翼をください
文学少女
悲しみのない自由な空へ
モネ、だった。私が初めて絵というものに私の胸の奥底にある魂を引きずり込まれたのは、モネの絵を見たときだった。小学五年生のとき、私は、美術が好きな母に連れられ、しんと静まり返った美術館を歩きながら、ぼんやりと絵や天井や柱を眺めていて、ひどく退屈していた。大きな音を立ててはいけない張り詰めた空気が立ち込め、何がいいのかわからない、救世主や聖母が描かれた宗教画が真っ白な壁に並び、人々はその絵を凝視しており、私はその理解できない空間から一刻も早く抜け出したかった。そんな私とは裏腹に、母は興味深そうに一つ一つの絵を隅から隅まで丹念に眺めていて、私はいつ帰れるのだろうかと心が落ち着かなかった。母と一緒に別の展示室に行った、そのとき、真っ先に私の目にとびこんできたのは、モネの「日の出」だった。その絵は、絵でありながら、朝の青白い冷たく澄んだ空気が漂っていて、淡い水色の美しい水面がさらさらと揺れていた。朱色に燃える太陽が、冷たい、鏡のように冴えた水面に一筋の朱色の光を写し、その光が波に砕かれ、ちらちらと、無数の破片になって光る。私には、その様子の静止画ではなく、その映像が頭の中に浮かび、そしてその場の冷たい空気感が私の肌にそっと触れるようであった。なんて美しい絵なのだろうと、私はその絵を眺めたまま、しばらく、呆然と立ち尽くしてしまった。それはただ風景を描いた絵ではなく、絵を描いた人物の感情が私に伝わってくる、何か、生命力を感じさせる、生きた絵だった。その絵には、他の絵とは違って、私の魂に作用する力があった。モネの絵は、私の心臓をぎゅっと握りしめて離さなかった。
それ以来、私は絵というものに囚われ、ずっと絵を描き、絵のことを考えて生きてきた。高校生になっても、授業中も、休み時間も、放課後も、私はずっと絵を描いていた。定期テストの余った時間も、私は絵に費やした。早く終わってしまう古典のテストは、たくさんの時間を絵に注ぐことができた。問題用紙の、隙間、漢文の下の大きなスペースに、大きなビルが立ち並ぶ都会の街並みを描き、その街の中心に大きなバベルの塔を建てる。ビルの上では車が翼を生やして優雅に飛び交う。そして、ビルの上の空には、街がそのまま鏡写しになったもう一つの街が広がる。そしてその空にある街から、たくさんの人が降ってくる。私は脳みそからあふれ出る想像力に身を任せ、問題用紙の隙間にシャープペンシルの黒い線をどんどん付け足してゆく。すると、いつのまにか大きなチャイムの音が教室に鳴り響く。私は架空の街が描かれた問題用紙を、絵が内側になるように折り畳み、そっとリュックの中にしまう。高校生にもなってこんな落書きをしている自分が恥ずかしくて、私はその絵が見つからないようにしていた。
先生が解答用紙の枚数を数え終わり、終わりの合図を告げると、私は足早に教室を出て、美術室に向かった。廊下の窓から見えるのは鼠色の世界で、窓には雨粒が絶えずぶつかり、つーっと、静かに、窓の上を滑っていた。昨日、関東が梅雨入りしたというニュースが流れていたのを思い出した。二階の廊下の突き当り、そこに美術室はあった。美術室の扉を開くと、油絵に使う画溶液の、独特な匂いが私の鼻を刺した。一番左の列の、前から二番目の席で、先輩が、油絵を描いていた。放課後、美術室に来ると、先輩はいつもそこで絵を描いていた。先輩は私と同じ美術部で、美術部全体としての活動は毎週水曜日だけだったけれど、他の日も、放課後は自由に美術室で作品を制作していいということになっていた。
「先輩、早いですね」
私がそう言うと、先輩は、細くて白い指で握っていた筆の動きを止め、振り向き、綺麗な瞳を私に向けた。振り向くと同時に、先輩の、長く、美しく艶やかに輝く黒髪がさらりと揺れた。先輩の髪は、山に流れる、澄んだ、透明な小川のようだ。先輩は美しかった。それは、派手な装飾をまとった、ごてごてとした美しさではなく、静かで、端正な美しさだった。
「三年生になると、科目数が減るのよ」
