って行った信号だ。

 「先生のそのひとって」

 未融はわからないながら、きいてみた。

 「先生を置いてオーストラリアに行ってしまったんですか?」

 だったらひどい。

 ひどい子なのかも知れない。

 でも、留学を勧めたといって未融に怒っておいて、でも留学に行ったあいつほどではない。

 「あ、いや」

 先生の否定のことばがかわいかった。

 「わたしがね、オーストラリアに行ったの。大学卒業までね」

 「え?」

 だめだ。

 どっちが悪い子か、とかはもうどうでもいい。

 この先生、英語、できたんだ。

 英語だけのところで暮らしてきたんだ。

 地学の、つまり英語じゃない科目の先生なのに。

 そう思うだけで体がひとりでに半歩ぐらい後ろに引く。

 「で、好きだった後輩がいてね。わたしもその子のこと好きだったんだけど、その子、わたしが好きなのでは十分じゃなかったらしくてね。もっと好きじゃないとだめ、っていうくらいに好きだったらしくて」

 どういうことかわからないけれど、きかないでおく。

 まだ「先生英語できたんだショック」が続いている。

 「で、オーストラリアに行くっていうのを、わたし、その子になかなか伝えられなくて、さ。ちょっとその子を混乱させちゃって」

 橋は渡りきった。瑠璃が引っかかった信号へと道を下りていく。

 「最後にはちゃんと話もできたんだけど、でも、やっぱり思うよ。卒業まであの学校にいたら、わたしとあの子、それとあの子の友だちとか、つまり、わたしたち、どうなったかな、って」

 先生はしばらく黙って歩いた。

 未融もついて行くけど、何も言わない。

 いや、まわりが英語ばっかりってどうでした、ときいてみたいのと、「うん。たいしたことないわよ」と答えられたときのショックとをはかりに掛けた状態がつづいて、何も言えない。

 「だからその瑠璃さんもいまそう思ってるよ、たぶん」

 言って、先生はそのホットいちごミルクをくっくっくっとぜんぶ飲んでしまった。

 未融は反応ができなかった。

 信号待ちに引っかかったらどう反応しようか考えるつもりだった。でも、先生と未融がたどり着くちょっと前に信号は青に変わって、信号を待つ時間はなかった。

 甘いミルクコーヒーは未融の手のなかですっかり冷めてしまったけれど、いまは寒い空気に足が触れているのが少しも気にならない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る