そう言って先輩は、目線を絵に戻した。先輩の声は、私の鼓膜をそっと包むような、私の鼓膜を透き通るような、優しくて、心地のいい声だった。
大きなキャンバスには、ガラスのように澄んだ水色の青空が広がっていた。その青空に、白く燃える、大きな入道雲が浮かび、雲の底には菫色の陰影があった。そして、その空の中を、「首のない」鷹が羽ばたいていた。大きく広げられた、黒い翼には、紫がかった銀色の羽がちらちらとのぞき、輝いていた。純白の尾羽が、青空を背景に美しく伸びていた。写実的に、精密に描かれた鷹の体が、首がないという非現実感を際立たせ、不気味で、幻想的で、見た人を釘付けにする力があった。
私は、先輩の絵がすきだった。先輩の絵は、私の魂に作用する、言葉にしがたい力強さがある。私の人生を変えてしまうような、あまりにも大きな力が、先輩の絵を見ると、私にのしかかってくる。初めて先輩の絵を見たとき、私は、モネ以上に、私を襲う力を感じた。先輩の絵は、死のように冷たくて、残酷で、緻密で、華麗だった。その絵は、白のワンピースを着た少女が、ただこちらを向いていた。いや、睨んでいた。その濁った黒い瞳は、私のすべてを吸い込み、虚無を感じさせながらも、その奥底で業火のごとく燃え上がる灼熱の炎を感じさせた。これは、怒りであり、魂の叫びなのだと思った。少女が、私を睨みつけ、ただずっと、私を睨み続け、思わず、背筋が凍るような、恐怖にも似た感情が湧いた。私は、生まれてから、ずっと、こんな絵を求めていたのだと、その時分かった。
「先輩は、大学、どうするんですか」
「ほんとうは美大に行きたいんだけどね。親が許してくれないのよ。美大は学費が高いし、私は勉強ができないわけではないから、普通の大学に行きなさいって、父が言うの。学費を払うのは父だから、父が許してくれないと、ダメなのよ」
「そうなんですね……」
私は、先輩は美大に行くとばかり思っていたから、先輩の言葉を聞いて、戸惑ってしまった。
「父はいい大学を出た人だから、美大に行きたいって私を、信じられないって目で見るの。死んだ母も、いい大学を出た人だった。母が死んでから、父は私にずっと言っていたわ。いい大学に行きなさいって。いい大学に行くことがすべてだと思っているのよ。そんなわけ、ないのに」
そう言って、先輩は、「首のない」鷹を、まっすぐに見つめる。その顔に刺す影は深く、表情は、すさまじく陰鬱だった。けれど、その瞳は、私が初めて見た先輩の絵に描かれていた、濁っていながら奥底で灼熱の炎を燃やす、あの少女の瞳だった。先輩は、なぜ「首のない」鷹を描いているのだろう。
私は先輩から少し離れた席にリュックを置き、美術準備室から制作中の絵と画材をその席に持ってきて、絵を描き始めた。私が白いキャンバスに、さっ、さっ、と鉛筆を走らせると、その小さな音が、妙に美術室に響いた。そして、下の階から、吹奏楽部のトランペットやフルートの音色がかすかに聞こえてくる。雨はどんどん強くなっていき、雨粒が強く地面を打ち付ける音が轟き、私が窓から鼠色の景色を眺めていると、一瞬、ピカッと真っ白な閃光が景色を覆い、また鼠色の景色になり、少し遅れて、腹の底を震わせるような雷鳴の重低音がごろごろと轟いた。雨の音は、やまない。
「すごい雨ね」
先輩が、寂しそうに窓を見つめながら、小さな声で、そう呟いた。
家に帰っても、自分の部屋で、私は、絵を描き続ける。私の机の周りには、私の絵が描かれたコピー用紙が高く積まれていて、それが何列も並んでいる。ただひたすらに絵を描くとき、コピー用紙が一番安く、枚数も多く、便利だった。美しい曲線を描く、バレエダンサーのしなやかな体の大まかな形を、さっと鉛筆でとらえ、その次は、扇子を持つ手の形をさっと鉛筆でとらえ、その次は、着物を着た女性の形をとらえ、という風に、私はただひたすらに、形を正しくとらえる練習をする。家に帰ってからこうして絵を描くのが、中学時代からの習慣だった。ただ、ひたすらに、描く。何も考えずに、ただ、描き続ける。そうしているとき、私は一番幸せだった。すると、部屋のドアを叩くこんこんというノックで、その幸せな時間は、無慈悲に、中断された。扉を少し開き、
「夜ごはんできたわよ」
と、母の甲高い声が私の耳を刺す。いやな声だ。母は無数の絵が積まれた私の部屋を訝しそうに眺め、
「あんた、いつまで絵を描いているつもりなの。もう来年受験生でしょ。そろそろ勉強したらどうなの」
と、黒板を爪でひっかいた音のような、甲高く、大きく、不快な声で言い、その声を聞くと、私は、触ってほしくない神経を、そっと、優しくなでられているような感じがして、虫唾が走り、頭が痛くなる。
「うん、そうだね」
私は手のひらに額をのせて、突き放すように、そう言った。母はドアを閉めて、食卓へと向かった。私は、深く息を吐き、一旦、心を静めた。そして、もう私は高校二年生になってしまったのか、と思った。ずっと絵を描いていた。絵のことだけを考えていた。それでよかった。けれど、もう私は、進路を考えないといけない年になってしまった。私は、何になりたいんだろう。絵は好きだ。だからといって、美大に行きたいわけではない。私は、絵が描ければいい。でも、どうすればいいのだろう。私には、まだ、あまりよくわからなかった。
食卓に行き、テレビを見ると、「旅立ちの日に」の合唱が流れていた。
限りなく青い空に 心ふるわせ
自由をかける鳥よ 振り返ることもせず
勇気を翼に込めて 希望の風に乗り
この広い大空に 夢を託して
少年少女の残酷なほど純粋な歌声が重なり、美しい合唱の旋律を紡いでいた。合唱をぼーっと聞いていた私に、母が言った。
「あんた、なんでずっと絵なんか描いてるの?」
※※※
次の日も雨だった。その雨は、強くもなく、弱くもなく、抑揚もなく、淡々と降り続いていた。美術の授業がはやめに終わり、美術室から教室へと帰るとき、窓から、メトロノームのようにずっと一定のリズムで降り続ける雨を眺め、私は昨日の母の「なんでずっと絵なんか描いてるの?」という言葉を思い出していた。なんで絵を描いているだとか、そんなことは考えたこともなく、ただ漠然と、好きだから、という理由でしかないように思えた。では、その先は、どうなのだろう。絵を描いて、私はどうしたいのだろう。
教室に帰るとき、周りの人はみな誰かと一緒に話しながら歩いていて、いつも一人でいる私は、そのことを特に意識しているわけではなかったけれど、こういう雨の日には、なんだか、すごくさみしくなってしまう。私は一人でいるのが好きなのか、嫌いなのか、よくわからない。
帰りのHRが終わって、私はいつものように、真っ先に美術室に向かった。扉を開いても、画溶液の匂いはしなかった。まだ、美術室には誰もいなかった。私は、いつも通り美術準備室から画材とキャンバスを持ってきて、絵を描き始めた。それは、人が空に向かって、まっすぐ腕を伸ばして、大きく手を広げている絵で、これは、あまりにも天気がいい日に私が良くやってしまう癖だった。ガラッ、と扉を開く音がして、振り返ると、先輩だった。
「こんにちは」
相変わらず、心地のいい声だった。
「こんにちは、先輩」
「新しい絵の下書き?」
「はい、そうです」
「素敵な絵になりそうね」
「え、嬉しいです。頑張ります」
「うん」
そう言って、先輩は微笑んだ。いつも先輩は無表情というか、物憂げな表情を浮かべているから、微笑んだ顔を見ると、私は嬉しくなる。先輩はいつも通り、私の席から少し離れた、一番左の列の、前から二番目の席に向かった。先輩が荷物を下ろしたところで、私は、ふと、あのことを聞こうと思った。
「先輩、すこしいいですか」
先輩は、少し驚いたようで、机に腰をかけ
「どうしたの? 急に改まって」
と、不思議そうに私を見た。
「先輩は、どうして絵を描いてるんですか?」
「どうして、ね」
そう言って、先輩は上を見上げ、考えを巡らせているようだった。その間、雨の音がなんだか大きく聞こえた。普段はなんとも思わない秒針の針の音を、ふと意識してしまったときのように。
「なんか、君がそういうこと聞かれたのかな。まぁ、いいや。とにかく、質問に答えましょう。……驚かないで聞いてほしいんだけど」
先輩は、そう言って、私を見た。その目は、あの瞳だった。濁っていて、燃えている、あの瞳だった。
「私はね、絵で人を殺したいのよ」
先輩は、あどけない子供のような笑顔で、そう言った。その笑顔は、優しくて、端正で、けれど、かすかな陰りがあった。一輪の白百合が太陽に照らされ純白に輝き、その隙間に薄暗い影が差している、そんな笑顔だった。私は、先輩のそんな笑顔を見るのは初めてだった。
「つまりね、これでもかって人の心を刺して、見た人が自殺してしまうような絵。私はね、そんな絵を描きたいの」
私は、その突飛な考えに呆気にとられながらも、先輩のその考えに、その考えを語る先輩の瞳に、どんどん吸い寄せられていった。先輩の瞳が私のすべてを吸収してしまうように思えた。
「『若きウェルテルの悩み』を読んだ人が自殺してしまう、みたいなことですか?」
「まぁ、そうね。大体そんな感じ。そんな直接的じゃなくても、素晴らしい創作物というのは、往々にして私たちの心臓をつかまえるの。それは、良い映画だったり、美しい詩だったり、綺麗な音楽だったり、心を深くとらえる小説だったりする。それは、私たちの心臓をつかまえるの。握って、握って、離さないの。それは、私にとって『ドリアン・グレイの肖像』であり、あなたとっては、モネの『日の出』だったかしら。とにかく、そういう創作物の人に影響する力の果てが、人を殺すことだと思うの。私はね、そういう絵が描きたいの。人の生死を決めてしまうような絵。そんな絵が描けたら、素敵だと思わない?」
私は、心地のいい先輩の声で奏でられるその危険で素敵な考えに恍惚としてしまった。たしかに、私にもそんな絵が描けたら、なんて素敵なのだろう。私は胸が躍った。胸が弾んだ。少年が、きらきらと輝く鮮やかな紫色の羽をもつ蝶が若緑の草むらの上で華麗に舞い踊っているのを見つけたときのような、そんな胸の高鳴りがした。
「すごく、素敵です。私も、そんな絵を、描いてみたいです」
零れ落ちるように私は言葉を漏らした。
窓から見える外の景色は、ずっと鼠色で薄暗く、陰鬱で、私の気分も晴れない。今日も、黙々と、先輩と私は作業を続け、すっと先輩の筆が滑る音、さっと私の鉛筆が走る音、淡々と降り続ける雨の音が、美術室の音の世界を構成し、その間を縫うように、ぼんやりと、「翼をください」を歌う、合唱部の、綺麗なハーモニーを織りなす歌声が、下の階から聴こえてきた。すごく懐かしいように思えて、私はその雨音と溶け合う綺麗な歌声に耳を澄ました。
この大空に 翼を広げ
飛んで行きたいよ
悲しみのない 自由な空へ
翼はためかせ 行きたい
先輩の、筆を動かす手が止まった。先輩は、震える手でそっと筆を机におき、力が完全に抜け、だらりと細い腕をぶら下げ、呆然と、「首のない」鷹の絵を見つめていた。先輩は、魂をすべて絵に移し、自らの魂を失ってしまったかのように見えた。先輩の後ろから、私も、先輩の絵を見つめた。そこには、あまりにも美しい絵があった。「首のない」鷹が、先輩に命を吹き込まれ、たくましく、力強く、大空を羽ばたいていた。「首のない」鷹は、生きていた。先輩の絵が、ついに完成したのだと、私は思った。
※※※
翌日、土曜日の四時間目は古典で、私はこの授業がひどく退屈で仕方なかった。古典の教師は年配の男で、顔と体は丸々と太り、頭にはわずかな白髪が残っていて、頭皮には褐色のシミが点々とついていた。興味の湧かない授業の内容と、ささやくように放つ優しくて小さな声が、私の耳を撫で、私の眠気を誘った。私は無心で、窓から外の景色を眺めていた。
深緑の田んぼが一面に広がり、遠くに霞んだ山々が浮かぶ、その上に、雲一つない、綺麗に澄んだ透明の青空が広がっていた。先輩の絵に描かれていたような、ガラスのような美しい青空だった。青空は鮮やかで、眺めていると、青い炎を思わせた。その青い炎のような広大な青空で、真っ白な鳥が、これでもかと大きく翼を広げ、華麗に、なめらかに滑空していた。白い鳥が青空を羽ばたく様は、海底から眺めた、海の中を泳ぐ魚のようだった。白い鳥は、自由だった。あの鳥は、どこまでも飛んでゆけるのだろう。遥か遠く、地平線の向こうにある大地へと、広い海の上を越え、高くそびえ立つ山々を越え、どこまでも、どこまでも飛んでゆけるのだろう。私の背中にも、肩甲骨のそばから、あの、大きくて、真っ白な、美しい翼が生えたらいいのに。どこまでも自由に空を飛べる、翼が生えたらいいのに。
黒板には「源氏物語」の文章が並び、その横に細かく品詞が書かれ、係り結びなどが図示されている。一方、私のノートには「源氏物語」の文章は一文字もなく、先ほどまで眺めていた大きな白い鳥が羽ばたいている。ノートという空は、鳥には窮屈そうだった。
重く鳴り響くチャイムの音が、授業の終わりを告げた。チャイムの音の余韻がかすかに震える中、私は鳥を描いたノートをそっと閉じ、窓の外を眺めた。相変わらず、空は堂々と、優雅に、自身の澄んだ青色を誇っている。
HRが終わり、教室を出ると、ドアの横に先輩が立っていた。
「どうも」
「どうも……先輩。何してるんですか」
「あなたに話があるのよ」
「話、ですか」
「そう、話」
と言って、先輩は廊下の窓から外を眺めた。その先輩の目は、あの美しい青空を見ていた。先輩の瞳に、青空が映り、麗しい海が瞳に浮かんでいた。青空を眺める先輩の瞳は輝いていて、そしてやはり、どこか濁っていた。先輩は、なんだか、寂しそうだった。
「ついてきて」
そう言って、先輩は歩き出した。
先輩が、重々しい音とともに、所々茶色に錆ついた白い鉄のドアを開いた。ぬるい風が私の肌をそっと撫で、髪を揺らした。先輩に続いてドアを抜けると、そこは屋上だった。屋上から見える青空は、端から端まで、どこまでも果てしなく広がっていた。一面が青空だった。青空は連日の雨ですっかりと洗われたようで、宝石のように透き通っていて、綺麗で、美しい。その青空で激しく燃える太陽が、鋭い日差しで容赦なく私の肌を突き刺した。夏が近づいているのだと思った。
先輩は、私に背を向け、後ろで手を組み、美しい青空を見上げ、話した。
「ごめんね、急に呼び出して。あなたは、これから私が話すことを、黙って聞いててくれればいいの。そして、私が何をしても、何もせずにじっとしていればいいの。絶対にね。よし、いいね。私はさ、いや、私たちはさ、なんだか、よくわからない壁に閉じ込められているのよ。その壁はさ、私にはどうにもできないの。ただ、その壁は間違いで、その壁は壊すべきだと分かっていて、けれど、壊せないの。私があまりにも無力だから、私にはどうにもできないの。ずっと鳥かごにいるみたい。どう頑張っても、ダメなの。自分が、情けないの。ずっと。間違ってるってわかるだけで、でも、間違わないと生きていけなくて。それがわかってるんだけど、わかってるんだけどさ、間違う自分が許せないのよ。私は、世間が求めているものになるつもりはない。純粋にいいものを求め続けて、自己満足の絵を描き続けて、誰にも見られず、何者にもなれずに、ただこの世界をさまようんだよ、私は。わかってるの。何にもできないし、何にもなれない。私はさ、ただ、空を飛びたいのよ。鳥になって、なにも私を縛らない、自由な空を、どこまでも飛びたいの。地平線の向こうに行きたいの。そして、空から、どこまでも広がる群青の海を眺めたいの。それだけなのよ、結局。鳥かごの中から飛び出して、この美しい青空を飛びたいの。頭を空っぽにして、何も考えず、大きな白い翼を広げて、この美しい青空を飛ぶのよ、私は!」
声を裏返し、叫んで、先輩は、一目散に柵へと走り、颯爽と、その柵を飛び越えた。先輩は、宝石のように透き通った青空を、大きな白い翼を広げて、羽ばたいたのだ。先輩の背中には、たしかに、白い翼が生えていた。
私は、先輩の、「首のない」鷹の絵を思い出した。
翼をください 文学少女 @asao22
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